就職活動での「自己分析」は、本当に必要だろうか?
ここ最近の大学生の就職活動については、直接、というよりは、間接的な情報でしか分からないから、それほど本当のことを知っているわけではない。
だけど、ニュースやドキュメントだけでなく、ドラマの中でも、その場面に接するたびに、かなり昔の20世紀の自分の就職活動と比べて、神経を削るような、とても大変なことのようで、こういう想像自体が不遜かもしれないけれど、自分が今、就活をしたら、一社も内定が取れないような気がする。
自己分析
このドラマは、コミュニケーションは苦手だが、絶対味覚を持ち、目の前の相手を元気にしたいという気持ちを持つ大学生の女性が料理を通して、自分のことをより理解していくストーリーなのだけど、その中で就職活動も始める。
大学の場面では、学生を相手にした就活の講義で、「まず自己分析が大事です」ということが就活ガイダンスの講義のような場所で話されている。
そのあと、長所と短所を主人公が書き出して、考えるシーンになる。
そこで、改めて思った。
「自己分析」は、本当に必要だろうか。
長所と短所
20代前半くらいで、就職を前にして、自分の長所と短所を正確に分かるのだろうか。というよりは、企業に就職するためであれば、採用側にどうすれば気に入られるような「長所」と「短所」を書き込むことになりがちだ。
それも踏まえた上で、企業側も対応することになるだろうけれど、たとえば、自分の、他にはないようで、採用側の目にとまりやすそうな「長所」や、さらには「短所」をスムーズに話すような人間を想像すると、個人的には、そういう人間と一緒に働きたいとは思わない。
それが、時としてコミュニケーション能力の高さとして評価されるかもしれない。それでも、そうしたポジティブ要素だけが強めだと、組織の中で、自分だけは活躍し、出世する可能性はあるけれど、でも、一緒の組織で働く他の人間を尊重するかどうかは分からない。場合によっては、パワハラまがいのことをするかもしれない。
これは、個人的な偏見も入っているのだけど、そうした見栄えのいい「長所」と「短所」をアピールできるような人間にとっては、就職活動用の「自己分析」は就職のための手段にすぎず、それが、本当に自分を分かることにはつながらないように思う。
分析の危険性
そういえば、自分も就職活動の時に「長所」や「短所」を聞かれた記憶がある。今から振り返れば、非常に浅いことを言っていて、思い出すと恥ずかしさもある。それに、「長所」と「短所」は、見方で変わるのに、と考えてもいた。
だから、本当の意味で自分を理解しようとしての「自己分析」は難しい、というよりは、自分が就職活動をしている頃は「自己分析」といった言葉は使われていなかったと思うから、現代の方が、より高度な作業が、学生に求められすぎているような印象もある。
ただ、それでも就職活動の「自己分析」を、就職するための手段と割り切って行う方が、それほど自分のことは理解できないとしても、深く傷つく可能性は低くなるから、もしかしたら、その方がいいのかも、と思う。
それは、「自己分析」を本当に真剣におこないすぎると、やや危険ではないか、と思ってしまったからだ。
辞書を引くと、「分析」には、大きく二つの意味が書かれている。
就活の「自己分析」は、このうちの後者の意味を指していると思うのだけど、「自己」という複雑でつかみきれないことを、単純な要素に分解して、全体の究明に役立てることを、まだ人格を確立する途中の若い世代に強いるのは、とても過酷で、場合によっては、個人的には危険な可能性があるような気がする。
真面目な性格な学生ほど、おそらくは「自己分析」の際に「短所」ばかりが並びがちだし、(ドラマの主人公もそんな行為をしていた)そのことでかえって、自分を追い込むことにならないだろうか。
元々、外から観察できることに「分析」は向いているはずなのに、最も見えにくい「自分」を分析するのは、とても難しい。
どうして、こんな困難な作業が、学生側に課されるようになったのだろうか。
「自己分析」のはじまりと「ブーム」
こうした記事を読むと、やはり、「自己分析」が普及したのは21世紀なので、ここ20年のことのようだ。ただ当初は、学生を守るための手段-----自分を理解して、自分に合う仕事を見つけるため---- という印象に思える。
この「我究館」の現在の館長が、「自己分析」について、インタビューに答えている。
その「自己分析」にも、様々な歴史があり、特に、ここ10年の学生の変化は劇的だと捉えているようだ。
この早期化に対して、若いほど、その材料が減るのでは、というもっともな疑問がインタビュアーからされている。
こうした言葉を聞くと、生まれ育った環境の格差というようなことも思ってしまうが、おそらくは、自分の育ってきた環境をなるべく正確に知る、ということのようだ。その上で働き始めてからも、「自己分析」は必要らしい。
これは2020年の記事なので、今も「自己分析」のブームは続いているのだろう。
そして、この記事でも、自分のために「自己分析」は必要、というスタンスのようだけど、今は、その「自己分析」という作業を企業側が参考にしすぎているような気がする。
自分がどんな人間か?そのことに関する分析の緻密さの程度が、すごく求められているようにも思うけれど、そこまで自分を知るための「分析」が必要だろうか。細かく見ることは、その作業自体がとてもシンドそうなのに、本当に自分自身にとって、そこまで有効なのだろうか。
自分を知ること
「自己分析」のイメージは、イスに座って、机に向かい、自分のことを考える、ということのようだ。「長所」「短所」は「自己分析」の一要素のようだけど、今は、それだけではなく、もっと細かい点も「分析」していくようだし、その細かさの競い合いになっている印象まである。
こうした記事を読むたびに、自分がどういう人なのか?を細かく知っておくための「自己分析」を、より必要としているのよう思えるのは、あくまで採用する側ではないだろうか、と感じてくる。
それに「自己分析」自体の有効性の前に、この分析は、「これまでの自分の分析」であって、これから、もし初めて会社で働くのであれば、それまでの自分とは違った自分になっていく可能性の方が高いのではないだろうか。
特に、若い人間ほど、環境によって、自分がどんどん変わっていく。
だから、過去のまま止まったイメージのある「自己分析」を繰り返すよりも、生きていく、という動きの中にある、その時々の自分を大事にする習慣をつけたほうがいいのではないだろうか。
何をやりたいのか。
何をしていると、幸せなのか。
そうしたことも「自己分析」でも大事、と言われているらしいし、最初に紹介したドラマの主人公も、その原点に気がつく。
だけど、それは、本当に採用側が重視してくるのだろうか。あくまでも、その人の能力のようなものの方に注目しているだけではないか、とも思う。
本人のための「自己分析」とは、自分を大事にし、自分を知ることではないだろうか。
ただ、そのために、自分が何をやりたいのか?や、何をしていると、幸せなのか?を知ろうとしても、本当のことは、さまざまなことに影響されてわかりにくくなる。
それでも、今の自分の気持ちに対して、敏感になることで、その精度は上がるし、その思考自体が、自分を大事にすることにもつながると思うから、そうした習慣をつけていく方が、机に座って急に100個の質問に答えながら「自己分析」をするよりも、自分のためになるような気がする。
「自己分析」は、外からの視点のように客観的に自分を見つめる作業のように見えるけれど、大事なのは、今の自分の気持ちが、なるべく正確にわかることではないだろうか。
そして、その自分の気持ちは、誰と一緒にいるかで変わってくるし、環境でも変化する。それが自然なことで、自分はいつも動いている。それをいったんでも止めて「分析」しても、また動き始めたら、その分析結果は、すぐにあまり有効ではなくなるのではないか、と感じる。
そうした様々なことを考えていくと、「自己分析」はその大変さの割には、実は本人に利益が少ない気がする。
そのいつも動いている自分の気持ちを大事にして、その一環として就職活動をすれば、後悔はより少なくなりそうだし、本来は「分析」をする役割は、外部の人間が担当したほうが効率がいいし、精度が高まる。
その分析をするのが、まさに企業の採用側の行なうことで、その分析力の高さがあってこそ、人事だと思うし、そういう見る目があってこそ、企業が成長する基礎を作れるのではないだろうか、と思う。
分析力が必要なのは、何より採用する側ではないだろうか。
新入社員の配属
さらには、これからは、例えば新しく会社に入社した人間を配属する際に、なるべく本人の「やりたいこと」を優先したほうが、(もちろん全員が希望が通るわけではないけれど)、その後、力を発揮する確率は単純に上がると思う。
これまでは、なぜか、その社員の望みに対しては、逆に違う部署に配属させる習慣があったと聞いているけれど、そのことに対して、ジェネラリスト養成といった意味もあるらしい。
すでに終身雇用が崩壊している、といったことが言われているのに、今も、この終身雇用をベースにしたような発想だと、若い社員は離れていくのではないだろうか。
「自己分析」というしんどい作業を本人にやらせて、わかりやすくプレゼンをしてもらい、その上で、採用を判断する。そして、入社後は、本人の希望より、会社の都合を優先させて配属を決める。
そうした行為自体が、新入社員にから見れば、かなり大変な作業でもある「自己分析」の結果を、ないがしろにされた印象を持ってもおかしくない。
こうした配属の方法は、会社に忠誠を誓うことが意味のあった終身雇用の時代の習慣であって、そんなに企業のことばかりが優先することがずっと続いていて、これまでは、それでうまく行っていたのは、昭和の時代までで、これから、そのやり方で、その組織に属する人のモチベーションは上がるのだろうか。
そういった方法自体が、数多い「失われた30年」の原因の一つになっているのではないだろうか。
さらなる「働き方改革」
それに、元々、この「自己分析」が就活に一般的になったのが、2000年以降とすれば、現在の会社内で重要な地位に就いている人は、この「自己分析」をしていないはずだ。私自身も、自己分析がない時代に会社に入ったのだけど、それも含めて、現在の就職活動をしている人は、なんだか、すっきりしない気持ちになってもおかしくない。
働いてから、大変なことが多いのに、入社するまでに、今のような学生に負荷のかかる就職活動を強いる社会に、未来はあまり感じない。だから、まずは新卒一括採用が、本当に見直されるべきなのだと思う。
さらには、会社をかえる「転職活動」もっと一般的になれば、最初の会社との相性で一生が左右されるようなことも減っていくだろう。
さらには、性別や年齢での就職差別もなくし、同一労働同一労働が基準になり、正社員と非正規社員という区分が、差別的として撤廃される時がくれば、労働生産性も自然に上がると考えるのは楽観的にすぎるだろうか。
まずは、これまでの就職活動の始まりでもある「自己分析」が必要でなくなれば、さらに「働き方」が変わるきっかけになるかもしれない。
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