若きベートーヴェンチクルスvol3
2024/05/18
長野市竹風堂大門ホール
ピアノ:腰原菜央
チェロ:外山賀野
1796年、ベートーヴェンはベルリンで二つのチェロソナタを作曲し、初演しました。5月から6月くらいのことです。
前回もお話ししましたけど、ちょい復習です。
ちょうどこの時期はナポレオンの第一次イタリア遠征の時期でした。ナポレオンは北イタリアでもう無敵の強さで、大国オーストリアを完膚なきまでにやっつけました。
5/15にはナポレオンはミラノに入城します。
ナポレオンは高らかに宣言しました。
「フランス共和制は専制政治を排し、諸国の民衆との友愛を尊重することを誓う。所有権と個人を尊重し、宗教の自由も認める。」
当時、イタリアはあまりにも長く支配されていたので、ほとんど諦めムードとゆーか、無気力な空気に覆われていました。しかしナポレオンの登場が、後のイタリアの統一運動にダイレクトにつながっていくことになります。ナポレオンは支配されていた人たちのマインドを確実に変えたんです。これってもしかして、自分たちも独立できるんじゃね?みたいな….希望と勇気を与えたのでした。そしてそれは東欧諸国の独立運動(諸国民の春)にもつながっていきます。もちろんこれは国民楽派にもつながっていくのです。
イタリアってところは元々とても難しいところで、群雄割拠が凄すぎてうまくまとまっていけない地域だとゆー難しさもあった。そもそも統一とか独立とか難しい土地柄だったのだ。そこにいきなり救世主みたいにナポレオンが来て、うざいオーストリアを追い出してくれた。そこでフランス革命の自由平等博愛の思想を高らかにぶち上げた。
ナポレオンは戦争が強いだけではなかった。占領地の北イタリアで見事な統治手腕を発揮している。支配国オーストリアを追い出してしまったのだから、まずは責任持って統治して安定させないといけない。ナポレオンはここで初めて「政治」を行ったにも関わらず、これをベテランの政治家のように見事に行った。彼は極めて有能な政治家でもあったのだ。
しかし、この時期にはもう、フランスの戦争の性格は少しずつ変化してきていました。最初はまさに「自衛」のための戦争でした。フランスは革命後の大混乱状態で全国的に「てんやわんや」。国は破産状態で軍隊もないし、武器もない。それなのにヨーロッパ中が束になって攻撃してくる。まさに存亡の危機だったのです。祖国を守るために国民も立ち上がりました。本来なら命がけで敵と戦ってくれるはず(ノブレス・オブリージュ)の「貴族」たちはみんな国外に逃げてしまった(市民が追い出したようなものですが…)。市民たちは自力で戦うしかなかったんです。
そう、「ラ・マルセイエーズ」を歌いながら全国から熱いナショナリズムに突き動かされた義勇兵が集まってきたわけ。
そう、マーチのリズムで!
だから第九のフィナーレにもマーチが出てくるんです。
マーチは革命の精神・市民の象徴です。
しかし戦争の様相は変化していきました。それは徐々に「自衛」ではなく「フランス革命の思想」を広めるための戦争に変化しつつ、同時に領土や利権の拡大、国力の強化もまた目的とするようにもなっていきました(-_-;)思想の輸出と一緒に富や領土や利権の獲得も目指すようになっていったんです。だいたいそんなものですよね。十字軍の昔からずーっと同じです。今も同じ。素晴らしい思想をもたらしてやるんだから、相応の見返りはもらうよ、とゆーことでしょう
実際、このイタリア遠征の時ナポレオンは兵士たちには次のように呼びかけている。
「 兵士よ、諸君は裸で栄養も悪い。私は諸君をこの世で最も豊かな平原に連れて行こう。富める田園や、大きな都市が諸君の支配下に入り、そこで諸君は名誉と栄光と富を見いだすだろう」
この言葉の中には崇高な革命の精神など見当たりません。略奪者のような発言です。この少し後に同じ人物が イタリアで発した美しい言葉とは大きく異なりますね。戦争は大きく変質し、フランスもナポレオンもまた知らず知らずのうちに変質してきていました。いや、イタリアで宣言した美しい言葉も彼にとって真実なんです。でも、軍人として、政治家として「残酷なリアル」にも直面するようになっていました。ほとんど破産国家だったフランス経済もどうにかしなければいけないし…
このようにイデオロギーを旗印に問答無用で他国に侵攻して富や何らかの利権も獲得するという格好、
何かに似てませんか?
そう。言うまでもなくアメリカや旧ソ連(ロシア)です。アメリカは「民主主義」を守るためにどんどん他国に侵攻しました。ソ連も「共産主義」を守るために、素晴らしい共産主義思想を広めるために同じことをしました。昔の日本もやっぱり同じ。「大東亜共栄圏」を旗印に侵略を重ねた。傲慢な押しつけです。「フランス革命の精神」とか「民主主義」を旗印にすると何となくその方が正しくて、「共産主義」「君主制」が旗印になるとすごく悪い印象になってしまうんですけどね…..民主主義の方がベターでしょうけど、一方的に押し付けるのはよくないです。
やってることは今の世界もあまり変わりません。残念。
ナポレオンの軍勢はウィーンに迫っていました。
チェロソナタ第2番ト短調Op5-2
さて、ナポレオンがミラノに入城した同じ時期、ベートーヴェンはベルリンの王宮での御前演奏していました。
フリードリヒ・ウィルヘルム二世は音楽好きな王様で、自分でもチェロを演奏した。ベルリンの宮廷では当時最高のチェリスト、デュポールを召し抱えていた。ベートーヴェンはこのデュポールと一緒にチェロソナタの第1番と第2番を作って御前演奏をしたのだ。ここら辺の細かいことは前回の番外編で詳しく触れたので、ここではバッサリ割愛します。noteに前回の番外編のレクチャーの内容を載せてありますのでデュポールのことなどに興味ある方はそちらを参照されたい。
ここで初演された2つのソナタはチェロとピアノが対等な立場で演奏する史上初の本格的なチェロソナタです。
第2番のソナタもまた2楽章構成ですが、第1番と同様に序奏・アレグロ・ロンドの3部構成(3楽章構成)のように見ることもできます。こうした構成は当時のベルリンで好まれていました。ベートーヴェンはベルリンの趣味に合わせてあえてちょっと古風な構成で書いたのでしょう。こうやって古風な形式に目を向けたことはベートーヴェンにとって、大きな刺激にもなりました。この時期のベートーヴェンは4楽章構成を採ったりするように「拡大化」「複雑化」の方向で作曲していました。ベルリンで古風な形式を使ったことで、「拡大化」も試みながら、無駄を省いてゆく合理性・経済性や単純化の方向も同時に探るようになってきたわけなんです。これが7月以降に聴いていただく作品10のソナタから悲愴ソナタにつながっていくんです。
序奏部はへ長調Op5-1と基本的にはよく似た書き方ですが、2番の方がシンプルで、全体に内省的で寂しげな透明感に覆われているのが特徴です。
付点のリズムが非常に印象的。ピアノの右手で付点の下降形が出てくると、その寂寥感にハッとさせられる。この付点のリズムはバロックのフランス風序曲も思わせる。ここに上行系も混ざり始め、堂々たる威容を示し始める(王の御前で弾くことを意識したのかどうか…)。そして序奏の終盤でこの付点のリズムは下降に転じ、孤独の中に沈んでゆく。孤独の底に達するとアレグロの主部がチェロの独白(呟き)のようなメロディで始まる。第1番のソナタの主題の快適に気持ちよく広がっていく感覚とは全く対照的で、常に寂しげだ。劇的な昂りを見せてもいつの間にかすぐに孤独に沈んでしまう。
第2楽章は楽しくご機嫌なロンドだが、やっぱりどこか哀しみの気配が漂っている。
では聴いてみましょう。お願いします
『愛されない男のため息~応えてくれる愛』WoO118
ここで歌曲を一曲聴いてみましょう。
「愛されない男のため息~応えてくれる愛」WoO118
という歌曲です。
今日聴いていただく作品と同じような時期の作曲です。25歳くらい。
曲は2部構成で、タイトルの通り、前半は悲しい感じの「愛されない男のため息」、後半が喜びに溢れた「応えてくれる愛」という構造になってます。前半はオペラのレチタティーヴォみたいに書かれてます。後半の「応えてくれる愛」のメロディが後の「合唱幻想曲」にそのまま引用していることが特に注目すべき点でしょう。このメロディは第九を思わせるということで有名です。確かにほんとによく似てます。これが直接的な「喜びの歌」のメロディのの原型とまでは断言できないでしょうが、ベートーヴェンが喜びや歓喜を表現しようとすると、だいたいこんな雰囲気のメロディになるとゆーことなのかなあとぼくは思ってます。こーゆーある種の「元素」みたいなものは彼の心の中にあって、それが第九で一気に花開いたのかな…と….
ではお願いします。
休憩
ピアノソナタ第4番 変ホ長調 Op.7
後半は大規模で長大なソナタです。演奏時間で言いますと、ベートーヴェンの全32曲のピアノソナタの中ではハンマークラヴィーアの次に長い曲になります。つまりめっちゃ長いとゆーことです。初版に「グランド・ソナタ」と表記されている通りの大曲です。全体としては前作のハ長調Op2-3の感覚を引き継いだような作品になろうかと思います(華麗でダイナミック、王者のような風格)。
「ベートーヴェン」といいますと、どうしてもマッチョで「情熱的で男性的で英雄的」、もっというと「悲劇的」というようなイメージがあって、聴き手の側もそういった先入観があって、それを無意識に期待してしまっている面もあるんじゃないでしょうか。このソナタは規模は大きいですが、全体の雰囲気は優雅で、とても洗練されています。だからあまり注目されないのかな….とも思います。もちろんすごく劇的で英雄的な面もあるんですが、優美さがやや目立つということでしょう。ベートーヴェンは
もちろんいつも怖い顔してる人ではありません。優美な感覚も持ち、愛情に溢れる優しい面だってありますよね。ただ、聴く側がベートーヴェンにそれをあまり期待していないってことです。
このソナタの演奏頻度が低いのは、演奏時間がやたら長い上に技術的に超難しいので、それでピアニストがちょっと敬遠してしまうとゆーこともあるかもしれません。
ベートーヴェン自身はこのソナタのことを「Die verliebte(愛する人)」と呼んでいます。やっぱり柔らかく親密なイメージなんですよね。
とにかく音楽の流れが豊かで余裕があります。これまで聴いてきた1〜3のソナタには若き天才の野心が剥き出しでアグレッシブに現れてくるようなところがあったんですが、このソナタは自信に満ち溢れて余裕があり、既にもう大家の風格があります。「凝縮」以上に「広がり」を、「緻密さ」以上に「豊かさ」を指向していると言ってもいいかと思います。
このソナタに現れる優美な感覚は献呈されたバベッテ(バルバラ)・フォン・ケグレヴィッチ伯爵令嬢の存在が強く影響しているだろうと言われてます。
この作品はその「優美」な感覚が特徴だと捉えられているが、これはベートーヴェンの「悲愴ソナタ」や「熱情」「ワルトシュタイン」「運命」「第九」などなどなどの多くの初作品を知っている我々の物の見方なのだ。当時の聴衆はこのソナタを「情熱的(アパッショナート)」だと捉えて、そのようにこのソナタを名づける人もいたとツェルニーは伝えている。当時の人たちにとっては十分以上に「情熱的」だったことだろう。このソナタの雄大さや威風堂々とした変ホ長調のサウンドは英雄交響曲にダイレクトにつながってゆくものだといえるのだ。この作品は「優美」さが強調されすぎている面があって、かなり損してる面があると思う。
バベッテ(バルバラ)・フォン・ケグレヴィッチ
バベッテはベートーヴェンのお弟子さんでした。彼女はとても優秀で、ベートーヴェンの音楽についてもとても理解が深かったそうです。ピアノ協奏曲第1番(op.15),や 自作の主題による6つの変奏曲Op34 といった作品が彼女に献呈されています。これらの曲はバベッテのピアノの技術を前提にして書かれているはずなので、そう考えると彼女はものすごく上手だったとゆーことになるでしょうね。
ベートーヴェンはこの作品のことを日記や書簡で「Die Verliebte(愛する人)」と呼んでいますから、非常に愛情の込もった作品だと言っていいでしょう。バベッテとの間に恋愛感情があったとかないとか言われたりもしてますが、師弟関係ってのは非常に特別なものです。友情とも違うし、恋愛感情とも違う、家族の感覚とも違います。でもとても深いんです。深い心のやり取りと信頼関係…
時々その思いの深さを恋愛と勘違いしたりするケースも、まあ、実際にあリます。グレーゾーンなんですよ。それは見方を変えればすぐセクハラとかモラハラとかパワハラに変わっちゃいますから。リスクはゼロではありません。
だから日本の音楽大学とかはそこら辺をめっちゃ警戒してます(^^;;
ベートーヴェンはこの時26歳くらい、バベッテが16歳ですから、先生と生徒の感情がちょっと恋愛感情に近づく瞬間があっても、まあ、ごく普通のことでしょう。そのくらいリスキーな感じになるまで深い心のやり取りがあったのだとゆー感じで捉えればいいかなと思いますね。
そこまで感情のやり取りがあって、ようやく何か学べるとゆー面も実際あるし….。
指導者によってはそういった微妙な感情をうまく利用して一気に生徒を伸ばしちゃったりもする。
このソナタには自分のかわいい愛弟子を思う気持ちが素直に出てると言っていいだろう。
バベッテはウィーンとスロヴァキアのブラティスラヴァ(当時はプレスブルクと言われていた)でベートーヴェンのレッスンを受けていました。ソナタ第4番は1796年にプレスブルクのケグレヴィッチ伯爵の邸宅でも書かれました。この見事なバロック風の邸宅は今でも残っていて、ブラティスラヴァの名所になっています。ハンガリー貴族のケグレヴィッチ伯爵はウィーンの劇場の監督を務めたりしていたので、ウィーンにも屋敷を持っていたんです。
ベートーヴェンは伯爵のウィーンとブラティスラヴァの邸宅でバベッテのレッスンをしていた。
1996年のベルリン旅行の後、ベートーヴェンは伯爵のブラティスラヴァの邸宅にしばらく滞在しました。このときベートーヴェンはこのソナタを書いてたんですね。ウィーンとブラティスラヴァはとても近いんです。車で1時間かからない距離です。国は違うけれど、長野から松本とか上田みたいな距離感なんです。
第一楽章の連打は「ワルトシュタイン」を連想させるが、ワルトシュタインのような凝縮力のある連打とは全然違う。その連打から導き出されるのは柔らかい和音と、優美な流れと広がり。すぐにベートーヴェンらしい劇的な音楽になるのだが….この冒頭の連打から弦楽四重奏「ラズモフスキー第1番」を連想する人も多いかもしれない。
声部の独立性も顕著。右手にセンプレ・テヌート、左手がスタカートとゆー指示があったりする(身体がバラバラになりそう!)。2楽章の中間部。
1は362小節もある。いやあ、長いなー。
2 はラルゴ・コン・グランエスプレシオーネとゆー指示。またここにもグラン(Gran/Grand)とゆー単語が出てくるのが興味深い。やっぱり構えの大きな曲なんだよなあ。この時点までのベートーヴェンが書いた緩徐楽章の中では精神的に最も深いところまで到達した音楽だろう。それは時に哲学的で宗教的でもある。後期のベートーヴェンの姿が垣間見えるような音楽だ。
3楽章には特に表示はないが、スケルツォともメヌエットとも言えない独特な感覚の音楽だ。寂しげな透明感が印象的。
中間部"minore"はトリオに当たる部分だが、ロマン派の小品のようだ。
フィナーレの終盤は奔流のような32分音符のパッセージが印象的だ。ここの表現は古典の枠組みを大幅に越えていて、ショパンやリストの書き方に接近していると思う。
そして、これだけの大曲の締めくくりとは思えないようなppで終わるのがすごい。
このppの豊かな充足感をぜひ味わって頂きたい。
では聴いてみましょう。
余談:ハンガリー貴族
ケグレヴィッチ伯爵家はスロヴァキア出のハンガリー貴族だ。
スロヴァキアという国は南にハンガリー、南西にオーストリアと隣接する場所にあって、約1000年に渡ってハンガリーの一部「ハンガリーの一地域」だった。ハンガリー貴族はスロヴァキア方面出身の人が多かった。彼らは独自の所領を持っていて裕福な人が多かった。有力な貴族は独自の軍事力を持つような場合すらあったようだ。ハンガリー貴族はものすごく力があったのだ。(富裕だったからこそケグレヴィッチ宮殿みたいなとんでもなく豪華な邸宅が可能になった。ブラティスラヴァにはこーゆー超ゴージャスなハンガリー貴族の邸宅が他にもある。)
ハンガリー貴族は力を持っていて誇り高い人が多く、ハンガリーを統治していたハプスブルク帝国も彼らの扱いにはことのほか気を使わなければならなかった(反ハプスブルクな民族主義的な貴族もいてよく反乱も起こした。支配者側からすれば非常に面倒な人たちだっただろう)。オーストリア継承戦争でプロイセンがシュレージエンに侵攻してきたとき、23歳の若きマリアテレジアはハンガリー貴族たちが集まるハンガリー議会(議会はブラティスラヴァにあった)に純白のドレスでいきなり乗り込んで涙ながらに切々と演説して彼らに援助を要請したのはあまりにも有名な話だ(1741)。
この時のマリアの演説に感動したハンガリー貴族たちは「マリアに血と命を捧げよう」と彼女を熱烈に崇拝するようになった。彼らにとってマリアは、👆の絵そのままのようなイメージだったのだろう。彼らは彼女のために軍隊を出し、金銭的な援助も行った。この援助があったから、マリアはなんとかプロイセンと戦い抜くことができたのだ…
こうしたこともあって、マリア・テレジアは誇り高いハンガリー貴族たちの心情をよく理解して彼らをとても大切に扱った(息子のヨゼフ二世はここら辺についてデリカシーが全くなかった…なぜだ)。
ベートーヴェンの支持者やパトロンにはハンガリー貴族も多い、ケグレヴィッチ伯爵もそうだし、リヒノウスキー侯爵、ズメスカル男爵も同様….範囲を「東欧」全体・ロシアとかチェコとかまで広げるともっと多くなる。
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