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若きベートーヴェンチクルス04
2024/07/15
竹風堂大門ホール
ピアノ:川口直希
1790年代後半になるとウィーンの音楽界ではベートーヴェンの名声は作曲家としてもピアニストとしても完全に確立されていました。弟子入りを希望する貴族の子弟が後をたちません。楽譜の収入もけっこうあったし、それに演奏のギャラなども合わせると、もう十分に安定した状態にありました。
ベートーヴェンは充実した作品(3つのヴァイオリンソナタOp12、6
ベートーヴェン:セレナード ニ長調 Op.25
ずっと以前に書いた解説原稿を大幅に改稿・加筆しました
■セレナード ニ長調 Op.25
1802年に出版されたこの作品は自筆譜が残っておらず、作曲年代を推定することが困難です。様式的な面から1795-6年という見方もあれば、1797年という推測もあったのですが、近年のスケッチ研究から1801年という説が有力になっています。フル−トとヴァイオリンとヴィオラという珍しい編成の曲を作曲した動機もわか
ベートーヴェン:ピアノ三重奏曲 変ロ長調 Op.11「街の歌」
2008年に書いた原稿を大幅に加筆修正しました
ベートーヴェン:ピアノ三重奏曲 変ロ長調 Op.11「街の歌」
1797−98年の作品。
18世紀末、ウィーンでは管楽合奏による華やかな作品(ハルモニームジーク)が娯楽音楽として流行していました。モーツァルトもたくさん作曲してます。「グランパルティータ」KV361「ハ短調セレナード」KV388とか名曲がいろいろありますね。ボンからウィーンに出てき
若きベートーヴェン・チクルス番外編・ベルリンの王宮にて
2024/04/20
長野市竹風堂大門ホール
チェロ:和田ゆずみ
ピアノ:山田えり子
今日は番外なので、ベートーヴェンのピアノ独奏曲はありません。チェロソナタ第1番を中心にデュポールのエチュードと、モーツァルトのデュポールの主題の変奏曲を聴きましょう。
今日はベートーヴェンがウィーンに来て4年目。
1796年のお話です。
ベートーヴェンにとって1796年は思い出深い年でした。
彼は2月にパトロ
プロコフィエフ:道化師Op.21
「道化師」はプロコフィエフのバレエ第2作。バレエリュスのために書かれ、1921年に初演されている。正式なタイトルは「7人の道化師をだました1人の道化師の物語」だが、長いのでシンプルに「道化師」と呼ばれている。
1914年、プロコフィエフは 音楽院を卒業するとロンドンへ旅することができた。彼はロンドンでピエール・モントゥー、シャリアピンなど知り合い、 リヒャルトシュトラウスの演奏を聞くこともで
ストラヴィンスキー:狐
1922年、セルゲイ・ディアギレフは前年の「眠りの森の美女」の大失敗で意気消沈していた。
バレエ・リュスは解散の危機にあった。
借金取りに追われる日々を彼はじっと耐えていた。
彼は電話に出ると「ディアギレフさんは留守です」と居留守を使い、外出するときには身を潜めながら抜き足差し足で逃げるようにこそこそと外に出る。そんな日々だった(^◇^;)
それでも一座を維持するためには興行を打たなければならない
エッフェル塔の花嫁花婿
「フランス6人組」「狂乱の時代」
1917年、ジャン・コクトーはピカソ、サティと組んでバレエ・リュスで「パラード」を上演。
これは歴史的な傑作になった。
コクトーは「パラード」を文章で補完するように
音楽小論「 雄鶏とアルルカン」も発表した。
「雄鶏とアルルカン」でコクトーは
とりとめなくやたら長大なワーグナー(退屈という名の麻薬)や「印象派のもやもや(ドビュッシー現象)」などを小気味よく軽や
若きベートーヴェンチクルス02
2024/03/02竹風堂大門ホール
ピアノ:神林杏子チェロ : 小島遼子
若きベートーヴェンの第二回です
ベートーヴェンは20代半ば。
彼はピアノの名手としてウィーンで有名になっていました。そしていよいよ作曲家として本格的にデビューした頃。
今日はそんな頃のお話です。
彼は1792年に給費留学とゆー格好でウィーンに来ていたのですが、フランス革命の影響でこれが大きく変わってしまいました。
革命
ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第1番ハ長調 Op15
ピアノ協奏曲第1番ハ長調は作曲順でいえばピアノ協奏曲第2番よりも後の作品だ。出版が2番よりもちょっと早かったので番号が逆になってしまったのだ(同じ1801年の出版なので、ほとんど同時期なのだが…)。
本来であれば番号を入れ替えて「第2番」とすべきところなのだろうが、そのままになっている。既にこれで定着してしまっているので番号の入れ替えは難しかろう。他の作曲家の作品でもそーゆーケースはある(例えばモ
ベートーヴェン:ピアノ協奏曲変ホ長調WoO 4 / ヴァイオリン協奏曲 ハ長調 WoO 5
ピアノ協奏曲変ホ長調WoO4
ベートーヴェンは1784年に協奏曲を書いた。3つの選帝侯ソナタWoO47の翌年、14歳のルートヴィヒは初めて協奏曲に挑戦した。オーケストラのスコアを書くのはこれが初めてだっただろう。彼はこの時点で既に宮廷楽士でオーケストラでヴィオラを弾いていたから、ある程度以上はオーケストラの知識を持っていたはずだ。それでもいきなりこんなに堂々たる規模の作品を書いてしまうのは驚きだ
ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第2番 変ロ長調 Op.19 / ロンド 変ロ長調WoO 6
協奏曲第2番は長らく、ピアノ協奏曲第1番ハ長調Op.15より前に作曲され、ベートーヴェンが1795年3/29にウィーンのブルク劇場の公開コンサートで初演された ということになっていた。第1番より前に書かれたとゆーことはその通りなのだが、その後研究が進んで、3/29にブルク劇場で演奏されたのはピアノ協奏曲第1番だったとゆーことが明らかになっている。現時点での書籍の記述は第1番という記述と第2番という
もっとみるモーツァルト:演奏会用アリア「ああ、私の思ったとおりだわ 〜 ああ、どこかへ消えておしまい」KV272、演奏会用アリア「わが美しき恋人よ、さようなら 〜とどまって下さい、いとしい人よ」KV528
モーツァルトとプラハ
モーツァルトはプラハと縁の深い作曲家だ。
プラハでは1786年に「フィガロの結婚」が上演され、とんでもない大ヒットになった。1787年末にプラハに招待されたモーツァルトは、プラハのとんでもない「フィガロフィーバー」に驚愕する。到着するやいなや大歓迎を受け、休む暇もないほどの忙しさだった。この当時ウィーンではモーツァルトの人気はすでに衰えていたので、栄光に満ちたプラハの滞在はさ