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この社会は、コロナ感染死者数を、本気で減らす対策をとる気はないのだろうか?

 コロナウイルス感染によって、亡くなった人は、6万人を超えた。

 昨年12月1日に5万人を超えたばかりで、1カ月余りで1万人増えた。

 この事実は、災害レベルで死亡者が急増していると示しているはずなのに、話題になることが少なくなったし、何より、その話題への注目の度合いが低くなっているように感じる。

「5類移行」

 それよりも、対策緩和の方が急がれているようだ。

 死者数は過去最多水準だが、高齢者や基礎疾患の悪化が要因となっているケースが多いとする厚生労働省の分析を踏まえ、「5類移行のネックにはならない」(首相側近)との考えでまとまった。

 岸田首相がコロナ感染した時に、素早く治療を受けられたように、日本に住む誰もが、いつでも、そうした対応を受けられることも目指すのであれば、こうした移行を考えてもいいと思う。

 だけど、そういう前提がないのに、「5類移行」だけが実施されるとすれば、冷静そうだが、「切り捨て」にも感じられる怖い「考え」ではないだろうか。


 しかも、もしかしたら、こうした見方は、その高齢者自身にも内面化されているかもしれない、と想像すると、単純に感染対策についての話だけではなくなっているように思う。

 もし、本気で対策を立てる以前に、コロナウイル感染による死亡者数は、ある程度以上、社会で許容すべきではないか。といったことが「常識」になりつつあるとすれば、次に違う感染症が広がった場合、もし年齢などに関係なく、死亡してしまう、というような状況になったとしても、それは、特定の免疫機能が弱い人間だから仕方がない、といった判断すら「常識」になりかねない。

 それは、少し飛躍した論理かもしれないが、「自己責任論」と結びついて、「切り捨て」が、今、定着しつつあるのかもしれない、と思う。

持病の悪化による死亡

「第7波」の2022年の夏以降、コロナ感染による死亡者について、「持病の悪化」という言葉をよく聞くようになった。

 重症者数も第5波の16%、第6波の63%にとどまり、専門家は要因にウイルスの弱毒化やワクチン接種を挙げる。国立国際医療研究センターの大曲貴夫医師は「第5波までは(エックス線で)肺が真っ白になるほどの肺炎で死亡する人がすごく多かった。第6波で激減し、第7波ではさらに減った」と明かす。
 重い肺炎を引き起こす患者が減った一方、感染後にがんや心臓病などの持病が悪化して死亡する例が目立つ。第7波で感染して死亡した人のうち、新型コロナ以外の死因が29.5%と、6%だった第5波の約5倍に上昇。死者の9割近くが持病を抱えていた。

 その一方で、若い世代の軽症化という言葉も多く聞くようになった。

 第5波から第7波にかけた感染者を年代別でみると、20〜30代は減少傾向にあるのに対し、60代以上は全世代で増加した。大曲氏は、若者が風邪のような軽い症状や無症状にとどまり、受診していない可能性を指摘。「若者が感染者にカウントされなくなり、症状が悪くなりやすい高齢世代の比率が上がったのではないか」と推測した。

 こんなふうに報道されるようになれば、持病を抱えた高齢者が亡くなっていき、その一方で、若い世代ほど、感染しても軽くなったとすれば、もう「コロナ明け」になってきたと思われても仕方がない。

 だけど、当然だが、こうした高齢者も、コロナにかからなければ、亡くなっていない可能性が高いはずだ。

 一度しかない人生なのに、そして、まだ5年も10年も生きられるかもしれないのに、高齢者だから、持病を持っているからと、それで亡くなっていいのだろうか。本当に助けることはできなかったのだろうか。その対策こそが、政策レベルで、もっと検討されてもいいのではないだろうか。

 高齢者が多い地域に住んでいると、そんなふうに亡くなっていく人がいて、とても無念で、悲しく、残念だった。

 とても理不尽だと思う。

命の格差

 例えば、感染しても高熱が出ないなど症状が軽微であって、急性期症状も落ち着き、療養期間が明けたにもかかわらず、感染をきっかけに急速に食欲が減退し衰弱死してしまった高齢者、彼らの死亡診断書の死因は「老衰」とされ、書類を作成する医師によっては、直接死因の経過に影響を与えたものとして「新型コロナウイルス感染症」に罹患りかんしたことさえも記載されぬまま、真実が文字通り“葬られて”しまうこともあるのだ。
 これらの人は、新型コロナの流行がなく、新型コロナに罹患さえしなければ亡くならずに済んだであろうはずなのに、これらの数字にさえ反映されないのである。

 第7波の7~8月、自宅での死者が全国で少なくとも776人いたと発表したが、これは第6波を上回るものであった。半数以上は80歳代以上、7割が基礎疾患ありとのことだが、死亡直前の診断時の症状は「軽症・無症状」が41.4%と最多であったという。つまり軽症だからといって命に関わらないとは限らないのだ。
 こうして適切な医療にたどり着けないばかりか、十分なフォローアップさえされずに自宅死となる人が多数発生している一方で、元首相経験者や首長などは、軽症であっても当然のように入院して手厚い治療に難なく到達しており、命の格差をまざまざと見せつけられた。

「3年ぶりに、緊急事態宣言等の行動制限を行わずに、今年の夏を乗り切れたのは、国民の皆様お一人おひとりが、基本的な感染対策を徹底してくださったおかげです」
 これほどまでの史上最悪の死者、自宅死が相次いだにもかかわらず、10月3日の第210回臨時国会の所信表明演説において、こう述べた岸田文雄首相の言葉に私は思わず天を仰いだ。彼には、これらの死者一人ひとりの顔を思い浮かべようという気持ちはあるのだろうか。命の重みというものを本当に理解していれば、このような演説はとてもではないができないだろうと私は思う。

 医師である著者が、2022年の12月に、このような記事を書いているのだが、医療政策も、最終的には政治家が判断し、実行するとすれば、そのトップである首相が、死亡者が増大している現状に対して、それを危機と見なしていないのであれば、これからも、コロナ感染による死者は増えてしまう可能性が高い。

 ただ、これは、もしも世論が、もっと死亡者数を減らすような対策をとって欲しい、と強く望むのであれば、岸田首相の発言も変わってくると思われるので、高齢者で、持病を持った人が亡くなっても仕方がない。少なくとも、その対策を優先させるべきといった気配が、とても薄いことが、現状を招いているとすれば、それが怖いことだと思う。

高齢者の命

 オミクロン株が日本に上陸して猛威を振るい始めたのは、2022年1月の第6波からです。当初「重症度が低くただの風邪レベル」と油断していた人が多かった変異ウイルスです。
 蓋を開けてみると、これまでの国内の新型コロナ感染者数・死亡者数のほとんどがオミクロン株によって占められることになり、この1年間で約4万人の命が失われました。

 それでも、死亡者は、高齢者が中心である、というデータが提示されると、そこで、社会の関心が、薄くなりつつあるのが、現在ではないだろうか。

「重症者数が増えていないのに死亡者が増えているのはおかしい」という見解を目にすることがありますが、主に軽症中等症のコロナ病棟で高齢者が亡くなられています。

 高齢者は、人工呼吸器や心肺蘇生などを希望されないことが多く、重症病床に転院することはありません。そのため、重症としてカウントされずに静かに亡くなられます。

 この最後の文章は、高齢者自身が、それ以上の治療を望まない、ということだと思われるが、これは、もしも、治療をおこなえば、どれだけの人が助かったのか、といったことは、分析や考察はされないのだろうか。

 さらに、どうして、それ以上の治療を希望しない場合が多いのかを、もっと考えることはできないのだろうか。

若者に「譲る」カード

 いろいろなことが起こりすぎて、すでに記憶に残っていない人も多いとは思うのだけど、2020年にコロナ禍となり、まだワクチンもできていない頃に、今よりも、トリアージのことは話題になっていた。

 同じように重症化の患者がいたときに、人工呼吸器が限られていて、若者と高齢者のどちらを優先するか、といった話も具体的にされていた頃がある。


(「命の選別」を安易に許してはならない理由  香山リカ  2020.6.30)
https://imidas.jp/josiki/?article_id=l-58-264-20-06-g320

 大阪の医師が高齢者向けに「集中治療を譲る意志」を表示するもの、として作成した通称「譲(ゆずる)カード」だ。

 「イタリアでは回復見込みの少ない高齢者の人工呼吸器を取り外して若い人に使用すると言う『命の選択』が始まっています。ただでさえ忙しい医療関係者に『命の選択』まで迫るのは酷な話です。では医療関係者がそのような苦渋の判断をする苦労を少なくするにはどうすれば良いでしょうか?
 それは我々高齢者が『高度医療を万が一の時に若者に譲ると言う意思』を示せば良いのではないでしょうか?」

 考案した石蔵文信氏は、64歳の現役循環器内科医である。ただ、インタビューでは自身も前立腺がんを患っており、「助かる可能性が高い若い人の治療を優先してほしい」とこのカードに署名して保持していると語っているので、「選ぶ側」としてだけではなくて「譲る側」の一員としても作ったのかもしれない。
 石蔵医師がこのカードを公表するとサイトへのアクセスが増え、テレビの情報番組からもコメントを求められるなど、次第に注目が集まっていく。

『週刊ポスト』(5月22・29日号)では「「若者にコロナ治療譲ります」あなたはこのカードに署名できますか?」としてこのカードを取り上げ、評論家の呉智英氏が「今こそ『トリアージ』の問題を本格的に議論していくべき」「現役医師(石蔵氏)が提唱したこのカードは意義のあることだと思います」と高く評価した。
 この流れだけを見ると、日本では「年齢によって『命の選別』をするなんてとんでもない」と憤るどころか、高齢の当事者が自ら「医療資源を若い人に譲ります」と申告しようとしているように思える。

   しかし、本当にこれは高齢者の自発的な意思と言えるのだろうか。

 本人が「自分の意思」としたことでさえ、立場や状況によってこれほど変わるのだ。まして、そこに周囲からの圧力や世間の意思が介入したらどうなるだろう。「いま『譲カード』というのが流行ってるらしいよ」と家族から聞かされたり見せられたりした高齢者が、自分の意思かどうかもさだかではないのに、「自分も所持しなければならないのか」と感じて署名することもあるのではないだろうか。あるいは、一度は「それはいいね」と署名し、その後、考えが変わったとしても「もうやめる」と言い出しにくい、ということもあるはずだ。

(「命の選別」を安易に許してはならない理由より) 

 この頃から、すでに3年が経とうとしているのだけど、このカードに署名をした高齢者の方は、今も、この時の気持ちとは変わらない可能性もある。

 ただ、新型コロナウイルスの治療に関しては、随分と変化があったはずだ。ワクチンも開発され、決定的な治療薬はまだ存在しないのだけど、それでも、さまざまな治療法が試され、少しでも回復する努力は、当然ながら現場ではされてきたはずだし、何より、2022年以降、死亡する方は、高齢者が圧倒的なので、この「譲カード」の時のように、若者に譲る必要性は減っているはずだ。

 それなのに、今も、それ以上の治療を望まず、亡くなっている高齢者が多くいる、という。

 その理由を考えれば、ずっと医療体制の拡充が言われてきたのに、そのことが十分に対策が取られてきた印象はないし、少なくとも、医療体制の充実が広くアナウンスされた記憶もない。その影響は、本当にないだろうか。

 感染拡大が予測されているのに、ずっと医療逼迫という状況が変わっていないことも、高齢者の「それ以上の治療を望まない」という選択を誘導している可能性はないだろうか。

医療体制の抜本的整備の遅れ

 2023年現在は「第8波」になってしまっているので、ここまでのことを振り返る記事もある。

 例えば、2022年の「第7波」の際、現場の医師は、こうした状況を話している。

第7波が猛威を振るっていた昨年7月29日、コロナに罹患した末期の盲腸がんの男性患者(83)を病院に運ぼうとした。

結局、その後も男性は搬送先が決まらず、自宅で酸素投与を続けたが、翌朝には呼吸が止まった。死亡確認は田代が行った。「体力的にはまだ余裕があった。早期に病院で適切な治療をすれば、よくなる可能性はあった」。この男性の他にも、第7波の間、田代が診療している患者で入院できずに亡くなった人は10人以上いたという。

 この状況には、以前から指摘されていた医療体制の問題点があり、そのことを専門家は繰り返し指摘し続けていた記憶があるが、この約3年の間に、抜本的な整備が行われた、というのは、自分が知らないだけかもしれないけれど、聞いたことがない。

「有事の医療は平時に役立つ。平時に優れた医療は有事でも力を発揮する。限りある医療資源をどう使うか。地域の実情に通じた都道府県が主導して、資源の使い方、配分の見直しを積極的に進めてほしい」
 しかし、第7波以降も、抜本的な医療体制の整備は進まない。一方で、BA.5は重症化率、死亡率が低いことが分かった。「コロナ疲れ」もあってか、コロナによる規制の緩和を求める声は高まった。

 コロナ禍の当初から、政府が、効果的な感染症対策をしてきた印象は薄い。布マスクを各家庭に2枚ずつ配ろうとしていたことだけを覚えている。その感染対策、さらには医療体制の拡充に対して腰が重い印象は、社会の隅っこで、持病のこともあり、感染に怯えながら暮らしている私のような「弱い」人間にとっても、変わらない。

 第7波の最中には、緩和に傾く政府と、対策を求める専門家との間で隙間風も吹き始めた。
 「いろんな現場が悲鳴を上げるまで(政府が)なかなか動かないのが残念だ」。8月2日、政府のコロナ対策分科会が開いた会見で、東大教授の武藤香織が語った。メンバーは医療窮迫への政府の対応が鈍いと批判。行動制限の必要性にも触れたが、結局、第7波で国が踏み込むことはなかった。

 その一方で、やたらと、インフルエンザ並みの「5類」に近づける話ばかりは、冷静で賢い見方として、語られることだけは多くなった。

 感染法上の分類を「2類相当」から季節性インフルエンザ並みの「5類」に近づける議論も、第7波以降、なし崩し的に進む。11月末、厚生労働相の加藤勝信が「早急に議論を進めたい」と発言。翌日の専門家会議でも議題に上った。
 政治アナリストの伊藤惇夫は「もともと政府はコロナ対策よりも経済を回したい。感染者数が増えても、世論が反応しなくなってきたために、経済を回すためのアクセルを吹かしやすくなっている」と第7波以降の状況を見る。一方で、「医療体制の構造的な問題はそのままで、感染症対策の根本的な解決はしていない。経済を回すのはいいが、コロナの株もどう変異するか分からない。未来の感染症への備えもこのままでは不十分だ」とくぎを刺す。

 その上で、今も外出をなるべく控え、自衛をするしかない私自身も感じているのだけど、コロナ感染リスクによる「分断」や「格差」は、このままだと開く一方ではないだろうか。

 大阪市でクリニックを構え、コロナに関する発信を続ける医師・谷口恭は、ポストコロナの世界で、感染後に悪化するリスクの高い人と低い人の間で分断が生じると予測する。
 「若い人や健康な人、小児にとって、コロナはもはやただの風邪といっていい。多くの人は『コロナの規制はいらない』となるだろう。しかし、一部の人は急に悪化することがある。持病などのリスクは周囲から見えにくい。リスクのある人と無い人でコロナに対する考えの違いは顕著になってくるだろう」

(東京新聞 Tokyo Web 「こちら特報部」2023.1.9)
 

 それは、社会のあり方自体が、より残酷になっていくのに、拍車がかかる、ということなのだろうか。

重症化への対策

 2023年になっても、コロナ感染死亡者数は、過去最多を更新し続けた。

 その事実を受けて、その対策について、専門家の声を扱うマスメディアも、もちろん存在する。

 森内浩幸教授「リスクが高い人が感染した場合には、一刻も早くその診断を受けて重症化を防ぐための薬を使うという選択肢をきちんと使っていただきたいと思っています」

「救える命が救えない」状況を防ぐためにいま何が必要なのか...。

 福島県立医大・山藤栄一郎教授:「去年、一昨年までは非医療者と医療者が同じ方向を向いて感染対策を頑張っていたけれども、今は少し認識のギャップを医療者は感じている人が多いんじゃないかなっていうのがありますので、そういったギャップがあるってことは知っていただきたいなと感じています」

 医療関係者も、現在の、死亡者数が増大する現状への、社会の反応の鈍さのようなものを感じているようだ。そして、こうした専門家の提言を取り扱うメディアが、いわゆるキー局では少なくなっているのも、そのギャップを象徴しているのかもしれない。

 Twitterを使い、対策への問題点を指摘し続ける医師もいる。

 同じような指摘は、コロナ禍初期からされているのに、どうして、そうした対策が実施される検討がされないのだろうか。

対策のギャップ

 ただ、いわゆる、最も決定権と実行権があると思われる専門家組織は、2023年1月初旬の段階で、こうした「提案」をしていると報道されている。

 見解は座長の脇田隆字・国立感染症研究所長ら専門家がまとめ、5類に変更した場合の課題を指摘。感染症法上に基づく入院勧告や、患者と濃厚接触者の行動制限がなくなることなどを挙げ、感染拡大時の適正な医療提供体制の確保は今後も重要課題とした。その上で、「新型コロナのリスクと対策について、市民が納得感を得られる施策を行うこと」が必要と提案した。

 先述の医師の方々の話とはかなりギャップがあり、現在、増え続ける死者を、どうすれば少しでも減らせるか?というような緊急の議論をしているのだろうか、という疑念が起こる。

加藤厚労相「(死亡者について)分析していると、80代以上の高齢者の占める割合が高い。特に、より高齢者、年齢の高い高齢者におけるリスクが高い」

加藤厚労相は、直近の感染者の数のうち、80代以上の高齢者の割合が、前の第7波と比較しても大きくなっていると指摘し、あらためてワクチン接種や、高齢者施設での感染対策の徹底を呼びかけた。

 厚生労働大臣が、コロナ感染死亡者過去最多更新の時期に、こうした発言をしていて、感染した場合に、どうすれば、少しでも、死亡者を減らせるか?といった話はしないのだろうか、という疑問が起こる。

 さらに、これも「呼びかけて」とあるから、感染対策の徹底を、具体的にとっているのかどうかもわからない。かなり緊急の課題と思われるのに、そこに全力を傾けている気配もあまり感じられない。

 これでは、まだ死亡者数は増えてしまう。だけど、そのことへの対策の緊急性と必要性自体が、社会の中であまり共有されていない空気になっているのが、やっぱり、怖いことだと思う。

 この記事も、何度か引用させてもらっているのだけど、ここで感染症の専門家である医師が、Withコロナについて、「感染した人がいつでもどこでも安心して医療を受けられる社会」という表現をしていて、本当にそういう社会になってほしい、と改めて思う。そうなれば、今ほど外出自粛をしなくても良くなるのに、と個人的にも思う。

 それに、そうした社会を目指せば、高齢者だけではなく、次に全く別の感染症が流行しても、対応できて、その犠牲者を減らせるということになると思うのだけど、どうして、それを目標にする、という話が、それこそが先進国の証でもあると思えるのだけど、どうして、政策レベルで、提案でさえ、出てこないのだろうか

 この記事の中で、昭和大医学部客員教授の二木芳人氏(臨床感染症学)が、こんなコメントを残している。

「政府も自治体も経済活動優先です。表立って言わないまでも、『ある程度の犠牲は仕方ない』というスタンスなのでしょう。米国からの変異株の流行がますます懸念されます」(二木芳人氏)

 これから先、政府の掲げる「ウィズコロナ」に何人が犠牲を強いられることになるのか。

倫理の見直し

 コロナ禍が4年目になって、感染予防対策に対しての「疲れ」も出てきて、もう「コロナは終わった」という気持ちになっても、特に若くて健康だったら、そうなってもおかしくない。

 だけど、こうした感染症のときに、不安や混乱や焦りがあったとしても、より適切な方法をとるような努力や工夫を続けることをしていかないと、その収束後も、「弱者切り捨て」の発想が強まり、社会に悪影響を与えてしまうし、またいつか必ず来る新たな感染症の際に、犠牲者が多く出る事態につながる可能性も高くなる。

 そうならないために、以前も引用させてもらったのだけど、改めて、「パンデミックの倫理」を確認した方がいいのではないか、と思う。

 パンデミック対策の目的とは何か?
 最も直観的な目的は「死亡者の数を最小化する」ことである。

 それでも、二人の患者が、どちらも重症で、一人しか救えないとき、高齢者か若者かであれば、若者を優先させるという判断がある。

「高齢者差別」と批判される判断が倫理的に正当化されるという考えが存在する。その考えはごく単純な事実に基づく。その事実とは、誰もが例外なく歳をとるということである。いま二〇歳のBも時が経てば七〇歳になり、そのときに年齢差と同じような状況に置かれるとしたら、七〇歳になったBよりも若い人の救命が優先される。つまり、誰もが例外なく同じように「差別」される可能性があるという意味で、生存年数最大化もフェア・イニングス論もすべての人に公平であり、高齢者に一貫して低い優先順位を与えることに倫理的問題は一切ない。 

 ただ、「高齢者の死はさほど悪くない」から「高齢者の生命などどうなってもいい」を早合点する人たちが出てくることは容易に予想できる。倫理的に問題のある悪影響とは、「高齢者の生命などどうなってもいい」と早合点する人々が高齢者の生活の質をなおざりにする状況のことである。より具体的には、高齢者への虐待やネグレクト、高齢者医療および高齢者施設の予算削減、介護士の労働条件悪化などである。一つしかない人工呼吸器を一〇〇歳の患者ではなく二〇歳の患者に与えるべきだという判断と、高齢者と介護士を不衛生かつ劣悪な環境に押し留めてよいという考えとは、まったく無関係なのである。

(「パンデミックの倫理学」より)

 コロナ禍4年目の現在になって、ここまで若者と高齢者の、どちらの命を選別するか、といったトリアージの問題は、それほど起こっていないように思えるのは、死亡者は、ほぼ高齢者に限られているからで、それなのに、今、現在の状況は、「高齢者の生命などどうなってもいい」という風潮に傾きかけているように見える。

 もし、そうであれば、感染予防や、治療などの対策にさまざまな要素を注力させることは、より難しくなる。

 どうして、こんな状況になってしまっているだろうか。

マイルドな優生思想

 ある「有名ユーチューバー」でもある人物の「差別発言」の際、今の日本社会は「マイルドな優生思想」が7割くらいになっていないだろうか、という精神科医の斎藤環氏の指摘は、個人的には納得感があったのを覚えている。

 今のコロナ禍によって、さらに死亡者数が増え、だけど、そのことに対して、本気で取り組み、少しでも減らそうという対応をしない限り、この「マイルドな優生思想が7割」という状況は、もし、このまま、コロナが収束したとしたら、もっとマイルドな優生思想が増えてしまうかもしれない。

 日本は、実は「冷たい社会」ではないか、という指摘をする社会学者もいて、こうしたことは、以前、義母を介護しているとき、車イスで外出した時に感じたことがあったので、納得感もある。

 
 だから、もしも、このまま、コロナ感染死者数を本気で減らす対策を取らないままだったら、ポストコロナの時代は、ただ、より冷酷な時代になってしまうのは間違いないのだから、どこまで可能か分からないとしても、これからでも、少なくとも、パンデミック対策の原則は守るべきではないだろうか。

 パンデミック対策の目的とは何か?
 最も直観的な目的は「死亡者の数を最小化する」ことである。

 その原点を、少しでも実現する努力は、今からでもできるはず、と思いたい。

 その上で、経済も回すことを、もっと模索できるはずで、それを試してみようともしないのは、アフターコロナの時代に、これまで以上に「弱者切り捨ての自己責任社会」が、よりむき出しになるだけだと思う。

 2023年早々、そんなことを想像すると、ただ怖さや不安だけがふくらむ。



(他にも、いろいろと書いています↓。よろしかったら、読んでもらえたら、うれしいです)。




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