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「パリに暮らして」 第10話

 夜八時のレストランは、閑散としていた。先に来ていた何組かの家族連れやカップルは、既にそれぞれメインディッシュやデザートに辿り着いていた。
 案内された席に座ると、すぐに見学ツアーで一緒だった老夫婦がやって来た。私達のテーブルは窓際で、夜間にはかなり冷えてくるこの時期には、もう壁際に取り付けた対流式のストーブを効かせていた。
 窓の外にはテラスがあって、その向こうに葡萄畑が広がっていた。ちょうど月が上り始めたのが見えた。満月が近いのだろう、ややいびつな円形を成した月が、収穫を終えすっかり葉も落ちた葡萄の木々を明るく照らしていた。
 時間を空けて仕切り直しをしたせいか、思ったより食欲は戻ってきていた。前菜アントレに出された鴨のオレンジソースはあっさりとして、またもや供されたボルドーの赤ワインにとてもよく合った。私たちは、次の料理が運ばれてくるまでの間にもパンにバターをつけ、飽きもせず陶然としながらボルドーワインの強く深い味わいを楽しむのだった。
 老夫婦は、ロベール・デュボワと妻のアンヌ=マリーと名のった。今は二人とも引退して年金生活を送っているということだったが、ロベールは元脚本家で、アンヌ=マリーは元弁護士だった。
「素晴らしいですね」
 と私はフランス語で言ってから、柊二さんの方へ顔を向けて、
「でも、脚本家と弁護士が、いつどうやって出会ったのかしらね」
 と日本語で囁いた。というのも、この年配の人たちに向かって、こういうことを面と向かって聞いたりしていいかわからなかったし、それを私の不完全なフランス語で誤解のないように伝えられる自信もなかったからだ。すると柊二さんはすぐに全てを汲み取って、三十年つちかった流暢なフランス語で、実に感じ良く、私の何気ない疑問について夫妻に伝えてくれた。ロベールは赤ワインが染み出てきたように頬を紅潮させていたが、微笑んでこう答えた。
「脚本家が弁護士と出会える確率の最も高い場所と言えば、法廷だね。私は当時手がけていた脚本を巡って、原作者と争っていたんだ。この手の訴訟はフランスではしょっちゅうなんだがね。その時に依頼していたのが、彼女だったのさ」
「興味深い出会いですね」
 柊二さんは身を乗り出した。
「その訴訟には勝ったんですか?」
 私は勇気を出して聞いた。フフフフ、と、可笑しそうに目を細めて笑い出したのは、妻のアンヌ=マリーだった。
「それがね、その訴訟には負けてしまったのよ」
 夫妻は目と目を見合わせた。
「原作者の書いたいくつかの台詞をね、この人が脚本にする段階で少しアレンジしたんだけれど、原作者はどうしてもそれを気に入らなくてね、色々と調整している間に、大喧嘩になってしまったんですって。それでとうとう裁判になってしまったというわけ」
「私は弁護士事務所に問い合わせて、彼女に依頼したんだ。当時彼女は著作権関係の訴訟では有名な、やり手弁護士だったからね」
 ロベールが話し、すぐにアンヌ=マリーが話を引き取った。
「著作権を守ろうとする側の反対につくのは初めてだったけれどね。最初はいい線いってたのよ」
 口を湿らす為に、アンヌ=マリーはワインを少し飲んで続けた。
「議論の焦点は、彼が登場人物の言う台詞のいくつかを変えたことによって、原作者が言うように、その作品自体を原形を留めないほどにゆがめてしまっているかどうかということだった。この〝原形を留めないほどに〟というところがポイントだったのよね。理論的には、誰がどう見ても、そこまで作品自体を変えてしまっているとは言えなかった。でも、自分の作品が歪められたと主張する原作者自身を納得させるのは、本当に難しかったわ。彼も自分の作品に偏執的なくらいにこだわっていたから。裁判は本当に長くかかったのよ……。審問を重ねる内に、一年が過ぎ、二年が過ぎ……」
「もしかして、その長い時間がお二人の蜜月になっていった、とか……?」
 柊二さんが言葉を挟んだ。ははははは、と、大きな笑い声を立てたのは、ロベール・デュボワだった。
「その通りだよ。君は勘が鋭いねえ」
 そして、柊二さんのほとんど空になっていたグラスにワインを注いだ。
「気がついたら、法廷の控え室でキスしていたよ」
 ロベールが、アンヌ=マリーの皺だらけの手に、年輪を重ねた自分の手を重ねた。妻も又、弾けるような声を立てて、愉快そうに笑った。
「そんなことをしている内に、二人とも裁判に費やしている時間が馬鹿馬鹿しくなってね」
「もっと有意義な時間を過ごしましょうよって、私が言ったの」
 結果的に、ロベール・デュボワは敗訴し、原作者の要求する額の賠償金を支払い、脚本の脚色も全て取り止めた。裁判には負けたが、代わりに彼は掛け替えのない価値あるものを得ることができた。翌年彼はアンヌ=マリーと結婚し、引退するまで脚本家としての仕事を続けた。二人の子宝にも恵まれ、子供たちも独立してそれぞれに家庭を持った今は、パリの家を引き払って妻の故郷のカルカソンヌに移り、悠々自適、二人で幸せに暮らしているということだった。
「今年は思い立って、二人でフランス中のワイナリーを車で巡っているところなんだよ」
 とロベールは言った。
「それは結構ですね」
 と柊二さんが言った。
「ご夫婦ともども健康で、こんなに仲が良くて。何よりですね」
 私が言うと、ロベールは目を見開いて、驚いた顔を見せた。
「仲がいいだって? とんでもない、毎日喧嘩しているよ。うちの家内を何だと思ってるんだ? 弁護士だぞ!」
 そう言ってアッハッハッハッと、腹の底から笑った。その時、アンヌ=マリーがぽつりと言った。
「あの敗訴した日から、彼はずっと負けっぱなしなのよ」
 私たちは、涙が出るほど笑った。アンヌ=マリーも笑っていた。
 ワインを飲み過ぎたのだろうか。その晩餐を、私達は心底楽しんでいた。大爆笑の渦のなかに、メイン・ディッシュの牛肉の赤ワイン煮込みが運ばれてきたのにも気づかないほどだった。
 
 
 
 その詩のことを柊二さんが口にしたのは、デザートの後に出されたボルドーの有名な貴腐ワインがグラスに注がれている時だった。それこそが、今日の午後デュボワ氏がワイナリーツアーのクイズで大当たりを出した景品だったのだ。

「美しいワイン。光を放つこのグラス。僕の好きな一篇の詩を思い出させます」
 そして突然、中国語で詩をそらんじ始めた。
 
 
   葡 萄 美 酒 夜 光 杯
   欲 飲 琵 琶 馬 上 催
   酔 臥 沙 場 君 莫 笑
   古 来 征 戦 幾 人 回
 
 
 柊二さんは続けて日本語でぎんじた。
 
 
  葡萄の美酒 夜光の杯
  飲まんと欲すれば 琵琶馬上に催す
  酔うて沙場に臥すも 君笑うことかれ
  古来征戦 幾人かかえ
 
 
 我々は呆気に取られたが、調子のいい中国語の詩の響きと、それに続く日本語での詩吟の美しさに次第に聴き入ってしまった。貴腐ワインを注いでいたギャルソンも、注ぎ終わった後もその場を離れず最後まで聴いていたほどだった。
「突然失礼」
 私たちの顔を見回して、柊二さんは言った。詩を吟じ終わって、自らもその余韻に浸っているみたいだった。そして、デュボワ夫妻にもわかるように、フランス語で説明した。
「これは、七世紀から八世紀の中国の詩人、王翰おうかんの『涼州詞』という詩です。葡萄のうま酒を、月の光をキラキラと反射するガラスの杯に注ぐ。飲もうとすると、まさにその時馬の上で琵琶を掻き鳴らす者がいる。「さあさあ、たんまり飲め」とき立てるように。酔いつぶれて砂漠の砂の上に倒れ込んでも、笑ってくれるな。昔から戦争に行って、どれだけの人が生きて帰ったというのだ? 
 ……明日いくさに出て行く。生きて帰れる確率は、限りなく低い。そういう兵士の哀切な気持ちをうたっています。なぜだかわからないけど、僕の心の中に長い間ずっと残っている詩です」
 ロベール=デュボワ氏は顔をますます真っ赤にして、上機嫌になった。
「いや、素晴らしい。中国の詩と日本語の吟詠とはな。思いもかけず、いいものを聴かせてもらった」
「とってもいい声だったわ。でも内容は、とても哀しいのね」
 アンヌ=マリーが続けた。
「柊二さんの口から、漢詩だなんて。意外だったわ」
 私もそう言った。柊二さんは私に目配せをすると、フランス語のまま、こう続けた。
「いや、そらんじているのはこの一篇だけなんですけどね。外国に長く暮らしていると、自分の文化に近いものが恋しくなったりするもので……例えば漢字とか。たまたま中国の漢詩に触れる機会があった時に、いくつか覚えたんですが、この詩には妙に思い入れがあるっていうか……。お酒を飲んで酔うたびに、僕はこの兵士のことを思い出して、親近感のようなものを覚えるんですよ」
「兵士に? どうして?」
アンヌ=マリーが驚いた様子で尋ねた。柊二さんは答えた。
「確かに、少しねじれてる・・・・・かもしれません。僕は兵士ではないし、明日戦に行くわけでもない。でも、彼とは境遇境遇が似ているような気がするんです。この兵士は故郷を遠く離れて、涼州というところまで来ている。涼州というのは、昔の中国の西域の地名です。つまり、ずいぶん遠い西の地まで来てしまった。生きて故郷に帰れるかどうかもわからない」
「なるほど」
 とロベールがうなづいた。
「君も、同じようにはる彼方かなたの西の土地にやって来たというわけだ」
「その通りです」
 柊二さんが引き取った。
「そして、ある意味僕は兵士と同じなんです。そりゃ、命を取られるような熾烈しれつな闘いではないにせよ、この国で生きていく限り、僕は闘わなければならない。否応なく。意味はおわかりですよね? ……この国に来て長いこと経ちますから、だいぶたくましくなったつもりですが、正直言うと、やはり時々、このまま一生故郷に帰ることはないんだろうかと心細い気持ちになることはあります」
 柊二さんは、少し酔っているようだった。今日出会ったばかりの人たちの前で、返って気安さを覚えたのか、いつになく感傷的になっているように見えた。ああ、と言って、アンヌ=マリーが柊二さんの手の上に自分の手をさし伸べた。でも柊二さんは勢いよく顔を上げると、急に活気づいて、今までとは全く違うトーンの声で、威勢よく言い放った。
「でもね、そんな時の対処法を、この詩は教えてくれもするんです。葡萄の美酒を沢山飲むことです。さあ、楽しみましょう! 乾杯!」


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