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アミタの観た夢 (Xー5)

 木立の中の急峻な坂道を抜けると武奈ヶ岳山頂近くのなだらかな丘陵が開けた。青々と茂る草地の中を縫う道が山頂に続いている。速足になってあと一息を駆ける。
武奈ヶ岳山頂、標高一二一四.四〇Mの碑。その隣にはここに到った人々の積んだ石の小さな塔があった。青空に向かって開けた遮るもののない吹きさらしの中、奈津子の髪が風になびいた。
 山々は大阪、京都、滋賀の三府県をまたいで三六〇度に広がっている。近くは濃い緑、遠くにいくほど薄青くなっていく翳を重ねるようにして遥か彼方にまで続いている。
 大袈裟だと自重しながらも、奈津子は自分が生まれた地球という星の遥けさを今、垣間見ているのだという思いを禁じえなかった。まだ一六歳である奈津子はこれからこの星の上を青い空の下、どこまで歩んでいけるのだろう。そこには無限の可能性が広がっている。いつか、日本の最高峰富士に登り、さらにはスイスのユングフラウ、もしかしてアラスカのマッキンレーやヒマラヤのチョモランマも・・・。山だけではない。耀く大洋を渡って、いくつもの大陸に渡り、万里の長城や、ピラミッド、タージマハール、マチュピユなどの遺跡を巡る。地中海、カリブ海、南太平洋の透明な海に潜る。
 自分の生まれたこの星の上に奈津子は今しっかりと両足を踏みしめて立っていた。そのことをこれほどまでにくっきりと感じるのは、そのささやかな山頂踏破の瞬間が、最初で最後のこととなろうとは、想像だにしていなかった。

 左足の鈍い痛みはゆるやかな波を描いてぶり返してはいた。しかし、八月も終盤になると、部活動のトレーニングも続く中、殊の外に盛沢山の、進学校の宿題に苦しめられ、足の不調については思い出す機会を奪われているというのに近い状態となった。
 ワンダーフォーゲル部の同級生が練習のあと、腰痛がひどいので整形外科に行くと言い出した。奈津子は足の痛みが小休状態で、自分も診察してもらうことは想定せず、ただ付き添いとして、一緒に整形外科に赴いたのである。友人と一緒に診察室に入った奈津子は、友人が腰に電気をあててもらっている間に、ふと思い出して「私、左の太腿がだるいんですけど・・・」と口にした。
 診察券も出していない付き添いの奈津子の言葉を聞いて、温和なおじさんという風体の整形外科医は気軽に「診てあげようか」と言った。白いシーツの張りつめた寝台の上に横たわった奈津子の左足を医者は付け根近くまで触る。男性に触られ慣れていない奈津子は少し体をこわばらせた。
 「ん?」と医者は奈津子の太腿に手を添えたまま、不審そうな表情で宙を見上げた。
 「これは?」と彼の口から声が漏れた。その表情の曇りを見て、奈津子は初めて不安がさっと胸を過るのを覚えた。
 「ちょっと・・・やね」
医者は今、奈津子を触った手を水道水で洗いながら、奈津子に背中を向けたまま言った。
「どっか大きい病院で精密検査してみてくれへんかな」
「え? 何か重い病気なんですか?」
「いや、触診でわかることは限られてるさかい・・・」
「何か心配な感じなんですか?」
 言い方を変えてみる。
「正式な診察してへんから、無責任なことは言われへん。そやけど、念のためや思て、精密検査してみてくれへんかな」
 「わかりました」
 友人に電気をあてている機械がピッピッと終わりを告げる音をたてた。


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