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ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第2番 変ロ長調 Op.19 / ロンド 変ロ長調WoO 6

協奏曲第2番は長らく、ピアノ協奏曲第1番ハ長調Op.15より前に作曲され、ベートーヴェンが1795年3/29にウィーンのブルク劇場の公開コンサートで初演された ということになっていた。第1番より前に書かれたとゆーことはその通りなのだが、その後研究が進んで、3/29にブルク劇場で演奏されたのはピアノ協奏曲第1番だったとゆーことが明らかになっている。現時点での書籍の記述は第1番という記述と第2番という記述が混在しているが、

「先に完成されたのは第2番。3/29にブルク劇場で演奏されたのは第1番」

という結論で間違いないようだ。

ベートーヴェンはついに貴族のサロンではなく、ウィーンの公衆の前に自作のピアノ協奏曲のソリストとして大々的に登場したのだ。デビューは大成功だった。こうしてベートーヴェンの名前は貴族のサロンだけでなく広くウィーン全体に知れ渡ってゆくことになった。
1739年4/1付のウィーン新聞は3/29の演奏会について以下のように報道している
「初日の幕間に有名なルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン氏は自作の 全く新しい協奏曲をひっさげて登場し、聴衆の共感を得て喝采を浴びた」
ベートーヴェンのこのコンサートは3日連続で、初日3/29は自作のピアノ協奏曲(Op15)のソリストとして、2日め3/30は即興演奏(ファンタジーレン)を披露し、3日目はモーツァルトのピアノ協奏曲(KV466)のソリストとして登場した。


ピアノ協奏曲第2番は成立までの過程も非常に複雑で厄介だ。ベートーヴェンはこの協奏曲を出版するまでに、試行錯誤を重ねて、少なくとも4回は改訂した。ボン時代の1786年(ベートーヴェン16歳)から改訂を重ね、最終的な完成はようやく1798年だった。けっこう時間がかかっているのだ。
スケッチ帳の研究によると、ベートーヴェンは既に1786年年頃、協奏曲変ホ長調WoO4の後から、この協奏曲のスケッチを始めている(まだネーフェに教えを受けていた時代)。
1790年頃には一応の格好にまとまって(第1稿)、初演もされているのではないかと推定されている。ウィーンにやって来てからも更に手を加え続け、1793年には第2稿が完成する(ハイドンのレッスンを受けていた頃)。この稿は1793年に初演されたのではないかと言われている。第2稿ではフィナーレのロンドが別のものだったのだが、1794年になって別のロンドに変更になった。第3稿はアルブレヒツベルガーのレッスンに通っていた時期・1794/95に作られた。その後も断続的に手が加えられ、1798年、ようやく最終稿が完成した。この改訂の過程にはボンの学習期からウィーン時代初期までのベートーヴェンの成長がダイレクトに反映されている。
ピアノ協奏曲第2番はそれ自体がまさに、モーツァルトやハイドンのスタイルを吸収しながら、真の自分らしさを確立してゆく過程そのものなのだ。これだけ時間がかかっているので、その音楽はボン時代とウィーン時代初期のスタイルが混在していて、それがとても興味深い。その時々で彼が学び、吸収して自分のものにしていった様々な音楽のスタイルがここには反映しているのだ。オーケストラの編成もティンパニ、トランペット、クラリネットが含まれず角のとれた柔らかな音造りが特徴だ。そのサウンドのあり方は大オーケストラというよりはハルモニームジークや室内楽の方向、モーツァルトに近いものだ。それは大都会ウィーンの大きな劇場よりは、ボンの宮廷や、ウィーンの貴族の邸宅の大広間での演奏を想定したようなサイズ感だと言っていいだろう。それはまさにボン時代からウィーン時代初期にベートーヴェンが馴染んでいたスタイルなのだ。ベートーヴェンが大編成のオケを使って劇的で大胆な表現を協奏曲に取り入れるようになるのはウィーンに越してきてしばらく後からだ。

冒頭で提示されるモットーは決然としたリズミカルなものだ。

第1楽章冒頭

この後からすぐに溢れてくる音楽は、大らかな歌と柔和な表情が特徴的だ(Allegro con brio よりは全体的にはAllegro moderatoの方が相応しいような感じか)。その伸びやかな感覚は変ホ長調協奏曲WoO4とほとんど地続きだ。

協奏曲第2番の冒頭部分。溢れる歌。

ベートーヴェンはこの大らかさの中に的確に冒頭のモットーを的確に打ち込んで、音楽に余分な緩みが生じないように引き締めてゆく。
第二楽章のおっとりと夢見るような雰囲気もWoO4そのままだ。


そして、第3楽章でベートーヴェンはいきなりアグレッシブな方向にギアチェンジをする。ベートーヴェンは当初書いていたロンドを新しく書いたロンドと差し替えたのだ。
ピアノと管弦楽のためのロンド 変ロ長調WoO 6
差し替えられたロンドは「ピアノと管弦楽のためのロンド 変ロ長調WoO6」として独立した作品になる。このロンドはベートーヴェンの死後に発見された。発見された楽譜は未完成の状態で、ツェルニーによって完成され1829年に出版された。自筆譜はその後また行方不明になったが、1898年に再発見されている。
ツェルニーは独奏パートに演奏効果を狙って手を加えているらしく、これは学術的にやや問題ありと言われているが、普通に鑑賞するには特に問題ない。近年の演奏や録音では丁寧にツェルニー版とかツェルニー編曲とか書いてあったりする。多少手が入っていたとしても、実際に少年時代からベートーヴェンの教えを受け身近で接していたツェルニーの版は歴史的価値は十分にあるように思う。こーゆーのはひたすら学問的な問題…。とても大事なことだが、我々はそこら辺は学者さんたちに任せて、難しく考えずにその音楽をシンプルに楽しめばいいと思う。素敵な曲だし👍
このロンドは中間部がアンダンテになっているのが大きな特徴だ(楽章の中身が急緩急の3部構造になっている)。モーツァルトのピアノ協奏曲第22番のロンドと同じやり方。これもまためっちゃ素敵なのだが、ベートーヴェンは協奏曲第2番のフィナーレをほとんどハンガリー風ともいえるような一気呵成に突き進む熱狂的なロンドに置き換えた。ベートーヴェンはロンドの途中でゆったりすることに違和感があったのかもしれない。実際このロンド楽章にはカデンツァも置かれていない。8分の6拍子のリズムは最後まで緩むことなく白熱し続ける。それはやっぱりのんびりした小都市ボンの懐かしい感覚じゃないんだろうなあ。大都会の感覚…





それからわずか十数年後にはウィーンの街全体がワルツの熱狂に飲み込まれてゆくことになるだろう。
「会議は踊る」な時代。
それは決して優雅に取り澄ました踊りではなかった。
風紀を乱す卑猥で不道徳なものとして何度も禁止された。


夜が明けるまで、抱き合って密着した男女がぶっ倒れるまで回転し続け、息を切らせながら踊り狂うウィーンの市民たちの熱狂….
それは息苦しい警察社会の中で抑圧された市民の鬱憤の爆発でもあっただろう。

舞踏の聖化とも言われる熱狂的な交響曲第7番はちょうどこの時代に初演されたのだった


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