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「辺境こそ、”玄関”」という考え方

”長野オリンピック回想”続編を書こうとしていたら・・

「'98 長野冬季五輪」の回想記事の続きを書こうとしていたら、長野に赴任していた時代の思い出が次から次へと出てきて、寄り道をしてしまった。そして、その寄り道で、自分のその後の仕事への姿勢に、ものすごく大きな影響を受けた話を思い出したのだ。今日の”長野昔話”は、その話を書こうと思う。

長野県最南端の村


舞台は長野県天龍村(てんりゅうむら)。おそらくほとんどの方が知らないことと思う。南北に長い同県の最南端で、静岡と愛知に接している。

Google Mapsより

Google Earthで見ると、以下のような感じの地形だ。

Google Earthより

天竜川の両岸にV字型の渓谷。そこをうねるように道路とJR飯田線が通り、斜面に集落が点在する。人口はたった1000人程度。

諏訪湖畔の岡谷(おかや)からJR飯田線の特急に乗っても、3時間10分。愛知県の豊橋から特急でも、これまた1時間50分。秘境という言葉が似合う所だ。

独り駐在 孤独で自信のない日々


私は長野県の放送局に務めていたが、1年だけ南信州の飯田という場所の駐在になった。当時私は世界中の国際報道の現場を駆け回ることを夢見ていたが、なかなか叶わず。未知の地、長野に転勤になった後、さらに県内の南の端にひとりで赴任することになったのだ。

その後ここは、忘れられぬ地、大好きな地になるのだが、駆け出しの若造だった私には、小さな田舎町は正直寂しすぎた。南アルプスを望む眺望は最高の美しさなのだが、山の高さゆえ日が暮れるのが早いことも寂しさに拍車をかけた。テレビをつけても、同期が、国会だの、ニューヨークだの華々しく活躍している姿をうらやましく呆然と見る日々だった。それに比べて自分は・・長野市までもバスで3時間近くかかる場所で、世界からも、東京からも、いや県庁所在地長野市からも、なんか完全に切り離されてしまった感覚に襲われていたのだった。

長野県 飯田市


信州に春を告げる花


普段取材するにも、ニュースを探すのは結構大変だった。そして見つけても、そのニュースは長野県内の放送でも扱いが悪かった。

2月の中旬ぐらいだっただろうか。この日も、私の手帳には大した予定はなかった。しかし、県の最南端の天龍村で梅と寒桜(かんざくら)が咲いているというので撮影に行くことにしていた。

実は、この村で梅や寒桜が咲くことは長野県全体にとって意味があった。季節は南から北に上がっていくので、最南端で花が咲くことは、「信濃の春がいよいよ始ままるよ!」というメッセージなのだ。

南信州新聞のHP↓

長野県のHP

長野県のHPより

ひとりで、凝って、梅を撮る


さきほどは、国際ニュースの現場に行けず田舎にいることを嘆いていたと書いたが、実は私は映像を撮ることが大好きで、撮っている時は孤独や不安を忘れることができた。

この日は、まずある程度の予定原稿を書いて長野の局に送ったうえで、車に撮影機材を入れて、ひとりで運転。1時間半ちかくも、さきほどのGoogle Earthのような地形の道をくねくね走り、天龍村に到着。

斜面にある鉄道の無人駅脇にある寒桜と、天竜川近くの梅を撮影。背景の山や川からピントを花に送って撮影してみたり、電車が来るのをひたすら待ってそこからカメラを花に振ってみたり。楽しみながら撮影を続けた。そして周辺の人のインタビューもひとりで撮影。

でも、何をしても独り。
三脚で指を挟みそうになってイテテテと声をあげても、独り。
「ピン送りうまくいったぜ!」「春が来た感じ、出てるな!」と自己満足でうまく撮れた喜びを声にしても、独り(笑)

そして、またハンドルを握って1時間半の道のりを帰る。その間も原稿をどのように書くか頭では考えながら(危ないが)。そして支局に到着したら、映像を送り、原稿を書き上げて送り、デスクと電話で細かい文言をやりとりをし、原稿を仕上げていく。

放送で流れるのは、たった3、40秒、いやもっと短いかもしれないが、そのニュースを作るのには、これだけの手間暇がかかっている。しかも放送時間に間に合うように時間も逆算して全ての工程をやっているので、撮影技法や原稿表現に凝りながらも時間と戦うことを要求される。

また、”暇ネタ”扱いされる


しかし、ショッキングなことが。

長野市かどこかで大きな事件があり、往復何時間もかけたこのネタが落とされてしまったのだ。

「ごめんねー。まあ、まだ腐らないでしょ。また明日でもやるわ」・・・電話口のデスクは実に呑気だ。送った映像すら見てくれていないみたい。まさに、私が大嫌いな業界用語で言うところの「暇ネタ」扱いそのものだった。記者がいくら梅の花を凝って撮ろうが、大事件でもスクープでもないし、どうでもよいと考えられている。放送はたった数十秒程度のものだからやってくれてもいいのに、完全に軽視されている雰囲気が、電話口から伝わってきた。

「じゃあ、悪いけど事件でバタバタしてるから切るよ」ガチャン。
部屋には、やっぱり私独り。虚しい静寂。
なんか力が抜けてしまった。

「自分は何様のつもりだったのか」と、衝撃を受ける


しかし、後日放送の後、私は地元の人から予想外の嬉しい反響をいくつかもらったのだった。

「あー、天龍村のあの梅咲いたんだよね。見たよ。いよいよ春かあ。映像撮ったのAJさん?すごい綺麗だったね」
・・・実際は、もっとほんわかした優しい響きの南信州の方言だった。

私は、後頭部をガーンと殴られたような気持ちになったのを覚えている。

「私は何様のつもりだったんだろうか」と。「暇ネタ」という言葉に反発を抱きながら、自分もそう思ってたのではないか。何時間もかけて撮りに行ったこの数十秒の春の便り、ものすごく大事なニュースじゃないかと。そして届けるべき人に届いていて、こんなにリアクションをしてもらえる。こんな贅沢なことはないじゃないかと。

それと同時に思った。

色々凝って撮影している時、村の人をみつけてインタビューしている時、運転しながら原稿を頭で必死に仕上げている時、自分は夢中でやっていたし、心がこもっていた。これは正しいことだったんだ。中央から自分がどう評価されるかどうかなどという物差しで考えていた愚かさ。恥を知った。

忘れられぬ「柚餅子(ゆべし)」


もうひとつ、天龍村にまつわる話。

皆さんは、「柚餅子(ゆべし)」という食品をご存知だろうか。
全国各地にもあるみたいだが、この天龍村のゆべし、本当においしかった。

中をくり抜いたユズを器のようにして、そこに特性のみそやクルミを詰め込んで蒸し、3~4カ月ほどのもみ作業を重ねて日陰干しするという方法で作る保存食だ。


忘れられぬ言葉 「ここは信州の玄関」


当時村から消えかけていた伝統食を残したいと1975年ごろから、地元の人たちが組合を作って生産してきた。ある日、またこの天龍村を訪れて、この組合を取材したのだった。

その時に、組合長の女性に言われた言葉が、私は今も忘れることができない。

実は、先に言っておくと、上記のリンクの新聞社の記事に書いてあるように、過疎高齢化で組合員が減少し、柚餅子の生産が維持できなくなり、2018年に組合は解散したのだそうだ。しかし、その後、製法を引き継ぐNPOができて・・・と伝統が受け継がれているらしい。

私がお会いしたのは、今からもう20年以上も前のことになるが、その元組合長の女性の方は今はどうされているだろうか、と思っていたところ、この記事によると伝統の継承を中心的にやっていらっしゃるようで、本当に嬉しかった。

さて、この方が言った言葉とは・・・

「私は、ここは、信州の”玄関”だという気概でやってるんです。
だってそうでしょう。長野県の一番南で、南隣は愛知と静岡。向こうから来たら、ここが入り口ですよ(笑)」

たったこれだけなのだが、私はこれまた、頭にガーンとショックを受けたのだった。

まさに発想の転換。南の端ではなく、南側の玄関。

さっきの梅と寒桜だってそう。秘境に咲いた花じゃなくて、信州に春を告げる花が咲いた、春がスタートする場所。

私は、この後、国内外で、いわゆる”僻地”や”辺境”と呼ばれる場所に行くことがあったが、常にこの言葉を思い出した。どこかにとって「端っこ」の場所は、その先にある場所との「出入り口」だ! そういう場所は、異質なものが共生していたり、面白い場所であることが多かった。

なんか考えすぎかもしれないが、人生もそうかもしれない。

組織でも家庭でも、精神的な居場所でもいい。
自分は「辺境にいる」と感じた時。
実は、その場所は、その次に行くべき世界に最も近い場所なのかもしれない。

「辺境は、玄関」かもしれない!


長野県 天龍村


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きょうも最後までお読みいただき、ありがとうございました。
AJ  😀




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