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プロコフィエフ:道化師Op.21

  「道化師」はプロコフィエフのバレエ第2作。バレエリュスのために書かれ、1921年に初演されている。正式なタイトルは「7人の道化師をだました1人の道化師の物語」だが、長いのでシンプルに「道化師」と呼ばれている。

1914年、プロコフィエフは 音楽院を卒業するとロンドンへ旅することができた。彼はロンドンでピエール・モントゥー、シャリアピンなど知り合い、 リヒャルトシュトラウスの演奏を聞くこともできた。中でも1番大きな出来事がディアギレフと出会ったことだった。そう簡単に会えない超大物と会えたのだから、さぞかし嬉しかっただろう。
プロコフィエフはこの2年前にモスクワでストラヴィンスキーが弾く「火の鳥」のピアノ版を聴いて、こともあろうにストラヴィンスキーに面と向かって「リムスキー=コルサコフの模倣だ」と言い放ったのだ。無礼者である。リムスキーのクラスの先輩に向かってなんちゅうことを!


プロコフィエフはロンドンで連日連夜バレエリュスの公演に通いつめ、舞台袖で食い入るように舞台を観た。プロコフィエフはバレエリュスの「火の鳥」の上演を観てすっかり魅了されてしまっていた(こーゆーところはかわいい)。

ある日プロコフィエフはピアノ協奏曲第2番 Op16をディアギレフに聴いてもらうことができた。ディアギレフはこれが気に入って、プロコフィエフに早速作曲依頼をした。
「ロシアのおとぎ話か古代のテーマで新作を書いてほしい」と。プロコフィエフはディアギレフが推薦したゴロデツキーのロシアの古代を主題にした「アラとロリー」を作曲することになった。

ロシアに戻ったプロコフィエフは勃発した第一次大戦の中で「アラとロリー」の作曲に没頭する。
プロコフィエフは未亡人の一人息子だったので、戦争に召集されることはなかった。
第一次大戦でロシアのすべての生活は急激に変化した。
排外的な愛国主義の呼びかけ、最前線の恐ろしい大虐殺の気配、ニュース…。

第一次大戦はそれまでに人類が体験した最も恐ろしい戦争だった。近代兵器と生身の兵士たちの残酷なまでに非対称な戦闘….。息苦しい塹壕…。
そんな中で、プロコフィエフはディアギレフのバレエの仕事に没頭する。

1915年の2月初め、彼はローマのディアギレフのところに行った。大戦中なのでまだ中立国だったルーマニア・ブルガリア・ギリシアを通ってやっとの思いでイタリアに入った。世界大戦中の移動は敵国を迂回するなどめっちゃ大変なのだ。
しかしディアギレフは「アラとロリー」が気に入らなかった。
この作品の原始性が「春の祭典」の二番煎じのように感じられたらしい。
しかし、きついことを言いながらも、ディアギレフはプロコフィエフのことを諦めなかった。ディアギレフはストラヴィンスキーにこう書いている。
「彼を君のところに連れて行こう。すっかり彼は変わるはずだ。そうしないと我々は永久に彼を失ってしまう…。」 ディアギレフは、イタリアにプロコフィエフが興味を持ち夢中になるようにさせ、すっかり虜にさせてしまった。 プロコフィエフは、イタリアの風物や文化には感激したが、イタリア未来派の音楽に関しては冷静で無関心だった(前衛は好きじゃないのだ)。
ディアギレフはプロコフィエフの演奏会をするために骨を折り、ローマでプロコフィエフのピアノ協奏曲第2番が演奏された。
ここで「道化師」の企画が生まれた。契約書にサインしたプロコフィエフは、ロシアに戻った。


この時期のプロコフィエフの2つの大作、「道化師」と「スキタイ組曲」は ディアギレフが拒否した「アラとロリー」 Op.20の音楽から生まれたものだった。1916年にペトログラードで行われたスキタイ組曲の初演はプロコフィエフの全作品の初演の歴史の中で最も激しい騒ぎを巻き起こした。この異常に凶暴で極彩色な音楽に聴衆の大部分は激怒し、グラズノフは途中でホールから逃げ出した。批評家たちはこれを書き殴りの楽譜と呼んだ。
第一次大戦が終わると、
ロシアは革命一色になった。
革命を逃れてプロコフィエフはアメリカに渡った。
いつの間にか「道化師」どころではなくなっていた。

1920年4月プロコフィエフはパリとロンドンでディアギレフと再会し、「道化師」が再び動き出した。
ディアギレフはいくつかの書き直しを提案し(各場面をつなぐ間奏曲を作り、フィナーレ全面的改訂など)、ストラヴィンスキーも意見を述べてくれた
(*´ω`*)優しいなあ

バレエ・リュスは「道化師」で1921年のシーズンを開幕した。 指揮はプロコフィエフ自身が行った。初演は大成功だった。
公演のプログラム用にディアギレフはプロコフィエフの肖像画をアンリ・マティスに注文した。

マティスによるプロコフィエフの肖像 1921

この肖像画を見たプロコフィエフは不満げにマティスに尋ねた。「どうして僕の顔をこんなに長くしたのですか」
マティスは
「これはあなたの身長と、今後の発展を表現するためです。勢いが感じられるでしょう?」
と答えた。

当時のバレエ・リュスはマシーンが解雇されたばかりで、振付師がいなかった。このため『道化師』の振付はダンサーのタデ・スラヴィンスキーが担当し(初の振付だった)、美術のミハイル・ラリオノフがスラヴィンスキーのサポートをして、振付のアドヴァイスまでした。ラリオーノフはこの仕事にこれまでになく意欲を燃やした。

ラリオーノフによるバレエ「道化師」の衣装
ラリオーノフによるバレエ「道化師」の衣装

ラリオーノフの衣装・美術はレイヨニズム(光線主義)的な非常に鮮烈なもので、観客に強いインパクトを与えた。この作品が「バレエ」としてはいまいちな出来に終わってしまったのは、その振り付けによるところも大きかったかもしれない。実際、スラヴィンスキーはこれ以降振付をすることはなかった。このバレエはラリオーノフの美術を中心とした作品になった。全体の演出をラリオーノフが担当して、ラリオーノフのコンセプトをひたすら活かす形で振付がなされたのだ。そこらへんが「バレエ」として難しかったのかもしれない….ディアギレフもこの作品について「いちばんいいのは音楽だ。次にいいのは美術。最悪なのが振付だ」と言い。「しかしこのままではどうしようもない。振付家を探さねば。」と言った。やはりマシーンの不在は大きかった….

「道化師」は残虐さとサディズムに溢れた悪夢のようなコメディだ。台本はアファナシエフの『ロシア民話集』のなかのペルム地方の二つの民話を基にして作られた。

ストーリーは 以下の通り。
主人公の悪い道化師は、妻と一緒にほかの7人の年老いた道化師を騙して金を巻き上げる 計画を立てる。 彼は7人の道化師を食事に招待した。
そこで悪い道化師は妻を殺す芝居をし、妻に死んだふりをさせ、死んだ妻を「魔法の鞭」で打つと再び生き返るという芝居をする。
彼はこの「魔法の鞭」を7人の道化師に法外な値段で売りつける。もちろんそんなのは嘘っぱちだ。
7人の道化師は家に帰ってこの鞭の効力を試そうとして妻を殺してしまうが、もちろんインチキな鞭だから、いくら鞭で叩いても生き返ったりしない。
怒った7人の道化師は悪い道化師に復讐しようとする。悪い道化師は逃げ回り、自分の妻を隠して料理女に変装する。7人の道化師は、その料理女(悪い道化師)が気に入ってしまう。
そこに一人の金持の商人が、7人の道化師の娘たちのうちから嫁を選ぶためにやってくる。だがこの商人もまた、この変装した料理女が気に入ってしまう。商人は変装した料理女を妻に迎え、寝室に連れて行く。寝室に連れ込まれた悪い道化師(料理女)は困ってしまった(彼はペテンがバレる危機と男に犯される危機に直面する…)。
悪い道化師は策を巡らせてやっとの思いで商人の部屋から逃げ出す。
その後、変装をやめた悪い道化師が現われ、料理女を返せと商人を脅迫する。商人は謝って金をだして、やっと許してもらう。
他の道化師たちも再び現われ、最後に全員のバレエが展開して大団円。
とゆー物語。
あまりに複雑なのでちょい端折っているが、
骨子はだいたいこんな感じ(^◇^;)

この作品についてプロコフィエフは述べている。
「ロシアの素材はよく書ける。私はにまだ手付かずの地方に触れ、処女地に種をまいた。そしてそれは予想外の収穫をもたらした」


「道化師」のソコロヴァとスラヴィンスキー:1921 ロンドン



パリの上演の後、バレエリュスは「道化師」のロンドン初演を行った。

その後プロコフィエフはフランスに戻ってピアノ協奏曲第3番の作曲に取り掛かった。これは大傑作になった。

1922年、プロコフィエフは『道化師』のバレエ音楽から、12曲を選んで組曲Op21bisを作った。12曲の中から5-8曲を任意に選曲して演奏するように想定されている(12曲全部やると1時間近くになってしまう…..)。

息苦しいまでの異常な狂熱が特徴の「アラとロリー」に比べると、「道化師」の音楽はオケの編成もやや小さくなり、すっきりと風通しが良くなった印象だ。道化師がテーマなので、その音楽の性質はユーモアと皮肉に満ちて、基本的には愉快なものだと言える。ユーモア、皮肉、抒情性、ノーブルな軽やかさ、野蛮な残虐性、機械的運動性。通俗性が同居した非常にプロコフィエフらしい仕上がりになっている。飽きずに楽しく聴くことができる音楽だ。
冒頭のオーボエ、コールアングレとファゴットの二重奏による主題(道化師の主題)はこのバレエ全曲を統一する「固定楽想」として用いられる。登場人物にはそれぞれロシア的な音楽が割り振られている(ライトモチーフみたいに)



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