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長澤靖浩
2022年4月12日 19:14
高野山の宿坊で一泊二日の日程で行われた、そのマッサージのワークショップは、テクニックをみっちり学ぶというようなものではなかった。 相手の身体を触りながら、自分の手の赴くところ、止まるところ、相手の深い息や、こわばりの弛緩、そのようなエネルギーを読み取りながら、直感的に進めていくマッサージの入門コースとでもいったものだった。 「帰ったらすぐに自分のパートナーや友人と学んだことを交換しましょ
2022年4月12日 00:10
奈津子の骨肉腫に冒された脚の切断手術は二度に分けて行われた。一度目の手術では、脚の病変部位から先をとにかく転移のないうちに切断し、仮の人工骨を入れた。術後の踵を曲げるための複雑な処置は含まれておらず、奈津子の左足はぴんと伸びたままになった。つま先立ちしかできない状態である。それでも両松葉杖で病棟内を歩く練習をした。 二度目の手術が本番であった。アキレス腱を斬って、踵を曲げ、足の裏を踏みしめら
2022年4月11日 21:29
無骨で不気味な、脚の長さほどもある金属棒を見せられ、「君の脚の骨は残念ながら病気なので取り除くけれど、これからは君の脚の骨の代わりになってくれる」という説明を受けたとき、奈津子は息を呑みこむばかりで、その金属棒に手を触れることはできなかった。 ただ、目に映ったその質感から、得体のしれない恐怖を覚えた。奈津子がその時、最初に心配になったのは、そんな大手術を受けて、自分は将来、赤ちゃんを産むことは
2022年4月6日 19:31
2022年4月5日 16:32
奈津子の高校時代、癌は今以上に不治の病として畏れをもって取り扱われていた。本人に「告知する」べきかどうか。そのことがしばしば議論の的となり、人々は自分なら告知してほしい、自分なら知りたくないとその意見が割れているような有様であった。 まだ若い担当医は奈津子にではなく、その母に「骨肉腫」という足の骨の癌の名前を告げ、治療としては左足の切断が最も相応しいと意見した。切断の決断は早ければ早いほど、転
2022年4月5日 14:57
木立の中の急峻な坂道を抜けると武奈ヶ岳山頂近くのなだらかな丘陵が開けた。青々と茂る草地の中を縫う道が山頂に続いている。速足になってあと一息を駆ける。 武奈ヶ岳山頂、標高一二一四.四〇Mの碑。その隣にはここに到った人々の積んだ石の小さな塔があった。青空に向かって開けた遮るもののない吹きさらしの中、奈津子の髪が風になびいた。 山々は大阪、京都、滋賀の三府県をまたいで三六〇度に広がっている
2022年3月25日 20:00
その年のワンゲル部の夏休みの遠征は、京都府と滋賀県にまたぐ比良山の武奈ヶ岳アタックに決まった。標高一二一四メートルの武奈ヶ岳の登頂は、近畿では中学校のワンゲル部にもよく選ばれるコースであり、けっして困難なものではなかった。 ただ中学校のワンゲル部では滋賀県側から途中までロープウエイ、リフトを使って中腹に到り、そこから歩き始める方法を選ぶ場合があった。曲りなりにも高校のワンゲル部ではそんな軟なル
2022年3月23日 23:37
心の中の陰鬱な雲間に陽が射した。 第一志望の進学校の合格発表のために張り出された模造紙の列の中に、大勢の人たちの頭越しに自分の番号が見えたのだ。念のために手元の受験番号と発表された合格者番号を見比べて何度か首を上下した。間違いない。 同じ中学から受験した友達が走ってきた。彼女も合格したらしく、手と手を取り合って、無邪気に飛び跳ねた。後で思えば、そのとき、左足の太ももに鈍痛が走った気がした。だ
2022年3月21日 13:16
命の糸の最後の一本が切れてしまわないうちに、あの「光に抱かれて」という曲に出会ったのは僥倖だったというほかない。 中学生になっていた奈津子は、定期試験の勉強をするとき、深夜ラジオを聴くのを常としていた。幸い、学校の成績は優秀な方だった。せめて未来のある進路を切り開いて、世間を見返してやりたいという執念が、奈津子を勤勉さに駆り立てていたせいかもしれない。 その日も奈津子は午前一時頃までラジオを
2022年2月24日 00:20
私は日本人の父とスペイン人の母の間に生まれたハーフです。父は仕事でスペインに来た際、通訳でサポートした母と恋仲になり結婚しました。 父の日本帰国とともに、私たち家族は日本に移り住み、日本で生まれた私はこの美しい島国で、父と母のたっぷりの愛に育まれて育ちました。 私はずっと父と母が大好きでした。母は私の父をとても愛していて、私にも「私の愛する人の子どもだから、マリアのこととても愛してるのよ」と
2022年3月19日 23:54
(「アミタの観た夢」は、脳性麻痺の沙織が「健常者」と恋愛するのを夢見て生きる物語ですが、途中でふたりの他の人との出会いを経て、考えに波が生まれます。その他のふたりの部分はいわば挿入的な小説のような形になります。その部分をモデルの取材を経たばかりの今、先に形にしようとするのが、Xシリーズ、Yシリーズです。最後には全部ひとつの小説に紡ぎます。) 奈津子が五歳のとき、両親が離婚した。まだ二六歳
2022年3月12日 02:52
谷口から「新任の英語の先生と恋に落ちたから別れたい」と告げられたとき、沙織は世界が白黒になってしまったように感じた。これならまだ何も知る前、何も期待していなかった時の自分の方が心が穏やかで満ち足りていた気がする。 そう告げておきながら、谷口は「最後にもう一度」と言って沙織の体を抱いた。 沙織の体は谷口によって目覚め、谷口によって開発され、谷口の愛撫に応えるように完成されていた。 それと
2022年3月11日 07:09
男と女の秘め事のすべてを沙織は谷口に学んだ。 想像もしていなかったその行為の間、沙織の脳裏には飛び回る蜜蜂の姿とその羽音が聞こえていた。 性について聞きかじったことのある、いくつもの噂話の複雑なジグソーパズルが奇跡のような速さで次々に嵌まり、一幅の風景が目の前に広がった。 沙織は波打ち際の飛沫の上を抜けて、耀く大洋のうねりをかすめて翔ぶ鳥だった。(この段落、書き直すか、いっそ書かない
2022年2月22日 23:28
そのとき僕は電車に乗っていた。快晴。線路わきの満開の桜が、時折り車窓を流れる。 向かい側の席で妙齢の女性が、友人らしき隣席の女性に話しかけている。 「毎年、桜が咲くと、孫を花見に連れていったことを思い出すわー」 初めは聞くともなく聞いていた。しかし、話の流れでそのお孫さんというのはどうやら亡くなったらしいと気づくと僕は耳をそばだてた。 「二歳のときに一回だけお花見に連れていって、次の春