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可哀想じゃない、

こんにちは、ピアサポーター愛音です

友人がこんなことを話してくれました。
あるお店の前、点字ブロックのところに自転車が停められていました。視覚障害者の方が安心して外でも買い物ができるためにあるはずの点字ブロックなのに、そこには自転車があり点字ブロックがあるのに使えない状態。本当にこれでいいのか、いいはずない!!自転車を移動させながら、怒りがわいたそうです。

この話を聞き、まだまだ障害への理解、興味、関心、そして支援が遅れているなと感じました。点字ブロックがあるだけでは意味がない。そこをちゃんと使えないと点字ブロックはないと同じことです。

ただ自分が精神障害者にならなかったら、私も障害への興味や理解はしていなかったでしょう。
そして「障害にどんなイメージがありますか?障害者をどう感じますか?」と問われたら「大変だと思う。あと可哀想です」そう答えていたと思います。
なぜなら障害があるのは不自由なことがありそうだし、なりたくてなったわけではないから可哀想だと思っていました。

障害があることは可哀想なのか?この言葉に疑問を感じます。私にも障害に関わる辛いこと、苦しいこと、悲しいことは多々経験しています。だけど可哀想とは思っていません。
なぜなら家族は理解者ですし、信頼できる主治医がいて、私の障害を理解してくれる上司がいます。生きていく場所ごとに安心をくれる人がいること、これは幸せだと思っています。安心や理解を得ることで可哀想と自然に思わなくなりました。

先程の点字ブロックの話に戻りますが、視覚障害の方の安心である点字ブロックを使えない状態にしていること。これは意識の低さだと感じます。もし家族に点字ブロックを必要とする人がいたのなら「ここに自転車を置かないでください」など声に出す方もいるかもしれない、なぜなら点字ブロックがどれだけ必要で大切な意味があるものか、知っているから。知っている人は行動に移せる可能性も高い。

いきなり世の中に障害への理解を高めようとしても上手くいきません。まずは知ってもらうことがスタートでしょう。私の理想になってしまいますが、小学校から障害について考える時間を作ってみたらどうなるのかと考えています。小学生のとき授業で数回障害についての授業がありました。でもその時は点字と車椅子くらいしか題材として上がりませんでした。
だから障害には様々なケースがあることを、小さい時から知っていれば世の中が変わっていくのではと思います。

障害そのものだけが大変で可哀想なのではありません
知ってもらえないことが大変と可哀想へと繋がってしまう

ピアサポーターとしてゆくゆくは障害への興味関心を深めることをしていきたいな、

*愛音*

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