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「パリに暮らして」 第8話

 ――ボルドーにあるそのワイナリーは、海を臨む高台にあった。大西洋からの風が吹きつける傾斜地に一面の葡萄畑が広がり、その土地全体を見下ろす小高い丘の上にシャトーがあった。それに隣接して小さなオーベルジュがあり、ワイナリーのオーナーが家族で経営しているということだった。
「今日はここに泊まるのね」
私は言った。柊二さんは微笑むと、黙ったまま私の背中を小さく叩いてエントランスに入って行った。
 柊二さんが受付を済ませている間、私は何となく手持ち無沙汰で、建物の外をぶらぶら歩いた。黄色い日除けのテントをかけたエントランスの張り出しの上には、よく手入れされた一対のゼラニウムの鉢が置かれていた。その美しい濃いピンク色のゼラニウムは、海から吹き上がってくる風に気持ちよさそうに花弁を揺らしていた。
 「クレイジーなことをしよう」
 柊二さんはそう言って、レンタカー会社から、シトロエンのオープンカーを借りた。パリから約六時間半、眠い目をこすりながら朝早く出発した。最初の内は、身が切れそうなほど風が冷たかったので、ほろかぶせて暖房をかけてドライブした。けれど、日が昇って段々温かくなってくると、その必要もなくなった。フランスの延々と続く田舎道を、秋風をとらえながら疾走するのは、悪い気分ではなかった。空気はツンと澄んでいて、木立ちの合間に、時折広大な丘陵が見えた。
 耳元を吹き抜けていく乾いた風のすごい音のせいもあったのかもしれないけれど、長い道程の間に、私たちはほとんど口をきかなかった。実際いま何を話したらいいのかわからなかったし、私自身、自分の気持ちの置きどころを探しあぐねているような状態で、ただ黙って流れてゆく景色を見ているしかなかった。
 不思議なことに、柊二さんも何も話さなかった。彼はただ運転に集中しているような様子で、生真面目に両手でしっかりとハンドルを握って、ひたすら前を向いているのだった。何か口にすればどんなことであれ、それは言い訳になってしまうとでも思っているのだろうか? でも言い訳と言ったって、それは相手が恋人の場合に初めて効力を生じるものだ。私たちのような関係で、この場合、どう接すればいいのか柊二さんも戸惑っているということだろうか。それとも、何ごともなかったかのように振る舞って、あの出来事を水に流してしまおうとでも思っているのだろうか……?
 考えれば考えるほど、柊二さんという人がわからなくなっていった。同じ日本人とはいえ、柊二さんはこのフランスで三十年もの間暮らしてきた人だ。それに加えて私たちは男と女。思考回路が違うのは当然のこと。
 道中、私たちはお互いにそれぞれの思いにふけり、私は柊二さんにますます距離を感じ始めていた。心が離れていくにつれ、〝来なければ良かった〟と後悔した。そして突然、世界の片隅で迷子になってしまったような心細さに襲われていた。
 
 
 
 ――受付を終えた柊二さんが、エントランスから出てきた。その時鉢植えのゼラニウムに柊二さんの足が当たって、花弁が少し揺れた。
「二階の部屋だから、荷物を運ぶよ」
 そう言って柊二さんは、自分の荷物と私の荷物を車のトランクから出すと、建物の中に入っていった。彼の穏やかな声に励まされるように、私は後を追って階段を上った。
 以前修道院だったという古い歴史を持つオーベルジュの木製の階段は、足を乗せるとギシギシときしんだ。客室用に改装された部屋は、二人で泊まるには十分広い、シンプルだけれど趣味のいい空間を演出していた。黄色を基調とした可愛らしい色合いの壁に、古い板張りの床。天上近くから床まで届く両開きのフランス窓を開けると、一面の葡萄畑の向こうに海が見えた。
「潮の匂いがする」
 私は声を弾ませた。
「本当だ。海の匂いを嗅ぐなんて、何十年ぶりだろうな」
 柊二さんは私の隣に来て、感慨深げに言った。
 私たちは、そろってバルコニーに出た。狭いバルコニーには、ゲストがそこでワインを楽しめるように、屋外用の丸テーブルと椅子が二脚しつらえてあった。
「夕食の後、ここでワインを飲みましょう。飲むわよね?」
 私は微笑みながら柊二さんに言った。思えばこれがパリを出てから初めて柊二さんをまともに見た瞬間だった。出発から、もう七時間以上も経過していたというのに……。おそらく中途で柊二さんの頭に道路上を飛んできた空き缶か何かが当たって額からダラダラ血を流していたとしても、私は気がつかなかったに違いない。ひどい話だった。
「うん。君がそうしたいなら、勿論そうしよう」
 柊二さんは嬉しそうに笑った。出発以来、ずっとぎこちなかった空気がやわらいだのを感じて、ほっとしたみたいだった。
「今が十二時半だから……。これからどうする?」
 左手につけた腕時計を見て、柊二さんが言った。車中で昼食を済ませていたので、二人とも空腹ではなかった。
「ワイナリーツアーは何時?」
 私は聞いた。
「次は、十四時からだな」
オーベルジュのパンフレットを見て、柊二さんが言った。
「そうなのね。じゃあ……。ごめんなさい、私、お風呂に入ろうかな。ちょっと疲れちゃったから」
「そうかい。じゃあ、ゆっくり入っておいで。僕は外に出て、その辺を散歩してこよう」
 柊二さんは優しく微笑むと、私の左腕をそっと撫でた。
 
 
 
 ――浴室は、元の修道院の面影を残したオーベルジュに似つかわしく、シンプルで清潔だった。脱衣所はなく、入り口を入ってすぐ左側にある古びた鏡と洗面台の反対側に、シャワーカーテンの付いた琺瑯ほうろう引きのバスタブが取り付けてあった。バスタブの上には大きな窓が開いていて、防水仕様の小洒落たレースのビニールカーテンを開ければ、入浴しながら広大な葡萄畑が眺められるようになっていた。
 私は手早くシャワーを浴びると、窓を開け放ってビニールカーテンだけを閉め、外から風が吹き込んでくるようにした。そしてバスタブにお湯を張りながら、中に座った。
 白を基調とした浴室は、外部の音がさえぎられてとても静かだった。私はバスタブの中に体を伸ばしながら、天井を見上げ、浴室全体を見回した。どこも、隅々まで掃除が行き届いていて、清潔だった。壁は漆喰しっくいで塗り固められ、冷んやりとしているが、どこか暖かさを感じさせもした。もしかしたらこの漆喰が外の音を吸い取っているのかもしれない、と私は思った。
 ただでさえ、人々が休暇を取り憩いを求めて訪れる場所だ。海を渡って広大な畑を吹き抜ける風の希釈された音、隣のワイナリーで一定時間ごとに開かれる醸造所見学ツアーの案内の声、そしてオーベルジュを経営する家族同士が、何か用事を言いつけたり確認したりする為に互いに掛け合う声……。聞こえてくる音といえばそれくらいのもので、私たちの他にも何組かいるはずの宿泊客は、はしゃぎ声を立てるでもなく、ただじっと黙ってこの土地の滋養を味わっているかのようだった。
 そして柊二さんとも離れ、たったひとりでこの浴槽に寝そべっていると、それらかすかな物音からさえ、私は遠ざかっているように思えた。世界から隔離され、完全に静謐せいひつな時間を与えられているような気がした。勿論これは刹那せつなの錯覚で、終りのある限られた時間なのだろう。あと三十分もすれば、私はこの湯船から出、浴室からも出て、服を着替え髪を整えて柊二さんと合流しに部屋の外へ出て行ってさえいるのだろう。

 けれど今は、言わば〝絶対的な〟孤独の中に私は浮かんでいた。そこには全ての感情があり、同時に何の感情もなかった。そこではこれまでの私の全てが許され、そして全てを許すことができるような気がした。

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