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「年収1000万」の思い込み。「億り人」の罠。

 時々、自分自身も知らないうちに「思い込み」にとらわれていることに気がつく。

 ただ、その「思い込み」というのは、「思い込み」と気がつくまでは、自然な思考に過ぎないから、自分では分からない。

 今でも、「思い込み」とわからないまま、自分自身をしばるように、毎日を生きている可能性も低くない。


必要なこと

 その中には、それこそ生きていくのに必要な「思い込み」もある。

 例えば、今日一日はなんとか無事に生きていけること。明日も、今日と同じように穏やかな日々を送れること。年末になると、来年は、こういうことをしたい、と思えるほど、変わらない毎日が続くこと。

 そんな「思い込み」は、必要だと思う。

 本当を言えば、その未来は、誰にとってもあるかどうかは分からない。

 今日、何か事故があるかもしれない。明日も、無事に過ごせないかもしれない。来年は自分にあるどうか、100%保障されているわけではない。

 そのことを突き詰めて考えすぎると、気持ちは一瞬も安らがず、それだけで追い詰められ、そのことで、本当に平穏な生活が終わってしまうことさえあるかもしれない。

 だから、「思い込み」がなければ生きていけない、という面も確かにある。

年収1000万

 この何年かで、自分が長いこと「思い込」まされていたことに気がついて、その指摘について感心までしてしまったことが、「年収1000万円」についてのことだった。

 それは、この本で触れられていた。

日本では、年収1000万円が高給とりのひとつの目安になっています。

(「その働き方、あと何年できますか?」より)

 私が、年収1000万円のことを聞いたのは、20世紀末に大学を卒業して、初めて会社に勤めた頃だった。入ったばかりなのに意外だったのは、同じ業界の他社の話をすることだった。

 それも、入社した会社は、その業界では、とても大手とは言えなかったのだけど、他社のことについて、よく年収のことが話され、その内容が本当かどうか分からないのだけど、まだ新入社員にとっては、信じるしかなくて、そして、その年収は、自分の給料額と比べると、やはりうらやましくなるような金額だった。

 私の上司だった人は、そんな話が出るたびに、そんなに他がいいのだったら、そこに転職した方がいいという、とても真っ当な指摘をしながらも、それでも、年収については、こんな目安をあげたのを覚えている。

 40歳で年収1000万。

 そのころの私にとっては、夢のような話にも聞こえた。
 入社した最初の夏のボーナスが5万円。冬も、その倍くらいで、考えたら、次の夏のボーナスに、通常の社員並みの額がもらえるはずだったのだけど、その少し前に、あまり考えずに会社も辞めてしまったから、その後がどうなったのか分からない。

 ただ、「年収1000万」というのは、豊かさの一つの基準として、今だに自分が、そこまで稼いだことが一度もないから、余計に、届かない基準のままだけれど、それは、かなり前のことだから、この書籍が出版された2022年でも、まだ「高収入」の基準になっているのは意外でもあった。

 そして、今もそれが、ビジネスパーソン「みんな」の目標として「年収1000万円」は、自主的に選んだ基準だと思われている。

 ぼくらはこうやって自分で道を選んだように思わされています。これのどこが「選んだように思わされている」のか?何を選ばされたのか?
 それは会社員として生きる道です。ぼくらは「その人」から、会社員になる道を選ばされたのです。どうやって?[年収1000万円≒お金持ち]という基準を与えられることによって、です。 

(「その働き方、あと何年できますか?」より)

 ここからは、さらに高い年収について知らなければ分からないことが指摘され続ける。

いわゆる「お金持ちの生活」をするためには、年収1000万円では足りません。

 このことは、実際に年収1000万円がないと、実感として分からないけれど、そのことを、その当事者がきちんと伝えてくれることもほとんどない。だから、私も含めて、多くの「年収1000万円」に届かない人は、目標にし続けてしまう可能性がある。

 多くの人がイメージするお金持ちになるためには、ぼくらはたとえば年収3000万円にならないといけません。でも、そうなっては困る人がいるのです。ぼくらが年収3000万円を目指すと困っちゃう。
 なぜか?年収3000万円は、サラリーマンでは目指しても達成できない金額だからです。 

 日本のどこかに、ぼくらは会社員でいてほしいと思っている人がいて、その人がお金持ちの定義を勝手につくり、そこを目指すかどうかの問いかけをしてきます。
 ぼくらはお金持ちになりたい!お金持ちになるために頑張る!と自分で意思決定したつもりでいますが、同時に会社員で居続ける選択をさせられているわけです。
 これがぼくが感じているマジシャンズセレクトです。

(「その働き方、あと何年できますか?」より)

 マジシャンズセレクト、というのは、マジックが披露される場面で、自分が選んでいるように思わせているけれど、実はマジシャン側に選ばされている、ということで、それを比喩として著者は使って、「年収1000万をめざす」というのも、誰かに選ばされているのではないか、という問いかけをしている。

 この文章の中で「日本のどこか」という表現だけに注目すると、陰謀論、というような言葉が頭に浮かびそうになるが、例えば、20世紀に、国民がなるべく持ち家を持つことを促す方針が、政策によって、とられたことがあったはずだ。

 それは、とても素人的な感覚であるのかもしれないけれど、借家で生涯をなるべく快適に暮らせるように、というような「政策」を立てれば、ある程度は実現する可能性もあったのだろうけれど、持ち家の方が好ましい、もしくは持ち家を持った方が得、と思わせるようなシステムを作ってしまえば、多くの人は家を買うことになるのだろうし、それは、今も続いている。

 そうなれば、特に会社に勤めているような状況で、現金で家を買える人はほぼ存在しないだろうから、ローンという借金をすることになる。今は、35年ローンも珍しくないのだろうけれど、今から35年後も払い続けることを約束するのは、個人的には怖くてできない。

 そして、そのローンを組んでしまえば、世の中がなるべく変わらないように、とにかく会社に勤め続けてローンを返さないと、と思うのは当然で、そうなれば「保守的」な選択をすることになるはずだ。

 持ち家を望むのも、実は「マジシャンズセレクト」かもしれない。

 そして、その持ち家促進政策の目標は、今も実現し続けているように思うし、この「年収1000万円」も、やはり改めて、そう思うようになったのは、ここ何年かで急に聞くようになった、「マジシャンズセレクト」に感じるスローガンのせいもある。

人生100年時代構想会議

 ここ何年かで急に「人生100年時代」と言われるようになった。

 人生100年時代構想会議は、人生100年時代を見据えた経済社会システムを創り上げるための政策のグランドデザインを検討する会議として、平成29年9月に設置され、9回にわたって議論が行われました。

 平成29年12月に「人生100年時代構想会議 中間報告」が、平成30年6月13日に「人づくり革命 基本構想」がとりまとめられています。

(「厚生労働省」ホームページより)

 その始まりは、どうやら、この政府の「会議」らしいし、個人的な印象でも2018年以降に、「人生100年時代」は聞く回数が増えてきたような気がする。

 この「人生100年時代構想会議」で、何が話し合われたかについては、こんなふうに明らかにされている。


(「人生100年時代構想会議」の目的と主要テーマ)https://warp.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/10976787/www.kantei.go.jp/jp/singi/jinsei100nen/dai1/siryou3.pdf

 日本は、健康寿命が世界一の長寿社会を迎えている。海外の研究(リンダ・グラットンの著書「ライフシフト」で引用されている研究)を元にすれば、2007年に日本で生まれた子供については、107歳まで生きる確率が50%もある。この日本で、超長寿社会の新しいロールモデルを構築する取組を始めていきたい。

「人生100年時代構想会議」の目的と主要テーマ より)

 これが、「人生100年時代構想会議の目的と主要テーマ」の最初に掲げられているのだけれど、この根拠として扱われている論文は、「ライフシフト」からの孫引きで、これは、個人的には「論文を書く際に、孫引きはダメで、必ず原著に当たれ」と言われていた記憶があるので、ややひっかかることだが、どちらにしても、日本が超長寿社会であることは間違いない。

 そして、この会議の「具体的なテーマ」として4つの項目が挙げられている。

① は、教育機会の確保が挙げられ、そして、何歳になっても学び直しができるリカレント教育。

② は、高等教育改革。大学も、若い学生だけを対象としているのは、これからのニーズに合わないのではないか、という提言まである。

③ 新卒一括採用についての疑問。そして高齢者雇用

④ は、上記3つとは違って、高齢者への社会保障を削減するとも取れる「全世代型社会保障」へ改革。

 この「具体的なテーマ」を素直に読んで、そのまま受け取ると、超長寿社会を迎えるにあたって、いくつになっても、高齢であっても、とにかく働く(働かせる?)社会を目指す、というように取れる。

 有識者議員には、10代の若い大学生である起業家や、80代のゲームアプリ開発者、元サッカー日本代表など、多様な職歴を持つ人たちや、大学の総長や教授など13名。

 人生100年時代を、本気で考えるのであれば、長寿であればあるほど認知症のリスクも増えるし、本人がどれだけ努力や節制をしたとしても老化は訪れるのであるから、そうした働けなくなった場合を、どれだけ支えるかが、いくつになっても働けることと同様に重要なことであるとは思うのだけど、この「人生100年時代構想会議」でテーマにもならないとすれば、この構想会議への信頼感は薄くなってしまうと思う。

厚生労働省における対応

介護人材の処遇改善
介護人材の確保のため、2017年4月から、介護職員について、経験などに応じて昇級する仕組みをつくり、月額平均1万円相当の処遇改善を行いました。
今後、経験・技能のある職員に重点化を図りながら、介護職員の更なる処遇改善を進めます。

(「厚生労働省」ホームページより)

 厚生労働省のホームページには、こうした高齢者を支える項目があるけれど、おそらくこれだけでは「人生100年時代」」を支えるのは難しいのではないだろうか。

健康寿命

「人生100年時代構想会議」の項目で、健康長寿世界一、という言葉があった。

 平均寿命と健康寿命の差は日常生活に制限のある「不健康な期間」を意味しますが、これは、2010(平成22)年から男女とも、徐々に縮小傾向にあり、2019(令和元)年では男性8.73年、女性12.06年となっています。

(厚生労働省「e-ヘルスネット」より)

 縮小傾向とあるのだけど、この約10年の平均寿命と健康寿命のグラフを見ると、縮小傾向は、かなり小さい。そして、その傾向があるとすれば平均寿命の伸びが鈍っているせいで、生まれている傾向のように見える。

 ただ、どちらにしても、「不健康な期間」には、介護が必要になる。

 2019年では、女性では12年になっている。もしも、今後、「人生100年時代」になったとしても、健康寿命までが伸びる保証はない。というよりも、現在までも、平均して10年ほどの「不健康な期間」がある。それが、もっと長くなる可能性まである。

「人生100年時代」と聞くたびに、平均寿命が伸びたとしても、健康寿命が90歳を越えることは、とても考えにくいので、だから、「人生100年時代」を本気で考えるのであれば、その10年の介護期間(もっと伸びる可能性の方が強いと思う)を、介護職員の月額1万円相当の処遇改善だけで、支えられるとは思えない。

 長生きすれば、介護を必要とする期間も長くなる可能性がある。まして100年ともなれば、そのことと無縁な人は本当に少数だろう。それにも関わらず、「人生100年時代」と言われると、なぜか元気で過ごせるイメージばかりが先行しているような気がする。

 ただ、こうしたポジティブな「人生100年時代」というイメージも、もしかしたら、様々な意図(日本のどこかの誰か?)によって、そう思わせられている可能性も考えられる。

 だから、この何年か、何か社会的なことを話す前置きに、明るい笑顔で、「人生100年時代と言われています」などと言われると、途端に気持ちが暗くなる。それは、個人的な経験が影響していると思う。

100歳を越えること

 仕事をやめて、母親と義母の介護に専念していた時があった。
 妻と二人で、介護をしていたが、19年間で、その時間は終わった。

 妻の母親(私にとっては義母)は、在宅で介護をしていて、耳も聞こえず、立てなくなってからも、おそらく10年以上があったから、その間は、妻と私で、ほぼ24時間の介護をしていた。

 要介護4で、デイサービスは週に2回。ショートステイは、2ヶ月に1回、4泊5日利用していた。それ以上の頻繁な利用は、義母が嫌がりそうで無理だった。

 私は、夜中担当で、義母のリズムに合わせて、だんだん就寝時刻は遅くなり、最後の方は午前5時半頃になった。妻も、食事の支度や、さまざまな介助があって、その年月は、やはり、もっとも時間と、心身のエネルギーを介護に費やさざるを得なかった。

 いつ終わるかわからない。

 そんな時間の中で生きていると、本当に時々、全てが嫌になることも少なくなかったし、在宅で介護をするということは、具体的に体を動かしている時間だけではなく、他の部屋にいたとしても、大げさでなく24時間体制で、緊張が続くということで、それは「待機」という、今のところ「名前のついていない介護」だと思っている。

 義母は100歳を過ぎ、ひそかにささやかれているという「100歳の壁」(101歳になる前に亡くなる方が多いらしい)を突破し101歳になり、ここまできたら、もっと長生きして欲しい、という気持ちもあったが、同時に、自分たちがどこまで老けていくのだろう。疲れによってボロボロになっていくのだろう、という怖さもあった。

 義母の食欲はあったから、まだこの時間が続くのだろう。いつまでだろう。そんな気持ちはずっとあったし、介護の負担はだんだん重くなっていったが、義母が103歳の誕生日を無事に迎えてから少し経って、デイサービスの施設で昼食前に倒れた、という連絡をもらい、病院に救急搬送され、それから数日で亡くなった。

 そこから、自覚できなかった疲れが、体でわかってくるまでに少し時間があったし、初めてインフルエンザにもかかった。さらに昼夜逆転のリズムを修正するのに思ったより時間がかかったのは、しばらく夜早く寝ることへの罪悪感みたいなものが抜けなかったせいもある。

 それでも、少し一般的な就寝時刻になってきた頃、コロナ禍になった。

 妻は、介護中に持病になってしまったぜん息もあるから、感染が怖くて、さらに再び、日常的に緊張の続く時間が再開した。外出を控えるから、仕事も増やせないような、そんな日々が始まって、そして、まだコロナ禍は終息していないから、そういう日常は続いている。

 「人生100年時代」ということは、私たちのような生活をする人間が増えることでもある。

 介護保険があるから、といったことは言われていても、「改正」という名前の変更のたびに「サービス抑制」としか思えない方向に進んでいる介護保険は、これから先、本当に利用できる制度であるかどうかの大きな疑問があるし、基本方針として「在宅介護」が打ち出されている以上、地域の支援といった言葉も見るが、「地域」とは誰のことなのだろうか。

 ご近所の方が、介護の手伝いをしてくれるような恵まれた「地域」が、そんなにあるとは思えない。しかも、介護業界は、これからさらに人手不足が見込まれているから、使いたくても介護サービスが使えなくなってくる可能性が高い。

 となれば、介護の負担は、家族がいれば、家族にかかることは目に見えている。

「人生100年時代」は、今後、ますます増えていく介護が必要な時間をどう支えていくか。家族に任せるだけでは負担が大きすぎて、それこそ、介護殺人や介護心中が増えていく未来になりがちだから、この介護の部分を真剣に考えていない「人生100年時代」というスローガンは、申し訳ないけれど信用はできない。

資産運用

 賃金労働者の中で、資産運用という言葉が聞かれるようになったのは、景気が沈滞し、「失われた10年」と言われるようになった頃だと思う。

 賃金が上がらない。いつ解雇されるかわからない。そんな空気感の中では、ただ一生懸命働いても、未来に希望を持つことは難しく、ただ不安になる。

 いつから、そんな社会になったのだろう。

 驚きは雇用の現場にもあった。取引先との会議や会食の場で、一〇年前の日本ではあり得ない言葉を耳にする機会が増えていたのだ。
「私も、いつクビになってもおかしくありませんから-------」

さらに驚いたのは、当事者の危機感だけでなく、社会全体もリストラを容認する空気に変化していたことだった。 

(「日本の電機産業はなぜ凋落したのか」より)

 この本の著者は、電機産業で長年働いた上で、その凋落の原因に向き合っているので、敬意を持てると思うのだけれど、この部分は、1990年代にアメリカへ渡って働き、2008年に帰国し、その変化を驚きと共に、実感した時のことだ。

 この「解雇されて当然」という空気になってしまったことが、その後の日本の労働者環境を、より厳しくしたとも今となっては改めて感じる。

 ただ、それ以降、そうした社会の空気は変わらないままで、というよりは、もしかしたら悪化する一方だから、それぞれの個人が自分を守るために、賃金以外の収入を得るため、副業禁止の企業もまだ多いはずだから、資産運用ということに魅力を感じても仕方がない。

 だから、この「人生100年時代」という言葉を目にする広告は、金融機関に多かった印象がある。

人生100年時代の資産運用

延びる平均寿命、100歳まで生きる確率は?

生活費が大きな負担に、長生きするリスク

 サイトには、こうして見出しが並び、そこから「はじめの一歩へ」へ誘導するページになっている。実際のデータを使って、不安にアプローチし、だから備えのために資産運用を考えませんか?という流れになっているから、とてもスムーズで、考えられていると思う。

「人生100年時代」というキャッチフレーズ自体が、政府の構想会議から発生したとはいえ、金融界からの後押しがあったのではないか、と疑うくらい金融商品と相性がいいと、改めて思えるような言葉だった。

 そして、「人生100年時代」というキャッチフレーズが、自力で長生きに備えろ、というような微妙に強制的なメッセージになり得るとしたら、将来的には、「自己責任」という言葉にもつながっていそうで、より不安になるのは考え過ぎだろうか。

億り人

 「人生100年時代構想会議」が開かれた頃、すでに、よく聞くようになっていたのが「億り人」という言葉だった。

株式投資や暗号資産取引(仮想通貨取引)などで億単位の資産を築いた投資家のこと。2008年公開の映画『おくりびと』のタイトルをもじった造語。

(「野村證券」より)

『おくりびと』は、本木雅弘が「納棺師」を演じた静かな映画だったけれど、2008年公開であれば、現在の「億り人」が、どうしてこういう名前だったのかをわからない人も多いだろうし、その映画の扱っている世界とは、あまりにも違う使われた方をしていると思う。

 それでも、いつの間にか「億り人」という言葉が定着し、使用され続けているには、その「億り人」が、ある種の憧れや目標のようになっているせいだろう。

 様々な媒体などで「億り人になって早期リタイア」といった言葉を見るようにもなった。そうはっきりと書いていなくても、株などの資産運用で一億を稼ぐのが夢、といった風潮が定着したと、資産運用にも一億にも縁がない私でも思うようになった。

 それは、高額所得の目標として「年収1000万円」と言われていたことと、似ているように感じるから、それは、一種の罠ではないか、といった印象もある。

資産運用の難しさ

 当然だけど、「億り人」になるのは、とても難しいようだ。

 2017年の確定申告の総括が5月に国税庁から公表され、「雑所得の収入が1億円超あったとした納税者のうち、仮想通貨の売買で収入を得ていた人が少なくとも331人に上る」と報道されました。
「そんなに多いの!?」と感じる方もいるかもしれませんが、個人的には「そんなものなの?」と思いました。私はもっといるような気がしますけどね、「億り人」。日経新聞も「業界関係者は『実際はもっと多いはず』と指摘している」と報じています。

(「Bizpedia」より)

 この「億り人」という言葉が登場したのが、仮想通貨の売買で多くの収入を得た人が出てきた頃で、それでもここでは「331人」という数字が出ているし、「もっと多いはず」との分析も示されているが、それでも、1万人ということはないはずだ。

 億を稼ぐトレーダーの共通習慣で感じるのは、みんなチャートを見ている時間が長いことです。

 私は誰よりもチャートを見ている、経験値もある、だから「自分がいちばんうまい」と思っていた時期もありました。

 でもそうではありませんでした。世の中にはマニアックな人がごまんといて、私よりマーケットにどっぷりつかっている投資家はたくさんいます。「いつ寝ているんだろう?」と思うほど、ずっとチャート見ている人もいます。

(「東洋経済」ONLINE より)

 これは、副業でできるレベルではない。ほとんどの時間を資産運用に賭けているプロの投資家の姿に思える。

 しかし、本物のトレーダーは、そのまま取引しても勝つことは難しいことを経験で知っています。ですから、セオリーどおりのトレードはしていません。

 つまり、「コレさえやっていれば勝てる」といった必勝法はないのです。

(「東洋経済」ONLINE より)

 セオリーでない方法を使って成功する。これは、投資の分野に限らず、本当のプロしかできないやり方だから、努力すれば、勉強すれば、というレベルで追いつけることではないと、すぐわかる。

 どの分野であっても、これができる人は、本当に一握りだし、おそらくはセンスという素質に関係あることだから、私だったら、ここで手を引くことを決める。

 さらに、もう少し冷静な分析もある。

月10万円(年間120万円)の配当を得るには22,222株以上の購入が必要となり、22,222株を購入するには約5,200万円の購入資金が必要という計算になります。

(「不動産投資コラム」より)

 だんだんわかってくるのは、資産運用は、巨額な費用がなければ、それなりの利益を産めないのでないか、ということ。それに、少額から巨額を稼ぐ人も、もちろん存在するが、それは、本当にとても少ないのだろう、ということだ。

 現在92歳のバフェットは、個人資産が1000億ドル(約13兆円)超。彼が率いる米投資会社バークシャー・ハザウェイは、波乱相場で積極投資をしており、昨年1年間の株式や事業への投資額は計785億ドル(約10兆2000億円)に上ったそうです。読者の皆さんの中には、そんな「世界一の投資家」と呼ばれるバフェットの必勝テクニックに高い関心を持つ方が多いのではないでしょうか。

(「日本経済新聞」より)

 10兆円投資できれば、利益を上げられる。
 という見方は極端かもしれないが、基本的には、巨額の投資ができる人のために株式市場はあるのではないかとも思う。大量に投資し、個別な株の上下にこだわるのではなく、トータルで利益を出せばいい、といった方法が主流になっていると、どこかで読んだ記憶もあるから、ますます巨額な資金がある人に有利なシステムだと思えてくる。

「安定した利益を稼ぐクオリティー株を割安な段階で購入する」という、2つのファクターを併せ持った銘柄選別が、彼の実績につながったんですね。

(「日本経済新聞」より)

 この世界有数の投資家に対して、このような評価があるようだけど、この言葉は、ゴルフで言えば「飛んで曲がらない」という理想を言っているようにしか聞こえないし、こんな購入ができるのは、よほどの運に恵まれるかとんでもなく見る目がある、という特殊な才能がある人だけと思えてしまう。

「億り人」にしても、一人が一億を得たとすれば、どれだけの人が損をしたかと考えると、私には、怖い世界だと思うし、当然だけど、どの証券会社にも、「リスク」の説明がある。

 どう考えても、元本を大きく伸ばす人よりも、損をする人が多い世界なのは間違いないようにしか思えないのだけど、それは投資の素人の見方に過ぎないのだろうか。

 それでも、ただ、利益を得る話ばかりをするとすれば、ギャンブルの世界ととても似てくるのだと思う。

一億の罠

 もう一つの罠の気配は、「年収1000万円」と似たことだ。

 繰り返しになるけれど、もう一度、引用する。

日本では、年収1000万円が高給とりのひとつの目安になっています。

 そして、今も、それが、ビジネスパーソン「みんな」の目標として、「年収1000万円」が自主的に選んだと思われている。

 ぼくらはこうやって自分で道を選んだように思わされています。これのどこが「選んだように思わされている」のか?何を選ばされたのか?
 それは会社員として生きる道です。ぼくらは「その人」から、会社員になる道を選ばされたのです。どうやって?[年収1000万円≒お金持ち]という基準を与えられることによって、です。

いわゆる「お金持ちの生活」をするためには、年収1000万円では足りません。

 多くの人がイメージするお金持ちになるためには、ぼくらはたとえば年収3000万円にならないといけません。でも、そうなっては困る人がいるのです。ぼくらが年収3000万円を目指すと困っちゃう。
 なぜか?年収3000万円は、サラリーマンでは目指しても達成できない金額だからです。

 日本のどこかに、ぼくらは会社員でいてほしいと思っている人がいて、その人がお金持ちの定義を勝手につくり、そこを目指すかどうかの問いかけをしてきます。
 ぼくらはお金持ちになりたい!お金持ちになるために頑張る!と自分で意思決定したつもりでいますが、同時に会社員で居続ける選択をさせられているわけです。
 これがぼくが感じているマジシャンズセレクトです。

(「その働き方、あと何年できますか?」より)

「億り人」が「人生100年時代」と共に、さらに声高に言われている印象があるけれど、この「年収1000万円」が、実際にはお金持ちには届かないのと同様に、「資産1億円」では、「人生100年時代」であったら、もし、早期リタイヤをしてしまったら、とても足りないと思う。(それに当初は「億り人」は、資産数億のはずだったけれど、今は1億の印象が強くなっているように感じる)。

 現在、定年と言われる65歳の時点で「一億円」の資産があったら、確かに安心感はあるとは思うけれど、そこから、もし早めに要介護の状態になってしまい、私のように子どももいなくて、介護サービスなどに頼る割合が大きいとすれば、そして、それが夫婦二人で、同じような状況になっているとしたら、100歳まで長生きできたら、おそらく足りないはずだ。

 私と妻で10年以上、在宅介護をしてきたが、それは、お金がないために、自分たちの人力に頼った部分もあったけれど、もし、これらを外注し、支払ったとすれば、かなりの金額になるはずで、だから、本当に「人生100年時代」に備えるとすれば、「億り人」自体が、ごく一握りの人しかなれないだろうし、もしなったとしても、その後が、特に高齢になればなるほど、余裕がある生活が送れるとは限らない。

 それこそ、「年収1000万円では金持ちではない」と同様に、その3倍、三億円あれば、大丈夫かもしれない。

「人生100年時代」には、(資産一億円の)「億り人」では十分ではないと思う。

「人生100年時代」への対応

 これだけ長寿の人が多くなったことは、これまでの人類史上では初めてのはずだ。

 そして、健康長寿と、寿命の間に今の時点で「10年」の期間があり、その間はどうしても人の手を借りる年月があるならば、そこの時間を、それでもいかに幸せに暮らせるか?を考えるのが文明国だと思う。

 「億り人」などという、将来的には自己責任論と結びつきそうな不確定な「夢」を目指すよりは、「人生100年時代」に長生きすることは、とても、その生活を個人でどうにかするのは不可能と考えた方がいい。

 それこそ、全員が「億り人」になったとしても「人生100年時代」には足りない可能性があるとすれば、個人の経済力などの努力や工夫では限界があるのだから、国の政策として、この長い人生の晩年が、たとえ介護が必要になったとしても、長生きしてよかった、と思える社会にすることを目指す方が、より豊かで、より文明国なのは間違いない。

 そうなると、これ以上の予算はかけられない、といった話になりそうだけど、いつから、国民が、国の予算という全体のことまで考えなくてはいけなくなったのだろうか。それも、その予算が足りない、という点も、本当に精密に調査すれば、額面通りの「予算が足りない」かどうかも、疑わしいことはないのだろうか。

 どちらにしても、社会保障費がかかる、といっても、世界一の長寿国になれば、予測がついたことだし、社会保障費も、国際的に比較すれば、決して世界一、使っているわけではないようだ。

 一人当たりの社会保障費でのランキングで、日本は19位になっている。
 決して、上位とは言えない。

 もちろん人口も関係してくるから、総額ということではないのだろうけど、それでも、日本よりも人口が多いアメリカが11位に位置している。あれだけ、自由主義というか、個人主義の印象があるアメリカでさえ、それだけの予算をかけている。それに、イタリアやフランスなどGDPで日本よりも下位の国も、ベスト10に入っている。

 先進国の中では、イギリスが日本よりも下位の20位になっているが、イギリスのGDPは世界6位で、日本とは1兆ドル(110兆円)の差がある。

 だから、こうして各国と比較すると、国の予算の中で、社会保障費を必要なものとして、きちんと使っているかどうかの違いが順位に出ているようで、おそらくは、何を大事にするか?の優先順位の問題ではないか、と思えてくる。

 もしも「人生100年時代」を本当に豊かなものにするのであれば、個人の「自助」だけではとても無理で、政策として、税金という国民から集めた資金を、どう使うかを決めて、長生きをした人に対して、できる限り幸せに生きていけるようにどうやって対応していくかが大事になるのだろう。

 つまりは、「人生100年時代」は、個人がどうにかできることではなく、国の政策レベルで考えていかないと、とても難しい課題なのは間違いない。

 それなのに、「年収1000万円」と同様に、「億り人」という考えも、どこかの誰かが、「人生100年時代は、自己責任で」といったことを、今から思い込ませるようにしている可能性も感じるので、「人生100年時代」という言葉の使われ方と同様に、今のところ、この「億り人」という言葉に対しても、個人的には警戒心が抜けない。



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