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自分とはいったい何者なのか?何のためにここにいるのか?なぜこの世界にいるのか?
まったく別の見方があり、まったく別の在り方がある
自分とは何者か?
自分は誰なのか?
私たちは、自分についてまったく分かっていないと言うことができます。
非二元の観点から言うなら、私たちは五官、知覚というものを駆使して、「自分はこの肉体である」というふうに偽の自分を自分であると自ら信じ込ませようとしていると言うことができます。
私たちはそのようにして自分の本性をすっかり忘れた状態になっています。
自分は何者なのか?
私たちはここ(この世界)で何をしているのか?
というなら、
それが分からなくなってしまって、自分とは何者か?という問いに対して、「自分は肉体である」というその証拠を集め続けることをし続けているということです。
そう、私たちは自分が誰であるかを忘れて、この時間と空間の中で、自分とは何者か?の答えを探す流浪の旅をしている状態になっているといえます。
自分とは、いったい何者なのか?
何のためにここにいるのか?
なぜこの世界にいるのか?
朝になれば目が覚めて、そしてその日のすべき何らかの活動をして、一日を終えた夜には床に就いて眠りに入る、、、その繰り返しを私たちは「人生」というふう解釈していますが、それをしているその「自分」とは、いったい何者なのでしょう?
その真実を思い出すこと、それが私たちにとってもっとも重要かつ価値あるテーマだといえます。
私たちは、自分はこの世界で生きていて、自分の意志で判断して、自分の意志でさまざまな人生の岐路を選択している、と思っています。
それは、本当にそうなのでしょうか?
本当にその人生は現実なのでしょうか?
それは絶対に真実だといえるのでしょうか?
私たちはその内なる声にもっと耳を傾けるべきだといえます。
そのような疑問を抱いたことがある者たちが、非二元の霊性の道へ誘われていくのでしょう。
そして、その内なる声に声に耳を傾けていく者たちこそが、この世のものを超えた真実を探究しはじめるのだといえましょう。
そして、そういう者たちのための一つの霊性の道としてあるのがコース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)なのだと言うことができるでしょう。
コースは、私たちが抱くさまざまな人生の根本的な疑問に対して、心理学的な側面から明確にその答えを示してくれています。
私たちは自分が誰なのかを忘れてしまって、私たちはただ夢を見えているだけなのだと、コースは教えてくれています。
なぜそうなってしまったのか?
どうしたら夢から目覚めて本当の自分を思い出すことができるのか?
その道もしっかりと示してくれています。
コースは、その訓練(実践)はこの世界を幻想だとしてむやみに否定していくようなものではない、とも教えてくれています。
そうではなく、コースは、私たちには世界の見方について二通りの解釈の仕方があるのだと教えてくれています。
その一つは、「自分は人間として生まれてきたし、その生涯を終えるとき自分は死にゆくだけ」という私たちが当たり前に見ている知覚の仕方です。
そしてもう一つは、そうではない知覚の仕方です。
私たちはそのどちらかを選べる(選び直せる)のだということを教えてくれているわけです。
ただし、私たちは、そのもう一つの別の見方があることすらも忘れてしまっています。
だからこそ、まったく別の見方があるということ、そしてどのようにしたらもう一つの別の見方(知覚)を思い出せるのか?について、私たちはコースを通して学ぶ必要があるわけです。
もう一つの別の知覚のことを、コースでは「ヴィジョン(心眼)」と呼んでいます。
その知覚とは、どういうものか?
というなら、
この世界で起きていることのすべてが夢であり、自分だと信じているその自分は夢の中の主人公でしかすぎず、その夢全体を夢見ている者こそが真のアイデンティティーなのであり、夢の中の主人公は、その夢を見ている者によって、ただ突き動かされているだけ、
ということが分かっているところから見ている知覚のことを言います。
それは、ちょうどまるで劇場やドラマを見ているだけだと気づいている知覚だと言うことができます。
そのドラマの中で、私たちはただシナリオ通りにただ演じさせられているだけです。
そういうことが分かっているところから眺めるとき、私たちは、この世界をまったくちがったふうに見る(知覚する)ことができます。
ちなみに、そこから見ている視点を、コースでは「戦場を超えたところ」(T-23.Ⅳ)とも呼んでいますし、聖霊の視点(聖霊のまなざし/赦しのまなざし)とも呼んでいます。
いわゆる、そこから見ているときが「聖霊を教師としている」「聖霊と共に見ている」と呼んでいる状態なのだということです。
つまりは、聖霊(イエス)はそのように見ているのであり、コース学習者の私たちは、その知覚を修得することを目的に「赦し」という訓練をしていくのだということです。
言い換えるならば、私たちは忘れてしまった見方、在り方を思い出すためにコースを学び、そして実践しているのだということです。
つまり、自我を教師とした見方から聖霊を教師とした見方、在り方へとシフトしていくことを目残しているということです。
もし、「自分で生きている、自分で人生を選択できる」と思っているとしたなら、それは自我を教師としている状態です。
これからもそのような見方で見たいのか?
それとも、
それとはまったく別の見方で見たいのか?
私たちには、その選択の力が、毎瞬毎瞬、与えられています。
そのことを認識するなら、あなたはどちらの教師と共に見ていきたいでしょうか?
その選択肢にいることを認識するならば、誰もがイエス、聖霊を教師として選択し直すことでしょう。
神の愛に支えられていながら、奇跡か殺害かの選択を難しく思う者がいるだろうか。(T-23.4 .9:8)
ただし、私たちはその選択肢にいることすらすっかり忘れている状態にあります。
いわゆる、
自分とは何者なのか?
をすっかり忘れている状態なわけです。
ですから、私たちに求められているのは、まず、自分は「夢を見ている者」であると思い出すことです。
そしてさらに、その自分は、
このまま夢を見続けるのか?
それとも、
夢から目覚めていくのか?
という選択肢にいるのだということを思い出すことがその訓練となります。
要は、自分は、分離(自我)の教師から贖罪(聖霊)の教師へと選択し直すことのできる「心(決断の主体)」なのだということを思い出すことが、コース学習者である私たちの目的なのだということです。
それがコース学習者の私たちに求められているものであり、そのために私たちはコースを学んでいるといえます。
そして、コースでいう「赦し」とは、そのための実践手段であるということを覚えておきましょう。
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