読書感想 『コロナの時代の僕ら』 パオロ・ジョルダーノ 「不安の中での知性のあり方」
2020年に入ってすぐの頃、1月くらいを思い出そうとしても、とても遠くに感じる。そして、今とはまったく違う社会だったのだけど、それも含めて、すでに記憶があやふやになっている。
それは、私だけが特殊というのではなく、今の日本に生きている人たちとは、かなりの部分で共有できるように思っている。
海外の人たちへの関心の薄さ
最初は、そんなに大ごとではなかった。
新しい病気がやってきそうだけど、そんなに危険ではない。あまり致死率が高くなく、いってみれば、毎年、流行を繰り返すインフルエンザに近いのではないか、といった言葉も聞いたし、読んだ記憶もあるし、本当に初期は、そんな感じだった。
ただ、実際に感染が広がり始めると、新型コロナウイルスが、(人類にとっては)とても質が悪い感染症ということが、だんだん明らかになってくる。こうしたことには素人で、知識がない私のような人間にも、あまり経験のない恐さを感じてきた。未知の病気は、感染しても症状が出ない。その上、そんな状態でも感染力はあることを知った。どうやって感染を防ぐのだろう。今までの病気は、感染すれば症状が出るから、場合によっては、隔離に近いことを的確にできて、感染は最小限に抑えられてきたはずだった。
今回の、コロナには、それが通じない。
誰が感染しているのは、分からない。だけど、症状がなくても、広がっていく。
ウイルスの生存戦略としては、すごい能力であることが、少しずつ分かっていく。
海外のニュースも入ってきていた。
だけど、分かったような気がしていたのは、どの国でどれくらい感染者数が増えているのか、不運なことに何人が亡くなったのか。あるいは、どこで感染の抑え込みに成功したのか。そんな数字と方法のことばかり、もしくは、地域名の情報だけが、記憶に残っていた。
最初は、中国。そのあとは、ヨーロッパやアメリカで爆発的に感染者数が増えているのをニュースで知り、あれは2週間後の日本だ、といった言葉も記憶にあるが、それは、ただ恐怖心につながるだけだった。
だけど、私だけではないと思うのだけど、その時、感染者数が増えていた場所に住んでいた人たちが、どんな思いでいたのかを、本当に知らなかった。自分が恐怖心でいっぱいで、余裕がないせいもあったのだと思うが、どれだけ無関心だったかを、この本を読んで、改めて気がついた。
「コロナの時代の僕ら」 パオロ・ジョルダーノ
新型コロナの感染者数が多かった国のひとつがイタリアだった。
そこに住む著者が、2020年の2月末から3月上旬という、まだ新しい感染症のことが今よりもっとわからない中で、爆発的に感染者数が増えている状況下で、書かれたエッセイをまとめたのが、この本だ。著者は、こんな人である。
数学はこの著者の得意科目だ。事実、ジョルダーノはトリノ大学で物理学を学んだのち、同大学の修士課程に在学中だった二〇〇八年に小説『素数たちの孤独』(ハヤカワ文庫)で文壇デビューを果たしている。(訳者 飯田亮介 あとがき より)
この2月下旬というのは、日本国内でも、すでに非日常的な感覚になりつつある頃で、すでに、もっと非常事態になっている国や地域に対して、その数の増え方に恐さを感じるくらいで、、恥ずかしながら、何も知らなかったことに、読んでいると気がつかされる。そして、それは今でも、本当に他人事ではない。
新型ウイルスの流行は僕らの人間関係にすでにダメージを与えており、多くの孤独をもたらしている。集中治療室に収容され、一枚のガラス越しに他者と会話をする患者の孤独もそうだが、もっと一般的に広まっている別の孤独もある。たとえばマスクの下で固く閉ざされた口の孤独、猜疑に満ちた視線の孤独、ずっと家にいなければならない孤独がそうだ。感染症の流行時、僕らは自由でありながらも、誰もが自宅軟禁の刑に処された受刑者なのだ。
ただ、「数学の得意」な著者は、その混乱の中で、かなり冷静でもある。
新型コロナウイルスことSARS-CoV-2は、こんなにも短期間で世界的流行を果たした最初の新型ウイルスなのだ。
そして、実際に爆発的な感染者数の増加のまっただなかで、こうした分析もしている。
実際の感染者数の増え方は、時につれどんどん速くなっていく、一見、手に負えない状況にさえ思える。(中略)現実には、そもそも自然の構造が線形ではないのだ。自然は目まぐるしいほどの激しい増加(指数関数的変化)か、ずっと穏やかな増加(対数関数的変化)のどちらかを好むようにできている。自然は生まれつき非線形なのだ。
感染症の流行も例外ではない。(中略)
イタリアでもほかのどこでも増え方が安定していないが、今の段階ではこれよりもずっと速く増加するのが普通で、そこには謎めいた要素などまったく存在しない。どこからどこまで当たり前のことなのだ。
不安の中での知性のありかた
人間が精神的に追い込まれていく大きな要因の一つは、不安だと思う。
そして、それは「分からないこと」によって引き起こされるが、不安の中にいる人間は、何が不明なのか、どうして不安なのかも分からなくなっていって、そしてパニックになってしまう。
だから、著者は、いま分かること、分かりつつあるかもしれないこと、分からないことを、区別する作業を繰り返し、さらには、現状がどうなっているのかも、自分の能力の限界も見極めつつも、できる限り正確に把握しようとしているように見える。
それは、もちろん数学などの知識や情報がもともとあるから可能なのかもしれないが、それは「知性」の使い方の問題ではないか、とも思えてくる。誰にでもある「知性」の使い方によって、少しでも不安は減るのかもしれない。もちろん、「知性」の使い方さえも、知識や情報が関わってくるのだとしても、でも、おそらくは現代では、情報には、誰でも平等に、たくさん接することができる。それをどう見るのか、どんな風に考えるのかで、少しでも冷静になれるのか、それともパニックに突き進むのか、に分かれるのではないか、と非常事態時に書かれたエッセイを読んで、改めて思う。
2020年の7月末の現在、全国で感染者が再び増大し、「第2波」を迎えている今は、日本は、また恐怖に覆われようとしている。そんな時に、著者が書いてくれた「恐怖」で人がどのようになってしまうのか、を改めて自覚するかどうかで、ほんの少しかもしれないけれど、その人のふるまいは、変わってくると思う。
恐怖は人々に奇妙なふるまいを取らせるものだ。一九八二年、僕の生まれたその年に、イタリアで最初のエイズ患者が見つかった。僕の父は当時、三四歳の外科医だった。(中略)ある日、手術室で、HIV検査で陽性と判明した患者の腕から床に血が一滴落ちた。それを見た麻酔科医は悲鳴を上げて、飛び退いたという。
父を含め、みんな医師だったが、やはり怖かったのだ。まったく新しい課題に完璧に対応することは誰にもできない。今、僕たちが直面している状況では、ありとあらゆる反応が予見される。怒る者もあれば、パニックにおちいる者もあるだろう。冷淡な反応もあれば、シニカルな反応もあり、信じられないと思う者もあれば、あきらめる者もあるだろう。その点を心に留めおくだけで、普段よりも少しひとに優しくしよう、慎重になろうとすることができるはずだ。
さらには、コロナ禍の真っ最中に、これまでの人類が繰り返したきたように、すぐに「忘れてしまう」ことに対する、未来への伝言のような言葉まである。この内容は、今でも有効だし、これからも大事だと思う。
僕は忘れたくない。今回のパンデミックのそもそもの原因が秘密の軍事実験などではなく、自然と環境に対する人間の危うい接し方、森林破壊、僕らの軽率な消費行動にこそあることを。
僕は忘れたくない。パンデミックがやってきた時、僕らの大半は技術的に準備不足で、科学に疎かったことを。
そして、未来に対しては、それがいつになるかは分からないという前提で、アフターコロナを考えることも、もしかしたら、少しでも気持ちの安定につながるかもしれない、と思わせる。
コロナウイルス の「過ぎたあと」、そのうち復興が始まるだろう。だから僕らは、今からもう、よく考えておくべきだ。いったい何に元どおりになってほしくないのかを。
このエッセイが書かれてからは、すでに何ヶ月もたち、細かい点では間違いもあるかもしれない。だけど、緊急時で、どんな風に考えれば、少しでも不安が減るのか、冷静さを取り戻せるのか。そんなモデルにもなりえるのではないか。これからも未知の状況が続くに違いない時代だから、非常時に書かれた貴重な記録として、今も十分に有効だと思う。少なくとも私は、少し冷静になれた。
(参考資料)
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