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「2LDK +z」(zoom 部屋付き)のマンションが、販売される未来を考える。

 初めてzoomでのミーティングに参加した。
 今までにしなかったこと、できなかったことをやっていかないと、そこに参加できないことを改めて知った。機械に弱いから、いろいろと微妙に苦痛だった。一般的なレベルから見たら、原始人みたいな動きに見えると思う。ただ、去年、コンピューターをたまたま買い替えていたから、zoom に参加できたとは思う。

zoomミーティングの準備でバタバタする

 zoomのために、1000円代だけど、ヘッドセットを買った。ラジオで、これを使わないと、風呂場で話しているようなエコーがかかってしまうと聞いたので、急いで買った。最初は購入したまま、机の上に置いて、見るたびに憂うつになっていたのだけど、当日になってパッケージを開けて、コンピューターの横の穴にさした。なぜか、二つプラグがあって不思議だったが、それは、いろいろと対応するためのもので、片方のプラグをさすことができた。

 おそらく、zoomを初めて使う人は、みんなが思うことなのだろうけど、どこをバックにするかを迷って、ちょっと嫌になっていた。いつも、こうして作業をしているうしろをフェイスタイムを使って写してみたら、何だか分からない紙類が積み上がった上に、コルクボードがあり、そこに、ごちゃごちゃに貼ってあって、一部は古くなって、ちょっと茶色くなっていた。廃墟写真みたいな視点から考えたら、すさんだ感じが、ちょっとかっこよくもあったのだけど、これが映ったら、社会人としては、ひかれると思った。

 去年(2019年)コンピューターを買い替えて、何もしていないのに、(本当は何かをクリックしていたのだと思うけど)、付属のカメラが緑に光って、自分の顔が映った時は、スノーデンの本を思い出し、こわくなって、それからフェイスタイムは使わなくなり、しばらくカメラにふせんをはっていた。

 Siri にも急に話しかけられ、驚き、しばらく切って、今度は知らないうちにメッセージで誰かから連絡が来ていた。それは、携帯も持っていないから、はっきりとは知らないけれど、LINEの吹き出しみたいな言葉が来ていて、こわくなり、そのことをsiriに聞こうと思って、尋ねたら、聞き方が悪いのだろうけど、まったく違う答えがかえってきた。「ちがうんだよなー」とつぶやいたら、聞こえたらしく「すみません」と消え入るような言葉が返ってきて、黙ってしまった。それ以来、申し訳ないけど、使わなくなった。

 zoomのミーティングは、他の方々が優しいせいもあって、なんとか途中から参加できた。いろいろな人の顔が並んでいて、まんなかにパワーポイントのスライドがうつり、自分が参加できているかどうかしばらく分からず、途中で、あ、来ていたんですね、と気がついてくれたので、知らないうちに参加できていたのを知った。自分が指名されて話す時は、声が届いているかどうか分からず、「聞こえますかー」を何度か言ったら、画面の中で、腕で大きな丸を作ってくれている人がいて、ありがたくも、届いていることがわかった。

 自分の後ろは、いつもは使わない、電話のジャックのある部屋の壁を使った。普段は寝室で布団を敷いているので、それをどかして、使っていないコタツのテーブルをセットし、まだADSLで、有線なので使える場所も限られているが、いつも使っている部屋から、すべての機械を移動した。

 そして、自分の後方は古い木造にありがちな薄く茶色になっているモルタルの壁で、微妙にはがれていてグレーが見える部分もあったので、見栄をはるために、一度も貼ったことがなかった大友克洋のポスターを思い出し、ホコリをはらいながら、そのポスターを貼った。色が強いから、壁の汚れなどをごまかせるのではないか、という姑息な計算もあった。

 ミーティングに参加しているときは、ポスターがどのくらい効果があるのかよく分からなかったし、他の人のバックもそれほど気になるものでもなかった。ものすごく違和感がある時だけ、そこに注目されてしまうのだろうけど、そんなに気にしなくていいのかもしれず、大事な事は、当然だけど、参加すること、聞くこと、話すことなのかもしれない、と思った。
 できたら、バーチャルな背景も使いたかったけど、グリーンバックがいるとか、あれこれの操作が必要だと分かった時点で、諦めていた。

 これまで携帯もスマホも持ったことがなく、スカイプなども使ったことがないので、初めて画像こみの通信を経験して、直接会う感触とは違うのだけど、多人数が「顔を合わせる」感覚は、新鮮だった。
 そして、「zoom 部屋」があればいいのに、と思った。

こんなzoom 部屋が欲しいのかもしれない

 あくまで、あんまり詳しくない人間の願望だけど、そこに行けばすぐにzoomのミーティングに参加できる部屋があれば、いいのにと思った。

 そんなに広さはいらない。大きめの電話ボックスくらいで大丈夫だと思う。
 そこにはインターネット環境があって、バックは壁で、できたら、いろいろなポスターを貼ったり、何かを置いたりが可能なようになっている。グリーンバックにも容易にできたら便利だと思う。

 もしも、今のようにテレワークをする人が増え、このzoom 部屋で、仕事もできるようにするとすれば、椅子はある程度ちゃんとしていて、長時間座っていても、苦痛が少ないとありがたい。机があって、そこで作業もできて、資料や本をおけるように、引き出しや小さい本棚もあるとうれしい。

 視線の前の部分は、ガラス貼りで、他の家族の様子を見ることもできるけど、仕事に集中したい時は、そこを閉めるスクリーンカーテンみたいなものがあるか、お金がかかるかどうか分からないけど、スイッチを入れると、くもりガラスみたいになると、気持ちは楽かもしれない。

 長い時間いるとなると、小さい冷蔵庫とか、ポットとか、さらには音楽やラジオが聴けるような環境になっているとありがたい。
 場合によっては、防音ルームにもできる。
 こんな部屋があって、それは広さでいえば、1畳くらいでも、zoomで外とつながったり、前に視界が確保できれば、狭さは気になりにくいのではないだろうか、などと、想像上では思う。

そうなれば、テレワークの場合は、この「zoom 部屋」が、仕事部屋になり、たとえば、家族に二人、そうした働き方をする人がいたら、2つ部屋が必要だから、マンションの間取りだと、「2LD K+2z」(zは、zoom 部屋)というマンションが、もしかしたら、もうすぐ販売されるのかもしれない。
 (考えたら、他のアプリもあるので、zoomだけをピックアップするのは違うのかもしれませんが、何しろこうしたことに無知なので、ご容赦くだされば、ありがたいです)。

「仕事も生活も、美しいうちで」。

 その時は、そんな、いわゆる「マンションポエム」が添えられるのかもしれない。

「書斎」の21世紀版

そうしたマンションが売り出されるとすると、それまでのリビングの広さを削って、「zoom部屋」を作るとすれば、トータルな広さは変わらないから、もしかしたら、価格も思ったより抑えられるかもしれない。
 ただ、そんなことを、ほぼ妄想だけど考えていて、思い出したのは、その「zoom 部屋」が実現したとしたら、それは今は死語に近づいている「書斎」というものの21世版ではないか、と思った。

 たぶん高度経済成長の時代の頃から、たしか政策によっても、国民が持ち家に住むことがすすめられた時期があって、その頃、よく聞いていた言葉の一つが「書斎」だった。それは、男性が会社で働いて、家には専業主婦の妻がいて、子供が二人という「標準家庭」が、本気で「標準」だと信じられていた頃と、たぶん一致するのだけど、家を建てる時に、台所やバスルームやトイレなど生活に必要な場所や、子供部屋や居間はあったのだけど、それにプラスして、「書斎」を作りたがる男性が一定数いたはずだった。

「書斎」といっても、仕事は会社でしているし、家で勉強や研究をする人は、ほぼいなかっただろうから、今振り返れば、自分の部屋がほしい、という願望に過ぎないのだろうけど、だからこそ必要性は低く、実現させた例は少数だと思う。

 本当に家で仕事をしている小説家などには、なくてはダメなのだろうけど、働く人の大部分を占める会社員には「書斎」は、あまり必要がなかったはずだ。それに、主婦の部屋もなかったが、ただ、昼間は、家全体が妻のものであり、そして、子供のものだったと思う。

 だから、「書斎」は、その頃だとある程度以上の広さが必要なせいもあって、贅沢なものとして、忘れられていたのが、テレワークが、ある種の標準になり、「仕事部屋」として、「zoom 部屋」ができたら、それは、以前の一部の男性にとって夢だった「書斎」に近いのかもしれない。

 ただ、その頃に夢みられていた「書斎」と違って、もっと機能的なスペースになるのは間違いないと思うのだけど、何十年かたって、21世期になって、やっと願望がかなえられる、ということになるのかもしれない。

「おうち」と、「うち」

 そんな妄想に近い想像と、少し前に聞いたラジオの内容が、どこかでつながった気もした。

 そのラジオ番組では今のテレワークの話にからめて、日本の住宅事情の話になっていた。(聞いたことを記憶しているのを書きますが、違っている場合もあります。すみません。元の放送で確認してもらえたら、幸いです)。

 日本の住宅事情は、家族マイナス1として、設計されているから、今のテレワークで家族が勢揃いしている状態には対応できないのではないか。だから、zoom 会議をしていても、子供の声が入ってきたりするのではないか。

 もともと、日本の住宅は、子供中心に設計されているし、そのように利用されている。他の国では決して豊かでなくても、リビングは夫婦の場所であるのだけど、日本ではほぼ必ず子供のものが置かれている。


 そんな話を聞いていて、自分には子供がいないので、本当に理解したかどうかは分からないものの、最近の疑問が勝手に少し解けたような気がした。だから、今は「おうち」という言葉のほうが多く聞かれるのだろう、と分かった気がした。

 「おうち時間」という言葉は、広く使われるようになっている。
 わたしも、「#おうち時間を工夫で楽しく」を何度も使っているから、それについては、同意のボタンをクリックしたようなものなのだけど、それでも「おうち」と使い続けるのは、微妙な違和感があって、その理由が分かった気がした。

「おうち時間」で語られる話題は、多くの場合、生活の楽しみ方や、趣味や、家で新しく取り組んでいることなどで、それは、生きて行く時間を豊かにするものだから、必要なことだし、コロナ禍で、外出もままならない時には、そのことによって、新たな発見もあり、有意義なことも多かったし、それで救われた人も多かったと思う。

 それでも、もともとは、「おうち」と使うのは、子供に対しての言葉のはずだった。「おうちへ帰ろう」という時は、多くの場合は、子供に対してであって、たとえば外で働いている時に「おうちに帰ります」とは言わず「うちに帰ります」というはずで、その方がおそらくは抵抗感が少ない。ただ、今の「家族マイナス1」の住宅事情のままであれば、そこは「おうち」であり、このままでは、「うち」という言葉がフィットしない状況が続くのかもしれない、とも思った。

 それでも「おうち」だけでなく、「うち」も使えるようになればいいのに、とも思ったのは、星野源が、広く使われることを前提に制作した楽曲が「うちで踊ろう」だったからだ。個人的には、「踊る」ことも、星野源にとっては、プロとして「仕事」に関わるから、「うち」を使っているのでは、と思っていたが、最近、本人がそのことについてコメントしているのを知ったら、さらに広い思考によるものだと分かった。

「お家で過ごすだけじゃない人がいるじゃない?どうしても仕事に行かないといけない方とか…」(中略)「家でじっと過ごせるのは、働いてる方々がいるおかげだなって思うんだよね。そういう人たちに対して家の中にいようって言えないじゃない。だから、その人たちも輪の中に入れたいなというか、参加できるものにしたいなって思って、お家から『お』を取って、うちで踊ろうにしたの」(中略)「“こころのうち”って言葉があるから、心の内側で踊るって意味になるなって思って。『心で踊ろう』っていう、そういう歌になったって」


「2LDK+z」の誕生する未来

 そのうち、「2LDK+z(zoom 部屋 付き)」の部屋が登場すると、それは、「家族マイナス1」という今までの住宅状況ではなく、狭いかもしれないが、「マイナス1」に数えられていた人が、「書斎」でもあり「仕事部屋」を、確保できるようになる可能性がある。そうやって、住宅事情が変わってきて、家族全員に居場所ができ、「うち」という場所が、「子ども中心」から、「大人も子どももいる場所」になり、それによって、「仕事」も「生活」の中に自然に溶け込むようになるようになるかもしれない。

 そのことで、今まで会社にいる時間が長く、所属感も会社に持っていた人も、家族の一員としての時間も増えることで、家族にだけでなく、もしかしたら、地域への所属感も増し、生き方まで変わるかもしれない。

 家族が揃いながらも、仕事も内臓されているような、新しい豊かな生き方にもつながる言葉として、「おうち時間」だけでなく、「うち時間」という言葉も使えるようになれば、と思った。

 かなり妄想に近い思考を、ただ進ませただけだし、「2LDK+z(zoom 部屋 付き)」が販売されたとしても、自分は買えないし、甘すぎる見込みかもしれないけれど、コロナ禍という災難があったとしても、その分、そんな少しでもいい方向への変化があれば、とは思っている。



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