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ベートーヴェン:皇帝レオポルト2世の即位を祝うカンタータ WoO 88

皇帝レオポルト2世のカンタータ WoO 88

追悼の次は次の皇帝の戴冠になる。フランス革命の大混乱時代、ヨーゼフ2世の次の皇帝はすぐに即位になった(1790年9月)。ヨーゼフ二世には嗣子がいなかったので、ヨーゼフの指名で弟のレオポルドが皇帝に即位することになっていた(ボンのマクシミリアン・フランツはレオポルドのもっと下の弟、末っ子だった)。
レオポルドはトスカーナ大公を努めていた。彼もまたヨーゼフ2世やマックス・フランツと同様に啓蒙君主であり、質素な生活を好む人格者だった。レオポルドは兄と違って政治センスの優れた英邁な君主だった。、トスカーナを一流の国家に成長させた。彼は軍縮を行うことで税金を減らし、ヨーロッパで初の死刑廃止も断行した。人望も厚く政治手腕に優れたレオポルドに人々は大いに期待した。ボンでもレオポルド二世の即位のお祝いムードが高まった。

ベートーヴェンはヨーゼフ2世の追悼カンタータに引き続きレオポルド2世の即位を祝うカンタータも作曲した(1790年10月)。この二つの作品は、運命と田園みたいに対をなすような作品だ。追悼カンタータと同様にテクストはアヴェルドンクだった。この作品もどこかから委嘱された作品だと考えられているが(ボンの公共機関?)、この作品も演奏されることなく長い間忘れ去られていた….追悼カンタータの方が演奏機会に恵まれているようだが(短調のベートーヴェンはやっぱり人気あるんだよなあ….)、この祝典カンタータも見るべきところの多い素晴らしい作品と思う。

追悼カンタータより短い、準備期間の問題もあったのだろうなあ。
追悼カンタータと対になった作品。
ヨーゼフ2世の死の悲しみと安息(まどろみ)の中から、新皇帝レオポルド(新たな光)が現れるという構成になっている。


1ソプラノ独唱と合唱、レチタティーヴォ「彼はまどろむ」
2ソプラノのアリア「湧き出よ、歓喜の涙よ」
3バスのレチタティーヴォ「地の民よ、感嘆せよ」
4テノールのレチタティーヴォ「歓喜に私の心は震える」
5三重唱「彼の父ヨーゼフによって後継者とされた」
6合唱「万歳、ひざまづけ、百万の人々よ」

第1曲はソプラノと合唱による個性的なレチタティーヴォ。このレチタティーヴォの最後の最後でトランペットとティンパニが加わって壮麗で祝典的な雰囲気になる。
こーゆー感じのレチタティーヴォはベートーヴェンのオハコだ。例えば「フィデリオ」第1幕のレオノーレのものすごいレチタティーヴォを聴いてみて欲しい。ベートーヴェンはこの時点で既にフィデリオを予言するようなレチタティーヴォを書いているのだ。(数年後の "Ah! Perfido,Op65"もまた同様)

第2曲のソプラノの大規模なアリアはテクストはドイツ語だが、非常にイタリアオペラ的書かれ、技巧を誇示する華麗なパッセージ(アジリタ)にも事欠かない。そして、このアリアはフルートのソロとチェロのソロが、ソプラノ独唱と共に大活躍するのが大きな特徴だ。フルートがソリスティックにオブリガートとして活躍することは特に珍しくもないが、チェロがソリストとして大活躍するのは極めて異例だ。これはもうオブリガートの域は大幅に越えていて、技巧的にも難易度極めて高く、めっちゃコンチェルタンテなのだ。時にはフルートとソプラノ独唱と競うかのように華麗に書かれている。時々伴奏っぽくなる時もあるが、そーゆー時のアルペジオなんかがこれまためっちゃコンチェルタンテでかっこいいのだ。これはおそらく当時ボンの宮廷オーケストラで弾いていた名チェリスト、ベルンハルト・ロンベルク(1767-1841)が居たからこのような格好になったのだろう。

ロンベルク


ベートーヴェンはロンベルクを尊敬し、彼のためにチェロ協奏曲を書こうとしたこともあったようだ(実現しなかったのは残念!)。ロンベルクのチェロ協奏曲なんかを聴くと、このアリアの独奏パートにはロンベルクの影響が感じ取れるように思う。
ロンベルクのチェロソナタはブラームスのチェロソナタに影響を与えたことで有名だ。

ベルンハルト・ロンベルク

第3曲のバスのレチタティーヴォ第4曲のテノールのレチタティーヴォは、意外にも伝統的な通奏低音によるレチタティーヴォだ。
第5曲はソプラノとテノール、バスの三重唱。テノールの活躍が目立つ。オーケストラの管楽器はクラリネットとホルンだけで書かれている。三重唱はけっこう劇的に書かれてる場面も多いのだが、そんな場面でも柔らかな管楽器のハーモニーで三重唱を優しく包んでいくような感覚が素敵だ。
第6曲の合唱には、最初から最後までしっかりトランペットとティンパニも参加して力強く壮麗だ。まさに皇帝万歳!
頻発するフェルマータや総休止、subito p(突然Pに落とす)が非常に効果的だ。終盤ではちょっと対位法的な処理も見せたりする。この最後の合唱のソプラノはffやfの高音が続くので、かなり大変だろうと思う(-_-;)

コジェルフ

即位後のレオポルド

非常に進歩的な啓蒙君主だったレオポルド2世だからやりたいことはたくさんあったに違いない。しかし、残念ながらオーストリアの状況がそれを許さなかった。
当時のオーストリアはフランスやロシアとも緊張関係にあった。軟禁状態にある妹マリー・アントワネットの身の上も心配だし、ポーランド分割の問題もある……etc..etc..etc…。そんな状況なのに、兄ヨーゼフが性急に打ち出した政策のせいでオーストリア国内は大混乱状態にあった。レオポルドはまず政治を安定させる必要があったため、兄の農奴解放令を撤回するなど、反動的な政策に転じざるを得なかった。しかしそうした困難な状況でもレオポルドはバランスをとりながら様々な改革を行って、国家の資産を増やすことにも成功した。やっぱりすごい手腕だったのだ。
即位の翌1791年6月にはマリー・アントワネットとルイ16世がヴァレンヌ逃亡事件を起こしてしまう。激動の時代。心配は尽きない….フランス王家の信頼と権威は完全に地に落ちた。この事件を知ったヨーロッパの君主たちの間には深刻な動揺が広がる。
レオポルドはプロイセンのフリードリヒ=ヴィルヘルム2世とピルニッツで会談し「ピルニッツ宣言」に署名した(1791年8月)。フランスにおける秩序と王政の復興はヨーロッパのすべての君主の共同利益だとヨーロッパの全ての君主に呼びかけて「準備ができしだい緊急の行動を行う」ことを要請した。これはフランスに対する「警告」のつもりだったが、フランスは敏感に反応し、これを警告以上のものと判断した。
こんな中で、レオポルド2世は亡くなってしまう。在位期間わずか2年だった。
1792年フランスはオーストリアに宣戦布告。フランス革命軍とオーストリア・プロイセン連合軍の戦闘が開始される。この戦闘の中を若きベートーヴェンを乗せた馬車はウィーンへ向かって走ったのだ(危険だったらしい)。

チェコでもレオポルドの祝典カンタータは作曲された。当時のオーストリア皇帝は同時にボヘミアやハンガリーの王様でもあった。ボヘミア政府はレオポルドのプラハでの戴冠式のためにモーツァルトにはオペラ「皇帝ティートの慈悲」KV621、コジェルフには戴冠式カンタータの作曲を依頼した。

レオポルド2世の戴冠式(1790年プラハ)

モーツァルト最後のオペラ「皇帝ティートの慈悲」は、新皇帝の即位を賛美するために作られたので「君主の慈悲」をテーマにしたオペラ・セリアになったのだ。バスティーユの衝撃の翌年だから、当局は絶対に「君主制万歳オペラ」が必要だった。初演は残念ながら成功しなかった…。新皇后マリア・ルイザはこのオペラのことを「ドイツのゴミ屑」と評した。
ダ・ポンテと組んで作れば受けたかもしれないが、ダ・ポンテはレオポルド2世に国外追放されてしまっていたし、まさかこのような国家的ウルトラフォーマルな場でブッファを上演するわけにもいかない(^◇^;)

モーツァルトもサリエリもレオポルド2世には冷遇された。ヨーゼフ2世は時々苦言を呈しながらもそれなりに彼らを大事にしていたのだが….
レオポルドはモーツァルトのどこが気に入らなかったのか…

レオポルト・アントン・コジェルフ(1747 - 1818)

コジェルフの戴冠式カンタータの方は大成功だったようだ。今ではモーツァルトの影に完全に隠れてしまったようなコジェルフだが、当時はモーツァルト以上の知名度を誇る有名作曲家だった。今の我々が聴くとモーツァルトやベートーヴェンのような異常な天才性は感じられないものの、ハッとさせられるような場面も多く、やはり凡庸と言って簡単に片付けられない立派な音楽だろう。第一曲オーケストラの序奏の中盤以降のエキサイティングな盛り上がりは、実に素晴らしいではないか。
コジェルフはモーツァルトの後を受けてウィーンの宮廷作曲家に任命された。コジェルフの給与はモーツァルトの倍だったそうな….。
コジェルフの短調の作品はインパクト抜群なので、まあまあよく取り上げられてる方だと思う。以下に少し例を挙げておこう
交響曲ト短調の劇性には圧倒される。オケの曲だから構えも大きいしね。
コジェルフの短調はソナタや室内楽になると劇性以上にむしろロマン派的な憂いの方が前面に出てきたりするように思う。
ソナタト短調0p35-3
ソナタハ短調Op2-3
ソナタニ短調Op20-3
ソナタイ短調Op26-2

そうそう、トリオソナタト短調Op12-3なんかを聴くと彼はめっちゃロマンチストなんだなあと強く思う。ここからメンデルスゾーンまではほんの数歩な感じだ….。

ちなみにコジェルフはベートーヴェンについてどう思っていたのだろうか。当時ベートーヴェンと親しかったヴァイオリン弾きのヴェンツェル・クルンプホルツによって伝えられたエピソードは以下の通り。

ヴェンツェル・クルンプホルツ(1750-1817)

ある日ある日クルンプホルツはコジェルフにベートーヴェンのピアノ三重奏曲ハ短調Op1-3を聴かせた。するとコジェルフはいきなりキレてこの楽譜を掴んで投げ捨てた。

うーん。すごいなー((;゚Д゚)
やっぱり当時のベートーヴェンは「超前衛」だったとゆーこと。熱烈な賛美者も居れば強烈なアンチも大勢居たのだ。


レオポルドの後に即位したフランツ2世の時代になると、
オーストリアはウルトラ反動的な政治に舵を切る(-_-;)

メッテルニヒ体制。密告社会・警察社会がやってきた。
抑圧された市民社会のマインドは内向きになり、ビーダーマイヤーの時代になる。シューベルト、ヨハン・シュトラウス、メンデルスゾーン…etc.etc

メッテルニヒ


フランツ2世



革命をなしとげたはずのフランスですら反動的になって、王政復古の方向に向かってゆく….


ルイ18世



革命は「劇薬」とも評されるが、
それだけに副作用もめっちゃ強かったのだ。


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