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A Course in Miracles 形而上学

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『A Course in Miracles』((奇跡のコース/奇跡講座)から抜粋した引用文にちなんたnoteコラム
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2022年1月の記事一覧

「奇跡」とは、この世界を超えたもう一つの見方を思い出していくための方法である

「奇跡」とは、この世界を超えたもう一つの見方を思い出していくための方法である

なぜ私はこの世界にいるのか?「私」という存在は何なのか?

なぜ、「私」はこの世界にいるのか?

なぜ、天国(ワンネス)ではなく、分離の世界にいるのか?

そのような自己の本質に関する疑問に対して、コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)はその答えを明確に示してくれているといえます。

その答えは、つまりは、私たちが神の愛を恐れているからと言うことができます。

神の愛を恐れているから、私たちは

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私たちが修得していくべきワンネスを反映した在り方

私たちが修得していくべきワンネスを反映した在り方

すべてを包み込むものに対極はあり得ないコース(奇跡のコース/奇跡講座)の学びと実践において私たちが気をつけなければならないのは、つい、自我を敵とみなして、自我を悪者扱いするようになってしまいがちだということです。

いわゆる、自我を避けようとしたり、自我を排除しようとしたり、自我を否定するということをしてしまうということです。

そうするならば、分離の想念を強めるばかりです。

実際、コースは、自

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「自分は目覚めていて、あなたは目覚めていない」ということなどあり得ない

「自分は目覚めていて、あなたは目覚めていない」ということなどあり得ない


この世界の中に悟った者、目覚めた者などいないこの世界に住む誰もが、自分はこの地上に生きている、つまり、この世界の中に自分は生きているというふうに知覚しています。

コースの観点から言えば、そのように知覚しているということ自体が、つまりは、夢を見ている、ということであり、そして、夢に入り込んでいる、ということです。

そうであるならば、私たちはその知覚を訂正していく必要があるということです。

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悟り、覚醒、目覚めを求める探究者の誰もがよく陥りがちな勘違い

悟り、覚醒、目覚めを求める探究者の誰もがよく陥りがちな勘違い

夢の主人公が目覚めるのではありません真理から言えば、私たちは本来は神と一体の神の子であるわけです。

そうであるにもかかわらず、私たちは何をしているのか?というなら、夢を見続けているだけでなく、夢の中の夢の主人公と同一化した状態にあると言うことができます。

つまり、肉体としての夢の主人公を自分だと信じてしまっています。

真理から言えば、神の子が作り出した夢自体が「無」であるわけですから、当然、

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「覚醒」「目覚め」「悟り」といったものを本気で求めているのなら

「覚醒」「目覚め」「悟り」といったものを本気で求めているのなら

もはや教えられる必要がなくなるまで「覚醒」「目覚め」「悟り」といったものについていうなら、自我と同一化してしまっている私たちにとって「覚醒」「目覚め」「悟り」といったものが、もはや達成すべきものとなってしまっています。

もともとが、本来、ただそうであるものなはずなのに、です。

たとえば、私たちはコースを通して「自分たちは神の子です、神の王国にいるのです、ワンネスなのです」ということを学んでいる

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自分の狂気さ、愚かさ、無知さを自覚することなしに、正気に至ることはけっしてあり得ない

自分の狂気さ、愚かさ、無知さを自覚することなしに、正気に至ることはけっしてあり得ない


霊的探究に潜む罠自我は、ニセの「霊的成長」「霊的向上」が大好きです。

いつも何かになろうとして、ここじゃないどこかに向かおうとする習性があります。

ただ在る、ということができないのです。

自我とはそういうものです、

そして、私たちは、今やまさにその状態になっています。

自分とは何者なのか?
自分はどこにいるのか?
何をしているのか?

そのことをまったく忘れてしまっています。

そして

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誰かを裁くとき、咎めるとき、それは自分自身をただ攻撃しているだけ

誰かを裁くとき、咎めるとき、それは自分自身をただ攻撃しているだけ


外側には誰もいないとしたなら誰かを裁いているとき、咎めているとき、私たちは何をしているか?

というなら、

内容(心のレベル)においては自分も同じことをしているにもかかわらず、自分はそういうことはしない、自分はその人とは別である、というふうに見ているということです。

それを、「投影」と呼びます。

自分も同じことをしているにもかかわらず、そのことを自覚していないときに、それを外側に「投影」す

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夢に留まり続けるのか?夢から目覚めるのか?

夢に留まり続けるのか?夢から目覚めるのか?

ジャッジメントか?ヴィジョンか?コース(奇跡のコース/奇跡講座)の実践において、私たちがフォーカスしていくべきことは、自我を教師とするのか?聖霊を教師とするのか?です。

そして、自我を教師とする代わりに聖霊を教師として選び直していくことが、私たちがしていく実践だといえます。

自我を教師としているなら、その知覚はジャッジメント(裁き/価値判断)というものになりますし、

一方、自我を教師とする代

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その愚かさを認識しない限り、どうやって戦いを終わることができるというのでしょう

その愚かさを認識しない限り、どうやって戦いを終わることができるというのでしょう

誰もが自分と戦っているコース(奇跡のコース/奇跡講座)が教えていることの理解が深まっていくにつれて、私たちは誰もが「殺すか殺されるか」という「神との戦い」をしているということが分かってきます。

私たちはその「神との戦い」をこの世界に投影しているだけであり、人や出来事や状況を変えてただそれを繰り返しているだけなのだと認識できるようになります。

その「神との戦い」とは、すなわち、「自分との戦い」で

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テキスト第30章「決断のためのルール」で教えられていることについて

テキスト第30章「決断のためのルール」で教えられていることについて

イエスは私たちに何を教えてくれているのか?コース(奇跡のコース/奇跡講座)のイエスは私たちに何を教えてくれているのか?

というなら、

「あなたは間違っていますよ。あなたは嘘(狂った思考体系)を信じているだけですよ。ただ夢を見ているだけですよ。自分でそうしていますよ。」

ということを私たちに教えてくれているということです。

そして、そのことを私たちがはっきりと自覚/認識するとき、それをコース

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怒りにどう対処していけばいいのか?

怒りにどう対処していけばいいのか?

怒りを正当化しないこと怒りが収まらないとき、どのようにしたらよいのでしょう?

それは、怒ってはいけない、ということではありません。

むしろ、この世界に居ると思っている私たちが「怒らない」「攻撃しない」でいることのほうが不可能だということをわきまえておくとよいでしょう。

というのも、その「怒り」「攻撃」は、本当はけっして個人的なものではないからです。

コース(奇跡のコース/奇跡講座)形而上学

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自分とはいったい何者なのか?何のためにここにいるのか?なぜこの世界にいるのか?

自分とはいったい何者なのか?何のためにここにいるのか?なぜこの世界にいるのか?

まったく別の見方があり、まったく別の在り方がある自分とは何者か?

自分は誰なのか?

私たちは、自分についてまったく分かっていないと言うことができます。

非二元の観点から言うなら、私たちは五官、知覚というものを駆使して、「自分はこの肉体である」というふうに偽の自分を自分であると自ら信じ込ませようとしていると言うことができます。

私たちはそのようにして自分の本性をすっかり忘れた状態になっていま

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それは罪ではなく、単なる誤りなのだということ

それは罪ではなく、単なる誤りなのだということ

罪と見るのか?それとも誤りと見るのか?コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)の学習者にとって、日々の実践として求められているのが、

それを罪と見るのか?
それとも、
それを誤りと見るのか?

の選択だと言うことができます。

それを罪と見るならば、私たちは個人としての肉体の自分に縛り付けられてしまうことになります。

そうなると、その自分はもはや処罰を免れることはできません。

そして、それ

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「ビリーバー」から「幸せな学習者」へ

「ビリーバー」から「幸せな学習者」へ

この世界の牢獄の扉の鍵を開ける私たちはここ(この世界の夢の中)で何をしているか?

というなら、自分が知覚しているもの、自分が経験していることを現実だと信じ切って、真実をまったく忘れてしまっていると言うことができます。

「これが現実、この世界が現実である」と、まるで信じ切ってしまっていて、疑うことすらしようとはしない無知な状態になっているわけです。

本当は天国のワンネスの中にいるにもかかわらず

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