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スマホも携帯も持ったことがない人間が、見ている景色

 スマホを持ったことがない。携帯電話も持ったことがない。人の携帯を扱ったことはあるけれど、自分で所有したことがない。一度だけ、電話がなさそうな島の観光に2泊3日で行く時に、空港でレンタルしたことはある。

 「スマホですか?」「違います」「じゃあ、ガラケーなんですね」「いえ、ケイタイを持ったことがないんです」。そんな会話をして、ひかれたのが、もう何年も前になる。


1986年、初めて使ったバッグのような携帯電話

 初めて使ったのは、たぶん早かったと思う。1986年の夏。スポーツ新聞で、ゴルフ記者をしていた。アメリカに出張をして、その時にプレスルームで貸してもらったのが携帯電話だった。新しいメカだった。肩にかけるショルダーバックみたいな大きさだった。大きい箱に受話器がコードでつながっていて、今から振り返ると「持つ固定電話」みたいな感じだった。

 ゴルフのクラブハウスにプレスルームがあり、そこで日本の会社と電話で連絡するしかなかったから、外で、実際のプレーのそばで電話をできるのは、速報性から考えても、すごく便利だった。定着したらいいな、とは思った。その頃は、固定電話という言葉は、なかったと思う。

バブル以降、普及する携帯電話

 1989年頃。バブルといわれる時代。一部の人が、携帯電話を持ち始めた。その時は、カバンに入る大きさになっていた。500ミリのペットボトルくらいのサイズ感だったと思う。片手で持つには、ちょっと大きいような携帯電話を、カバンから取り出して通話をする人が、どこか誇らしげな顔をしているように見えたのは、こちらのひがみもあったとは思う。

 1990年代後半から、使う人が急速に増えて来た。本体が「1円」で、使うことで利益を上げるような商法があって、と話は聞いていたが、自分では買わなかったので、それが事実かどうかなど、詳しく知る事は出来なかった。

1999年代後半から、10年たったら、スマホも、携帯も持っていない人間は警戒されるようになった

 いろいろな事情が重なって、仕事を辞めて、家族の介護に専念する生活に入ったのが1999年だった。社会と断絶したような、土の中で息を潜めているような生活が、10年ほど続いた。その間にスマホも登場したが、少しでも出費をおさえるために、携帯電話を持つことはできなかった。無職のまま、いつまで続くか分からない時間の中で、何しろ使うお金は減らしたかった。

 それでも、社会と完全に断絶すると、2度と復帰ができなくなりそうで、介護生活に入る時に、ワープロか、コンピューターか迷って、人と相談もして、アップルかウインドウズも迷って、ノート型コンピューターを買った。それまで、文章を書く時は、すべて手書きだった。買ったのは、内臓のハードディスクが2ギガの「パワーブックG3」だった。当時、アップルの経営は大丈夫なのか、とも噂されているほどだったが、知人の中で、操作などを教えてくれる人がアップル所有者だったこともあり、自分も同じにした。

 モハメド・アリなどが出てくるコマーシャルが、かっこいいと思ってしまったせいもある。それでも、操作は上達せず、心理的な距離感があるから、パソコンとかPCなどという呼び方は出来にくいままだ。だけど、コンピューターは持っていて、携帯電話を持っていないことで、さらに不信感を持たれるような気もする。


 2010年になって、介護はまだ続いていたが、幸いにも学校へ通って学ぶ機会を持つことができて、少し社会と関係を持つようになった。通えることが決まった時、近所を歩いていると、突然、プールから上がったように、風景に鮮やかさが戻って見えたことがあった。それだけ、息をつめるような時間の中にいたのだと思った。

 20代の人とも話す機会が出来、それはとても有り難いことだったが、携帯を持っていない、と伝えると微妙な反応がかえってくることに気づいた。金銭的な事は理由にならないようだった。優先順位でいったら、携帯はもしかしたら、生きていく必需品の中でベスト3に入るようになっていたみたいだから、たとえ私くらいに貧乏でもケイタイを持っていることが普通だった。

 だから、持っていない人がいること自体に、納得がいかない、という印象を持たれるらしいと、話をしていて知った。何を考えているか分からない人間、理解できない存在、という扱いになる可能性もある。話をすれば、聞いてくれる優しい人たちばかりだったから、とても幸運だったし、そんなことを考える事もできたのだけど、それでも、携帯を持っていないのは、世界観の対立みたいなことにもなりかねないと、わかった。

減っていく公衆電話

 街からは公衆電話が減っていく。

 新しく出来た商業ビルでは、設置していない方が多数派になってきた印象がある。駅前の電話ボックスも、5つくらいまとめて撤去になるところもあって、駅の中の公衆電話の数も減っている。

 使う人が少ないせいか、駅のホームの公衆電話の上や横には、空き缶や飲みかけのビール缶などがたくさん並べられるようになった。そのうち、そういう光景も見なくなってきたのは、さらに公衆電話が減ったせいかもしれない。

 今は、駅などの公衆電話のそばには、携帯電話で通話している人が思ったよりも多くなった。私が、公衆電話を使い始めると、そういう人たちは、去っていく。そこは、人がいない静かな場所として認知されているのかもしれない。

 ずいぶん前、地方に行くと、公衆電話を探して、少し歩くことが少なくなかった。今、都市部でも、ちょっと歩かないと、公衆電話がないことが多くなった。

 携帯やスマホを持っていないことで、あやまる回数は増えた。待ち合わせ場所などを決める時は微妙に迷惑をかけている感じがする。ラインのグループはもちろん入れず、最近コンピューターからのメールは受け付けないスマホも増えている。

 少しだけ、いいこともある。
 使う人がほぼいないらしくテレホンカードを金券ショップで安く売るようになった。1000円のカードを、300円台で買ったこともある。ある特定の店で買っていたら、行くたびに値段があがり、700円になっていた。自分が買っているせいかもしれない、と思った。そのうちに、そのショップでは、テレホンカードがないことが多くなった。尋ねたら、仕入れが減っているらしかった。今のテレホンカードは、写真やイラストを使ったような、いろいろなデザインのものが、ほぼなくなり、コンビニで買うと、緑色の、昔の事務服みたいなデザインのものしかなくなってきた。
 

たぶん、独特のツイッターの使い方

 ツイッターは、自分ではしないのだけど、コンピューターで検索をして、ブックマークに追加しているから、今、30人くらいのツイートは、毎日のように見ている。画面を見ると、その人のツイートだけが並んでいて、新しくツイートした瞬間だけ、その流れは動く。別の人のツイートを見る時は、クリックしないと見られない。何百人もフォローしていると、おそらくタイムライン(この意味は、ラジオ番組のタイトルで知った)は流れ続けているのでは、と想像しているが、私の見ている画面は、ほぼ動いてはいない。 

 どうして携帯電話もなくて、ツイッターもしてなくて、このトークイベントを知ったのですか?と聞かれた時に、そういう使い方をしている事を伝えたら、登壇者が、ちょっとあきれたように見えたこともあった。

介護の終わり 

 2018年の暮れに、19年間の、家族を介護する生活が終わった。

 午前5時過ぎまで起きている、夜間の介護担当だったためか、1年たっても、昼夜逆転の感覚が抜けなくて、夜早くに眠れない。思ったよりも心身にダメージが蓄積しているようだった。

 15年ぶりにやっと再開した仕事も、介護中心の生活のためにあまりできないままだったが、介護が終わったからといって、仕事がすぐに増えるわけもない。情けないことでもあるのだけど、あいかわらず、貧乏な生活のままなので、定期的にお金が出ていく携帯電話を、恐くて、まだ持っていない。そんな話をすると、安いものがあるから、と言われることも多くなったが、定期的な収入がもう少し増えないと、恐くて携帯電話を持てない。 

 そういう感覚自体が、そろそろ社会的不適合者のように思われそうだし、ここ何年かは、持っていないことが、どこか自然に、社会的排除につながりそうな気配も出てきたように思うから、以前より、焦りは出てきている。

 スマホや携帯電話を所有するようになったら、どんな風に気持ちが変わるのか。いつになるか分かりませんが、そのことも、また書きたいと思っています。


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