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自分を責めてしまいたい時も、私は私を肯定する

今日の私は、朝からなんだか動けずにいた。授業は午後なのだけれど、いつものように早起きをして、ヨガや執筆、勉強をしたかった。

でも、体が重くて起き上がれなくて、結局2時間くらいベッドにいた。そんな日もあっていい。あっていいのだけど、気分は晴れない。

というのも、昨日嫌なことに出くわしてしまった。これは私が私を責めてしまいそうなもので、私が私を否定してしまいそうなこと。

でも、そうする必要はないことを、私は経験上知っている。むしろ私は私を肯定すべき状況にある。だけどそれが一番むずかしいんだよな。


自分を責めてしまいたい時


自分ではどうしようもない、ただ不運としかいいようのない嫌なことに出くわした時。私はそれを忘れてもいいし、嫌な感情を味わってもいい。

今回の私は嫌な感情を味わいたいのだけど、忘れたい気持ちもある。人の感情とは本当にむずかしいもので、頭で思うようにはいかない。

いまの私は、ただ不運としかいえないこの出来事において、私自身のことを責めてしまいたいのだと思う。自分を責めて終えることが、一番楽だから。


……と書いてみたけれど、少し違うものもあるのかもしれない。

ただ私が責めたいというよりも、過去に誰かに責められた体験が私の中にまだ鎮火をせずにひそんでいて、そこにまたまきがくべられるような。

なんだかそんな感覚もある。そして、過去の体験とはどの体験のことか、私は想像がついている。


私は私を肯定したい


私は私を肯定したい。最近この言葉が私のなかにちらついていたけれど、いまはより強くそう思う。

なぜなら、私の一番の味方は私。私を一番大事にするのも私。その私がこの状況で私を否定したら、周りの誰かにも私を否定することを許してしまう


例えば私は、100均で買うお皿と、専門店で買うお皿だったら、やっぱり専門店のお皿のほうを大事にする。

専門店のお皿とは、プロに選ばれてそこにあるということだし、私は誰かの保証つきのお皿を手に入れるということにもなる。

価値をより高く感じるものを、私はより大事に扱いたい。金額とか誰かの保証とか、そんなものから私たちは対象の価値を測る。


私が私を肯定できなければ、私が私を否定してしまえば、周りの誰かにも私を否定することを許すことになる。なぜなら私が真っ先に否定を示すから。

だからこういう時こそ、私は一番に私を信じて肯定しなきゃいけない。私が私の価値を下げないで、私が一番に保証をする。

これはほんとうになんともむずかしい。でも、できないと思っていたらいつまでもできない。

しばらくは、少し心を強くもって、私のことを肯定したい。私は自分のなかにある否定というものに負けない。

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7年半勤めた会社を30歳で辞め、好きな場所に住んで好きな仕事をする人生を作り直すと決めました。サポートいただいたお金は、退職後にお仕事にしているコーチングのスキル向上や、noteを書き続けるための生活に使用します🙇🏻これからも記事を通してみなさんと繋がれたら嬉しいです☺️