「コロナ感染」で亡くなるのは、圧倒的に「高齢者」だから、対策が急がれないのだろうか?(後編)
新型コロナウイルスは「5類移行」が決まり、マスクを外す・外さない議論は活発にされているが、感染死者数を減少させる対策については、ほとんど聞いたことがない。
それは、亡くなる方が「高齢者」が圧倒的だからなのだろうか、という疑問と、もしかしたら、社会の中の「高齢者」への憎悪が高くなっているのだろうか、といったことまで考えたのが(前編)だった。
特殊詐欺と高齢者
最初は「オレオレ詐欺」と言われ、その後、犯罪として、さまざまな手法が開発されて、今は「特殊詐欺」と呼ばれるようになったので、いつまでも同じようなやり方をしているとは限らないのだけど、2015年出版の本では、その人集めのことまで、具体的に書かれている。
この書籍の中で、これから本格的に「特殊詐欺」に手を染めようという人間たちを「社会見学」と称して、連れていく場所の一つが、平日のゴルフ場、という情景が描写されている。
平日のゴルフ場は、高齢者の富裕層が多く、その情景を「見学」させて、詐欺は犯罪だ。だけど、最悪の犯罪ではない。高齢者が貯め込んだ金を少しだけもらうだけ、という洗脳に近いことが行われ、さらに、当時の高齢者の平均貯蓄額の平均2000万円という数字も使っているらしい。
これは「平均」のマジックで、所得格差が広がる現在では、とんでもない高額の貯蓄をしている一部の高齢者が平均値を上げている可能性が高いのに、そういうことは語られないようだ。
この過程を、著者は、こう表現している。
それから年月が経ち、「高齢者の集団自殺」といった言葉が発せられ、それが完全に拒絶されず、ある程度の支持を得られるような時代になったのは、その「高齢者に対する経済的ルサンチマン」だけではなく、「高齢者へのルサンチマン」が、さらに社会に広がってしまったような印象さえある。
高齢者が裕福というのは、本当か?
ただ、「経済的ルサンチマン」を持たれるほど、21世紀の高齢者は、すでに豊かではない。
この記事↑は、2019年のものだが、令和4年(2022年)版で明らかになった令和3年の高齢者の状況↓も、厳しいままのようだ。
淡々と書かれているが、他の世帯に比べて、半分の所得だから、かなり苦しいのではないだろうか。
しかも、生活保護受給者は、高齢者では増加している。
とても、高齢者全体では豊かとは言えない。
今も豊かだとすれば、高齢者全体ではなく、ごく一部の「富裕層」の高齢者であり、格差が広がっているとすれば、「富裕層」は、より豊かになっているはずだ。
そうしたイメージが、まだ高齢者全体への印象に影響を与えている可能性はある。
「シルバー民主主義」は、本当か?
さらに、高齢者への敵意のようなものを増幅させる原因として考えられるのが、「シルバー民主主義」という視点だと思う。
特に政治家と言われる人たちが、高齢者は優遇されていると思わせるような発言をしているが、高齢者の貧困率の高さや、所得の低さ、という統計的な事実を無視するように、どうしてこのようなことを言い続けるのか、という疑問がわく。
こうしたことを主張するのであれば、「シルバー」全体ではなく、ごく一部の「シルバーリッチ」の人たちへ、その主張を向けるのが、筋だと思う。
実態を知らないのか、それとも分かっていて、政治的な意図があって、このようなことを発言しているのだろうか。
細野氏が、まるで高齢者を責めるような発言をしていたが、その後、政権与党に所属するようになったのも、なんだか、納得がいくような気がしてくる。
この文章は、小泉進次郎や、細野豪志らの、高齢者を責めるような発言のあとに述べられているけれど、高齢者の経済状況を考えても、こうした指摘がもっと大きく扱われてもおかしくない。
ただ、この記事のバランスだと、「社会に対する不満のはけ口が高齢者に向いて」しまうことにならないだろうか。
この記事は、この3人の対談の形になっているが、この記事の中でも、「シルバー民主主義」という存在自体に、疑問を投げかける専門家もいる↓。
ここにあるように、「そこは年齢というよりは、持っている、持っていないで分け」るという、ごく真っ当な考えの方が、それほど広められていないように思うのだけど、それは考え過ぎだろうか。
年収1000万円
「高齢者は裕福である」や、「シルバー民主主義」も、どちらも高齢者への敵意をあおるような言葉であり、それは冷静に検討すれば、実態とはかけ離れたことかもしれないのに、その敵意だけがふくらんでいるような気がする。
いつからそうなったのだろうか、というよりも、気がついたら、そうなっていた、というような印象になる。ということになると、最近は、この書籍のことを思い出す。
高齢者への敵意のようなものも、この「年収1000万円」と同様に、特定の「誰か」とは言わないでも、意図的に誘導しようとしている存在、もしくは共有を誘導するような意志は、あるのかもしれない、くらいには思えてくる。
日本の貧困
考えたら、全体が「貧困」なのが問題の最初なのだ、と思う。
高齢者が優遇されているわけではなく、高齢者にも支援が必要な層はあるし、当然ながら、若い世代にも支援が必要というだけであり、どちらかに支援すれば、片方ができなくなる。ということではなく、政策というのであれば、当然ながら、どちらも支援すべきなのだと思う。
そうなると、財源、という話になるが、この記事でも、こうしたことが指摘されている。
若い世代と、高齢者世代の対立をあおっている場合ではないのは、わかる。
高齢者でも、権力と、富の両方を手にしている層は、どうやら確実にいる。その人たちを明らかにして、果たすべき責任を果たしてもらうように社会構造を変えていく。それが、これからやるべきことではないだろうか。
マイルドな優生思想
ただ、こうした正攻法の議論をして、実際に、格差社会が是正されようとしたとき、それが(本当に)支持を受けるかどうかについては、不安がある。
それは、あるインフルエンサーが「差別発言」をした際に、精神科医の斎藤環氏の「マイルドな優生思想が7割くらいではないか」といった指摘を思い出すためだ。
「マイルドな優生思想が7割くらいではないか」という指摘は、説得力があり、7割といえば、高齢者自身も含まれている可能性があるので、困った状況になった自分自身へも向かう刃であるとすれば、その解消は、より難しいことになる。
ここで論じられている「積極的安楽死」と並べるのは乱暴かもしれないが、2023年現在の、“コロナ禍で亡くなるのは高齢者だから、仕方がない”といった空気も、このことと近い気がしている。
さらには、ここで齋藤氏が指摘しているように、「マイルドな優生思想」を温存している社会であれば、高齢者自身にも内面化されている可能性が高い。そうであれば、「迷惑をかけたくない」という気持ちは尊いかもしれないが、それも含めて、コロナ感染後の自身への治療を拒否している場合すら考えられる。
コロナ禍が収束していない状況だから、というでなく、平時から「生の平等性」が十分に尊重されていないから、非常時の、高齢者への感染対策や、治療体制の充実の議論が、どこか重きを置かれていない可能性もある。
そうであれば、この問題の根は、思った以上に深い。
楢山節考
映画化もされた作品で、これによって、いわゆる「姥捨山」の伝説が、さらに広く知られるようになった名作と言われている。子どもが、年老いた自身の親を、冬の山に置いてくる、という話だ。
ただ、これは本当のことだとして、かつての日本で、こうした行為が、どれくらいの地域で行われていたのだろうか。もしくは、日本以外でも、おこなわれていたのだろうか?
このことについては、様々な研究が行われていて、私には、それについて詳細に調べる能力もないものの、この伝説に関しての、現代の許容の仕方が気になる。
貧しいならば、仕方がない。
そんな受け止め方になりそうなのは、「マイルドな優生思想」が温存されていそうからだけど、それだけではなく、「姥捨山」伝説を生んでしまうような社会だから、もしかしたら、伝統的に昔から、「弱者」に対して、冷酷な文化である可能性はないだろうか。
もしそうであれば、現在の、コロナ禍で高齢者が亡くなっている状況をなんとかしたいと願っても、それは、歴史に歯向かうような、想像以上に難しいことかもしれない。
それを前提として考えていくことは、かなり厳しいことになるのは、間違いない。
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