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長野で音楽の仕事してます。 脳出血で左半身麻痺。

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マガジン

  • ソナチネチクルス

    2014年のソナチネチクルスのレクチャー原稿のまとめ

  • 連弾チクルス

    2016年開催の連弾チクルス

  • ドビュッシー・ピアノチクルス

    2008年に長野市で開催されたドビュッシー・ピアノチクルスのレクチャー原稿をweb用に直しました。

  • プロコフィエフ・ピアノチクルス

    2015年に長野市竹風堂大門ホールで開催したプロコフィエフ・ピアノチクルスのレクチャー原稿をweb用に加筆修正してまとめてあります。記事はあと数本増えます。

  • モーツァルトの協奏曲

    モーツァルトの協奏曲について書いた記事を集めています。過去に書いた解説原稿をweb用に加筆修正したものが中心です。これから記事が少し増えるかもしれません。

最近の記事

若きベートーヴェンチクルス05

2024年9月16日 竹風堂大門ホール ピアノ:依田ひとみ テノール:上村亮 今日最初に聴いていただくソナタは次回の「悲愴ソナタ」と同時期、1798年の作品です。後半の 第7番なんかも同じです。 研究が進んだ結果「悲愴ソナタ」は既に1797年から作曲がスタートしていることがわかりました。結構早いんです。昔は1番から7番のピアノソナタの後にはっきり区切りのラインがあって初期が終わって8番の「悲愴ソナタ」から中期が始まるとゆーイメージで捉えられてた感じでした。 でも、実際はそん

    • 若きベートーヴェンチクルス04

      2024/07/15 竹風堂大門ホール ピアノ:川口直希 1790年代後半になるとウィーンの音楽界ではベートーヴェンの名声は作曲家としてもピアニストとしても完全に確立されていました。弟子入りを希望する貴族の子弟が後をたちません。楽譜の収入もけっこうあったし、それに演奏のギャラなども合わせると、もう十分に安定した状態にありました。 ベートーヴェンは充実した作品(3つのヴァイオリンソナタOp12、6つの弦楽四重奏曲作品18 、七重奏曲や、ピアノと木管のための五重奏曲などなどなど

      ¥300
      • ベートーヴェン:セレナード ニ長調 Op.25

        ずっと以前に書いた解説原稿を大幅に改稿・加筆しました ■セレナード ニ長調 Op.25  1802年に出版されたこの作品は自筆譜が残っておらず、作曲年代を推定することが困難です。様式的な面から1795-6年という見方もあれば、1797年という推測もあったのですが、近年のスケッチ研究から1801年という説が有力になっています。フル−トとヴァイオリンとヴィオラという珍しい編成の曲を作曲した動機もわかっていません。どこかの貴族のサロンのために書いたのかもしれませんし、フルートを愛

        • 若きベートーヴェンチクルスvol3

          2024/05/18 長野市竹風堂大門ホール ピアノ:腰原菜央 チェロ:外山賀野 1796年、ベートーヴェンはベルリンで二つのチェロソナタを作曲し、初演しました。5月から6月くらいのことです。 前回もお話ししましたけど、ちょい復習です。 ちょうどこの時期はナポレオンの第一次イタリア遠征の時期でした。ナポレオンは北イタリアでもう無敵の強さで、大国オーストリアを完膚なきまでにやっつけました。 5/15にはナポレオンはミラノに入城します。 ナポレオンは高らかに宣言しました。

          ¥300

        若きベートーヴェンチクルス05

        マガジン

        • ソナチネチクルス
          6本
          ¥500
        • 連弾チクルス
          6本
          ¥500
        • ドビュッシー・ピアノチクルス
          6本
          ¥500
        • プロコフィエフ・ピアノチクルス
          7本
          ¥500
        • モーツァルトの協奏曲
          2本
        • モーツァルトの室内楽曲
          3本

        記事

          ベートーヴェン:ピアノ三重奏曲 変ロ長調 Op.11「街の歌」

          2008年に書いた原稿を大幅に加筆修正しました ベートーヴェン:ピアノ三重奏曲 変ロ長調 Op.11「街の歌」 1797−98年の作品。 18世紀末、ウィーンでは管楽合奏による華やかな作品(ハルモニームジーク)が娯楽音楽として流行していました。モーツァルトもたくさん作曲してます。「グランパルティータ」KV361「ハ短調セレナード」KV388とか名曲がいろいろありますね。ボンからウィーンに出てき たばかりの若きベートーヴェンは、ウィーンの聴衆を喜ばせるために、管楽器を活用し

          ベートーヴェン:ピアノ三重奏曲 変ロ長調 Op.11「街の歌」

          若きベートーヴェン・チクルス番外編・ベルリンの王宮にて

          2024/04/20 長野市竹風堂大門ホール チェロ:和田ゆずみ ピアノ:山田えり子 今日は番外なので、ベートーヴェンのピアノ独奏曲はありません。チェロソナタ第1番を中心にデュポールのエチュードと、モーツァルトのデュポールの主題の変奏曲を聴きましょう。 今日はベートーヴェンがウィーンに来て4年目。 1796年のお話です。 ベートーヴェンにとって1796年は思い出深い年でした。 彼は2月にパトロンのリヒノウスキー侯爵と一緒にプラハからベルリンに旅をしました(プラハ〜ドレスデ

          ¥300

          若きベートーヴェン・チクルス番外編・ベルリンの王宮にて

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          プロコフィエフ:道化師Op.21

            「道化師」はプロコフィエフのバレエ第2作。バレエリュスのために書かれ、1921年に初演されている。正式なタイトルは「7人の道化師をだました1人の道化師の物語」だが、長いのでシンプルに「道化師」と呼ばれている。 1914年、プロコフィエフは 音楽院を卒業するとロンドンへ旅することができた。彼はロンドンでピエール・モントゥー、シャリアピンなど知り合い、 リヒャルトシュトラウスの演奏を聞くこともできた。中でも1番大きな出来事がディアギレフと出会ったことだった。そう簡単に会えな

          プロコフィエフ:道化師Op.21

          ストラヴィンスキー:狐

          1922年、セルゲイ・ディアギレフは前年の「眠りの森の美女」の大失敗で意気消沈していた。 バレエ・リュスは解散の危機にあった。 借金取りに追われる日々を彼はじっと耐えていた。 彼は電話に出ると「ディアギレフさんは留守です」と居留守を使い、外出するときには身を潜めながら抜き足差し足で逃げるようにこそこそと外に出る。そんな日々だった(^◇^;) それでも一座を維持するためには興行を打たなければならない。ディアギレフは奮起して動き始めた。まずディアギレフの頭にあったのは1913年か

          ストラヴィンスキー:狐

          エッフェル塔の花嫁花婿

          「フランス6人組」「狂乱の時代」 1917年、ジャン・コクトーはピカソ、サティと組んでバレエ・リュスで「パラード」を上演。 これは歴史的な傑作になった。 コクトーは「パラード」を文章で補完するように 音楽小論「 雄鶏とアルルカン」も発表した。  「雄鶏とアルルカン」でコクトーは とりとめなくやたら長大なワーグナー(退屈という名の麻薬)や「印象派のもやもや(ドビュッシー現象)」などを小気味よく軽やかに攻撃し、「単純さへの回帰(サティ礼賛・6人組がんばれ)」を高らかに宣言する。

          エッフェル塔の花嫁花婿

          若きベートーヴェンチクルス02

          2024/03/02竹風堂大門ホール ピアノ:神林杏子チェロ : 小島遼子 若きベートーヴェンの第二回です ベートーヴェンは20代半ば。 彼はピアノの名手としてウィーンで有名になっていました。そしていよいよ作曲家として本格的にデビューした頃。 今日はそんな頃のお話です。 彼は1792年に給費留学とゆー格好でウィーンに来ていたのですが、フランス革命の影響でこれが大きく変わってしまいました。 革命を恐れたボンの選帝侯マクシミリアン・フランツが中立の立場を守るためにボンから逃げ

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          若きベートーヴェンチクルス02

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          ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第1番ハ長調 Op15

          ピアノ協奏曲第1番ハ長調は作曲順でいえばピアノ協奏曲第2番よりも後の作品だ。出版が2番よりもちょっと早かったので番号が逆になってしまったのだ(同じ1801年の出版なので、ほとんど同時期なのだが…)。 本来であれば番号を入れ替えて「第2番」とすべきところなのだろうが、そのままになっている。既にこれで定着してしまっているので番号の入れ替えは難しかろう。他の作曲家の作品でもそーゆーケースはある(例えばモーツァルトのホルン協奏曲やシューマンの交響曲など)。有名作曲家の有名曲ほど番号の

          ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第1番ハ長調 Op15

          ベートーヴェン:ピアノ協奏曲変ホ長調WoO 4 / ヴァイオリン協奏曲 ハ長調 WoO 5

          ピアノ協奏曲変ホ長調WoO4 ベートーヴェンは1784年に協奏曲を書いた。3つの選帝侯ソナタWoO47の翌年、14歳のルートヴィヒは初めて協奏曲に挑戦した。オーケストラのスコアを書くのはこれが初めてだっただろう。彼はこの時点で既に宮廷楽士でオーケストラでヴィオラを弾いていたから、ある程度以上はオーケストラの知識を持っていたはずだ。それでもいきなりこんなに堂々たる規模の作品を書いてしまうのは驚きだ。彼はまずピアノ協奏曲の作曲を通して管弦楽の作曲を試みながら、交響曲に向かってい

          ベートーヴェン:ピアノ協奏曲変ホ長調WoO 4 / ヴァイオリン協奏曲 ハ長調 WoO 5

          ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第2番 変ロ長調 Op.19 / ロンド 変ロ長調WoO 6

          協奏曲第2番は長らく、ピアノ協奏曲第1番ハ長調Op.15より前に作曲され、ベートーヴェンが1795年3/29にウィーンのブルク劇場の公開コンサートで初演された ということになっていた。第1番より前に書かれたとゆーことはその通りなのだが、その後研究が進んで、3/29にブルク劇場で演奏されたのはピアノ協奏曲第1番だったとゆーことが明らかになっている。現時点での書籍の記述は第1番という記述と第2番という記述が混在しているが、 「先に完成されたのは第2番。3/29にブルク劇場で演奏

          ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第2番 変ロ長調 Op.19 / ロンド 変ロ長調WoO 6

          モーツァルト:演奏会用アリア「ああ、私の思ったとおりだわ 〜  ああ、どこかへ消えておしまい」KV272、演奏会用アリア「わが美しき恋人よ、さようなら 〜とどまって下さい、いとしい人よ」KV528

          モーツァルトとプラハ モーツァルトはプラハと縁の深い作曲家だ。 プラハでは1786年に「フィガロの結婚」が上演され、とんでもない大ヒットになった。1787年末にプラハに招待されたモーツァルトは、プラハのとんでもない「フィガロフィーバー」に驚愕する。到着するやいなや大歓迎を受け、休む暇もないほどの忙しさだった。この当時ウィーンではモーツァルトの人気はすでに衰えていたので、栄光に満ちたプラハの滞在はさぞかし楽しいものだっただろう。 モーツァルトはプラハではいつもドゥシーク夫婦(

          モーツァルト:演奏会用アリア「ああ、私の思ったとおりだわ 〜  ああ、どこかへ消えておしまい」KV272、演奏会用アリア「わが美しき恋人よ、さようなら 〜とどまって下さい、いとしい人よ」KV528

          ベートーヴェン:皇帝レオポルト2世の即位を祝うカンタータ WoO 88

          皇帝レオポルト2世のカンタータ WoO 88 追悼の次は次の皇帝の戴冠になる。フランス革命の大混乱時代、ヨーゼフ2世の次の皇帝はすぐに即位になった(1790年9月)。ヨーゼフ二世には嗣子がいなかったので、ヨーゼフの指名で弟のレオポルドが皇帝に即位することになっていた(ボンのマクシミリアン・フランツはレオポルドのもっと下の弟、末っ子だった)。 レオポルドはトスカーナ大公を努めていた。彼もまたヨーゼフ2世やマックス・フランツと同様に啓蒙君主であり、質素な生活を好む人格者だった。

          ベートーヴェン:皇帝レオポルト2世の即位を祝うカンタータ WoO 88

          若きベートーヴェンチクルスvol.1

          2024/02/10竹風堂大門ホール ピアノ:雪入美優 はじめに 本日はご来場ありがとうございます。今年はベートーヴェンの初期の作品をじっくり聴いていきましょう。 30歳くらいまでの時代です。 ピアノソナタで言うと第8番「悲愴」まで。 交響曲だと第 1番あたりまでになります。 実は我々は20年くらい前に、ベートーヴェンのピアノソナタ全32曲のチクルスをやりました。 今回は当時できなかったことをやりたいと思っています。ピアノソナタをほぼ全部聴いていただくというところは同じ

          ¥300

          若きベートーヴェンチクルスvol.1

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