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ベートーヴェン:皇帝ヨーゼフ二世の死を悼むカンタータWoO87

ヨーゼフ2世

1790年2月、オーストリアの皇帝ヨーゼフ二世が崩御した。これを受けてボンでも亡き皇帝の追悼式が行われることになった。この追悼式で演奏するカンタータの作曲を当時20歳のベートーヴェンが引き受けたのだ。この追悼式はボンの啓蒙猛主義者たちのグループ「読書協会」が企画したものだった(ベートーヴェンも所属していた)。この式典ではフランス革命勃発時にボン大学の特別講義で学生たちを感動させたシュナイダー教授も追悼の式辞を述べることになっていた。フランス革命のこの時期にこうした思想のグループが、対立する立場の皇帝の追悼式を企画するなど奇異な感じを受けるかもしれないが(しかもシュナイダー教授まで!)、ヨーゼフ2世の場合は事情が違うのだ。
彼は「啓蒙君主」の代表的な存在だった。「啓蒙思想」では否定されるべき支配者側の王族や貴族の中にも「啓蒙思想」に影響されて共感する者も多くいた。ハプスブルクのマリア・テレジア、プロイセンのフリードリヒ大王、ロシアのエカテリーナなんかも啓蒙君主として有名だった。こーゆー人たちはものすごく教養があるから「啓蒙思想」の素晴らしさは理屈の上ではよ〜くわかっていた。ヨーロッパ全体で格差が拡大し、民衆の不満が高まっていることも強く感じていただろう。でも自分たちはまさに権力側。それを否定されるのは困るし、それで国が混乱するのも嫌だ。だから彼らにとって、「自由平等博愛」の精神は君主から人民に与えらるもので、あくまでも「君主のもとでの自由平等博愛」でなければならなかった。こうした君主たちは知識人や芸術家たちの力も借りながら、「自由平等博愛」を国民に授けるとゆー格好で啓蒙主義的な政策を打ち出してゆく。懐柔的な政策とも言えるだろう。

ヨーゼフ二世は飛び抜けて過激な啓蒙君主だった。彼にとって何よりも国民が第一だった。常に国民のための政治を目指し、「国家の従僕」を目指した。ものすごい勢いで啓蒙的な改革を全力で打ち出して民主化を推進した。それはもう、ほとんど「革命家」と言ってもいいほどだ。農奴制の廃止、 宗教の寛容令(これによってカトリックとプロテスタントの闘争に終止符が打たれる)、拷問の廃止、検閲の廃止(出版の自由)、教会や貴族たちから特権を取り上げた。宮廷専用だったプラーターアウガルテンは国民に解放された。それらの急進的な改革はあまりに性急すぎて、しばしば思慮に欠けていた。改革を打ち出すたびに抵抗勢力の猛反対を喰らい、たちまち混乱を招いて実行できないことが多かった。彼はじっくり根回しをし、駆け引きをしながら漸進的に物事を進めることができなかった。母のマリア・テレジアのような政治的狡猾さが彼にはなかった。そもそも保守的な国柄のオーストリアが、一気に新しい理念に馴染めるはずもない….
それでも、ヨーゼフ2世は国民にとても愛された(そりゃそうだろう)。だから自由主義者たちが集まったボンの「読書協会」がヨーゼフ2世のための追悼式を企画しても決して不思議ではない。世の中すべてがロベスピエールのような異常に純粋な権力否定論者だったわけではない。フランスにだって「立憲君主制」を望む人たちもかなり多かったのだ。それはどの国も同じだろう。思想とか難しいことではなく、ごく自然な感覚で王室に愛着を持っている人だってもちろん多かった(今の日本やイギリスのように)。ボンは国民のために善政を行ったマックス・フランツが人気者だったから、尚更そうだろう。
ベートーヴェンは「専制政治」には絶対反対だったが、革命後のフランスへの嫌悪もまたはっきりと口にしたし、例えばロベスピエールが行ったような「恐怖政治」なんか大嫌いだっただろう(好きな人なんか一人もいないと思うが…)。シラーもまたフランス革命後に次のように書いた。「神聖な人間の権利に依拠 して政治的自由を戦い取 ろ うとするフランス国民の試みは、彼らには不可能であり、またそれに値 しないことが明白とな りました。それは、この不幸な国民のみならず彼 らとともにヨー ロッパのかなりの人を、否、今世紀全体をも野蛮と屈従へとひきもどしてしまったのです。」おそらくベートーヴェンも似たような感覚を持っただろう。ベートーヴェンは革命の精神には心から共感していたし、ナポレオンの賛美者でもあった。でも、ボンの出身のオーストリア国民だった彼は、オーストリアに対してはしっかり愛国的だった。「革新か保守か」みたいに単純には分けられない。
人間とはそーゆーものだし、
この時代がまさにそーゆー時代だったのだから。

皇帝ヨーゼフ二世の死を悼むカンタータWoO87


依頼されたカンタータは1790年3 〜6月に作曲された。大編成オケ(2フルート、2オーボエ、2クラリネット、2ファゴット、2ホルン、弦楽)、独唱4人、合唱のために書かれ。演奏時間は全7曲で約40分という大作だ。しかしこの作品は演奏されず(木管に演奏困難な箇所があったことが原因だったようだが…)、1884年に楽譜が発見されるまでずっと埋もれたままだった。
近年、この追悼カンタータはようやく注目を集めるようになってきている。マイケル・ティルソン=トーマスやレフ・セーゲルスタムといったメジャーな指揮者が録音したりしてるので、今後演奏機会が増えてくるかもしれない。短調が好きな人多いし、レオポルドの祝典カンタータよりも、追悼カンタータの方がちょっと受けがいいのかもしれない。祝典カンタータもすごいと思うが….

このカンタータはオーケストラにトランペットとティンパニが含まれていないことが大きな特徴だ(こうした式典用の音楽には本来トランペットとティンパニは付き物なのだが….)。
次に書かれた戴冠式の祝典カンタータにはもちろんトランペットとティンパニは使用される
そのために追悼カンタータはレガートな歌謡性が際立ってくる。sfやアクセントのような箇所では、強いアタックがない分、却って呻きや慟哭のように聞こえたりもする。
ハ短調の第一曲めから既にベートーヴェンの個性がはっきり出ている。威風堂々たる立派な作品だ。全7曲は両端の第1 曲と第7曲と真ん中の第4曲に合唱が置かれ、その間にレチタティーヴォとアリアが配されるシンメトリーの構造になっている。

第1曲:合唱「死よ、荒廃の世を夜を直して」
第2曲:レチタティーヴォ(バス)「狂信という名の怪物が」第3曲:アリア(バス)「ヨーゼフが神力を身につけて」
第5曲:レチタティーヴォ(ソプラノ)「彼は王国の憂いから解放されて」
第6曲:アリア(ソプラノ)「ここに安らかに眠る」
第7曲:合唱「死よ、荒廃の世を夜を直して」
テクストは神学を学んでいたセヴェリン・アントン・アヴェルドンクが担当。アヴェルドンクは、ベートーヴェンの父親ヨハンの声楽の弟子で、少年ベートーヴェンが演奏会デビューしたときの共演者だった。
第1曲:合唱「死よ、荒廃の世を夜を直して」
1曲めと7曲めのコーラス「死よ、荒廃の世を夜を直して」の厳粛な哀しみの表現には心打たれる。"Joseph ist todt!"(ヨーゼフは死んだ)という部分。"todt(死)"の弱音での繰り返しは印象的だ。ppのラストで楽曲全体が低音のC(ド)の中に沈み込んでゆく感覚。凄い!
2曲目のバスの荒れ狂う強烈なレチタティーヴォは、テクストの「狂信という怪物」を見事に表現している。これは田園交響曲の嵐の楽章の先触れと言ってもいいだろう。このへんの男声の劇的表現は「フィデリオ」にもそのまま受け継がれてゆく。

第2曲:レチタティーヴォ(バス)「狂信という名の怪物が」第3曲:アリア(バス)「ヨーゼフが神力を身につけて」

続くバスのアリア「ヨーゼフが神力を身につけて」の決然たる音楽は、とにかくかっこいい!の一言に尽きる。ドイツオペラの男声のアリアにはこーゆー風にヒロイックでやたらとかっこいい曲がけっこう多いが、これはそれらの出現を予言していると言えるだろう。

中央に置かれた第4曲はこのカンタータの中でも白眉と呼べる美しい音楽だ。
まさに光の中へ昇ってゆく感動的なメロディ。
第4曲:ソプラノと合唱「人間は光の中へ昇り」
冒頭のメロディは後に「フィデリオ」のフィナーレにそのまま転用されることになる。

追悼カンタータの第4曲冒頭のオーボエ

1790年、バスティーユの翌年・革命の真っ只中で「革命的啓蒙君主」のために書かれたこの音楽が、啓蒙的思想がそのままオペラになったような「フィデリオ」の最も感動的な場面(フロレスタンが解放される場面)で使われていることはやはり象徴的なことだ。ベートーヴェンは、若き日に体験した革命の熱狂の中で生まれたこの感動的なメロディを心の中にずっと持ち続けていたのだ。ちなみにベートーヴェンがシラーの頌歌「歓喜に寄す」を知ったのもちょうど革命初期の頃だ。

フィデリオのフィナーレのオーボエの旋律(Sostenuto assaiから)

「フィデリオ」のフィナーレではこのメロディを感動的に歌い上げた後で、第九と同じように歓喜を解き放ち大爆発させ、とんでもない興奮状態に到達して幕となる。それは革命の強烈なエネルギーそのものと言えるだろう。革命の音化。
その起爆力は第九を上回っているかもしれない。
やっぱりそこら辺は「交響曲」と「オペラ(劇場作品)」の違いとゆーことになるだろうな…
どっちがどうとかゆーんじゃなくて、ジャンルの性質の問題。

第5曲:レチタティーヴォ(ソプラノ)「彼は王国の憂いから解放されて」
第6曲:アリア(ソプラノ)「ここに安らかに眠る」

第5曲のソプラノのレチタティーヴォは半分アリアのような感覚の独特な作り。非常に劇的に書かれている。
続く第 6曲のアリアの安らかな感覚は素晴らしい。ベートーヴェンはここでオーボエを省き、フルート、クラリネット、ホルンを生かしてハルモニームジーク的な柔らかなサウンドを獲得している(モーツァルトが晩年よくやったように)。
そういえば初期の傑作七重奏曲Op20もまたハルモニームジーク的な音楽であり、オーボエを欠いているのが特徴だったりする(Cl,Fg,Hrn,Vn,Va,Vc,Cb)。
こーゆーちょっと天国的な雰囲気は中期以降のベートーヴェンを先取りしているように思える。
当時、ボンの宮廷ではウィーン式のハルモニームジークが盛んだったので、ベートーヴェンにとってこのような管楽合奏は身近なものだっただろう。実際ベートーヴェンの初期作品には管楽合奏の作品が多い。
例えば
八重奏曲変ホ長調 Op103(1792/3)
六重奏曲変ホ長調 Op71(1796)







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