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「人権」の「現在地」を確認する。(前編)。

 知らないことが多く、そして、その「知らなかったこと」さえにも気がついていなかった。

 ラジオを聴いていて、あまり聞いたことがない単語が出てきた。
 それは、「人権機関」だった。

 この番組のコーナーで、この日のコメンテーター・深澤真紀氏は、国連がジャニーズの性被害のことを調査に来た、というようなニュースに対して話をしていた。

 私も、それほど詳しく知らなかったから、国連が「ジャニーズの問題」について調査し、報告していると思っていたが、どうやら、それだけではなく、テーマが、日本国内の「ビジネスと人権」というもっと広いものだったのも、初めて知った。

 そして、日本国内のビジネスにおいて、人権がいかに大事にされていないか、そんなことを具体的な指摘をした上で、それを包括するような問題点の話にもなったことを、深澤氏の話で、やはり初めて知った。

 それは、具体的には、国内に「人権機関」がないことで、それが大きな穴になっている、ということだったのだけど、それを報道したのは、深澤氏によれば200社中の5社くらいだった。そうした扱いがされるのは、日本のメディア自体も人権を重視してこなかった証拠、と言葉が続いて、確かにその通りだとは思った。

 自分の中に、そのテーマが重要という意識がなければ、どれだけ大事なことが目の前で話されても、意識的にその情報を伝えないのではなく、単純に気がつかない、ということになりがちだからだ。

 同時に、私自身も、「東京都人権プラザ」には、アーティストの展示が見たくて行ったこともあるし、そこでシャープペンシルもいただいて、今もペンケースには入っているけれど、その「人権プラザ」と、「人権機関」がどう違うのかも、よくわかっていなかった。

 それは、自分の無知のせいもあるけれど、メディアだけではなく、いわゆる世間で「人権」という言葉自体を聞くことが、とても少ないせいもあると思った。


人権機関

 国内人権機関とは、裁判所とは別に、人権侵害からの救済と人権保障を推進するための国家機関です。

 例えば、外国人であるとか、障がい者であるといった理由で、部屋の賃貸契約や雇用契約から排除されたような場合、裁判所に訴えて損害賠償を得るにも時間がかかる場合が多いですが、簡易・迅速に人権救済がなされなければほとんど意味がありません。そのようなケースでも、素早く対応し、調査の結果、差別や人権侵害が認められた場合は直ちに勧告し、迅速な解決を図るのが国内人権機関です。

 また、人権保障推進のための提言や教育活動を展開し、国の行う行政や立法に対して素早く意見がいえるのも特徴です。

 すでに世界各国では、人権を保護し、あるいは人権状況を監視する110の国内人権機関が設置されています。国際機関も日本政府に対して設立を求める勧告をしていますが、まだ、日本に国内人権機関は設置されていません。

(「日本弁護士連合会」より)

 私が知っている「人権」という名前がついている組織は、「人権プラザ」なのだけど、そこでは、あるアーティストの展示について、実質的な検閲のような形で、展示やイベントを中止するということがあって、「人権」をどこよりも大事にする場所のはずなのに、と思ったことがある。

 だけど、国内人権機関がある国が110もあること。そして、民主主義を採用している国であるのならば、この機関があった方が、当然、「先進国」なのだろうけれど、日本には、まだないことも初めて知ったのだけど、この事実に対して、なんとなく納得するような気持ちにもなった。

 もちろん、生活の中で、社会的に強い立場でもない自分としては、そしてこれから老いていくことになるのだから、いつ人権侵害という状況に遭遇するか分からないので、もしも「国内人権機関」があれば、啓発するための「人権プラザ」も必要だと思うけれど、こうした実質的に「人権侵害」に対して、より強い勧告をしてくれる機関があれば、心強い気持ちにもなる。

 でも、同時に、薄々だけど、日本では、まだ難しいのではないか、という気持ちにもなるのは、深澤氏が指摘していたように、メディア自体が人権に対しての意識が薄いように、社会全体が、「人権」を大事だと思っていないように感じているからだ。

勧告

 こうしたことを考えて、改めて「人権」について少しでも検索すると、こうしたページを知る。

『パリ原則に準じた国内人権機関設置に関する勧告・要請等』法務省人権擁護局
https://www.moj.go.jp/JINKEN/jinken03_00153.html

 我が国は,国際社会の場において,政府から独立した国内人権機構の設立について指摘を受けています。
 これまでに,我が国が受けた勧告・要請等は以下のとおりです。

 このページの最初には、こうした文章があって、「勧告・要請等」が並んでいて、私のように意識も高くなく、それほどの強い関心がなければ、「勧告」を受けているんだ、へー、みたいな感じになりがちだと思う。

 ただ、その中身を少し注意深く見れば、この文章自体が、基本的な知識や情報がないと、おそらくはその意味自体がよくわからないのだろうけど、その中で、こうした表現を見ると、かなり危険な頑なさが少し伝わってくるような気がする。

女子差別撤廃条約
○ 「女子差別撤廃委員会の最終見解」(2009(H21))(仮訳)
「前回の最終見解における勧告にもかかわらず,また他の条約体からも強調されているとおり,「国内人権機構の地位に関する原則」(国連総会決議48/134附属文書を参照のこと)に従った,女性の人権の保護及び促進を含む幅広い権限を有する独立した国内人権機構がいまだに設立されていないことは遺憾である。」

 この勧告の中にある「前回の最終見解」は、このページにもあるのだけど、それは、2003年のことだから、勧告する側からすると、もう6年も経つのに、というような怒りに似た気持ちもあるのかもしれない。

 だけど、こうした経緯について、私は全く知らなかった。

 それは、自分の情弱のせいだけではなく、やはり、この情報があまり広く伝わらないのが、日本という国の「人権」の「現在」なのだと思った。

 それは、分かりにくいけれど、やはり怖いことかもしれない。

人権侵犯

 人権侵害、で検索すると、こうした記事が出てくる。

 京都地方法務局が2022年4月、相談に訪れた足の不自由な男性(56)を、30分以上立たせたまま対応したとして、大阪法務局が今年1月「人権侵犯」に当たると認定していたことが関係者への取材で判明した。人権擁護を担う法務局が、別の法務局から調査を受け人権侵害行為を認定される異例の事態となった。

 男性は「座りたい」「相談室を使いたい」と職員に何度か求めたが聞き入れてもらえず、倒れ込んだ段階でようやく椅子を用意された。男性は後日、この対応について人権侵犯の被害を同局に申し入れたが「苦情」として処理されたため、今度は法務省に相談。大阪法務局が調査して今年1月、京都地方法務局の対応が人権侵犯に当たると認定し、男性に通知した。
 これを受け、京都地方法務局の職員は大阪法務局が開いた障害者差別解消法の理解を深める研修を受講した。京都地方法務局は「事実を重く受け止めている。再発防止に努めます」としている。
 ただ、男性によると同局からの謝罪はないままで、取材に「あまりにもひどい扱いで、非常に大きなショックを受けた。人権を守るべき法務局が人権を侵すなんて考えられないし、あってはならないことだ」と憤った。

 普段は「人権侵犯」「人権侵害」を厳密に分けて使っていないことに、こうした記事を読むと改めて気がつくが、どうやら、「人権侵犯」≒「人権侵害行為」ということで、「人権侵犯」を受けることが「人権侵害」の被害を受けた、ということになるようだ。

 ただ、これが報道されたのが2023年の10月だから、「人権侵犯に当たると認定」された2023年1月からもかなりの時間が経っている。そこにどんな事情があったのかはよくわからないけれど、関係者にしてみたら、あまり表沙汰にしたくないことなのは間違いないだろうが、もし、これが隠蔽に近い行為に基づくことだったら、より問題の根が深いと思う。

 同時に、「人権侵害」のことで相談を受けに行った場所で「人権侵犯」が行われるとすれば、法務局の信頼自体が崩壊してしまうし、力になってくれると思った場所で、さらに被害を受けるのは、その被害を受けた当事者の方のショックは、想像以上に大きいと思われるので、こうして広く知られるようになったのは意味があるとは思う。

 ただ、私も検索して初めて知ったし、報道として大きく扱われているわけでもない。

 やはり、人権に関わることを、この社会がそれほど重大と思っていないからではないか、とも感じてしまう。

 ただ、それは自分自身にも言えることで、普段、基本的人権や、人権のことについて、ほとんど考えないし、知らないことに気づく。それは、あまり考えなくてもいい恵まれた立場にいることの影響なのだろうけれど、それが、社会に影響しているから、微力とはいえ、自分の責任でもあるのだと思う。

人権侵害事例

『人権侵害を受けた方へ』 法務省
https://www.moj.go.jp/JINKEN/index_chousa.html#sinpan

 法務省のホームページには、こうして「人権侵害」の被害を受けたと思ったときに、「人権窓口」に相談をして、その救済の措置を受けられる可能性も示されているのだけど、こうした手続きに関して、もうかなりの年齢になったはずなのに、具体的には、ほとんど知らないことにも気がつく。

 本当に恥ずかしいほど、知らないことばかりだ。

 この「人権侵害を受けた方へ」のページには、「人権侵害による被害者の救済事例」が具体的に挙げられている。

 そこには6つの例が挙げられているが、思った以上に身近で、いつ自分や身近な人に関わってくるのか分からないようなことばかりだった。

 そのうちの2例だけだけど、引用する。

事例(1) 高等学校におけるいじめに対する不十分な対応

[相談内容] 高校生である被害者の同級生から、被害者がいじめを受けていることを学校に相談したにもかかわらず、学校が十分な対応を行わないため、いじめが継続している。

[措置内容] 援助
法務局は、学校に対して、本人との面談によるいじめに係る経緯等の確認と解消のための対応を働きかけたところ、生徒に対する見守り体制が構築されるに至った。その後、被害者の状況を確認したところ、いじめは解消し学校で楽しく過ごしているとのことだった。

事例(4) 知的障害のある人に対する遊園地の利用拒否

[相談内容]知的障害のある人が、遊園地において、障害を理由にアトラクションの利用を拒否された。

[措置内容] 調整
法務局が遊園地から事実関係について聴取を行い、併せて障害者差別解消法の趣旨等を説明の上、知的障害者の利用を一律に制限する規定の見直しを促したところ、相手方は利用者の症状を個別に判断し利用の可否を決定するように規定を改正し、後に被害者はアトラクションを利用することができた。

 こうした「被害」にあったとして、警察には行きづらく、ただ、法務省によって、こうした救済措置がされるのであれば、相談もしたくなるものの、こうした場所で、「足の不自由な男性」に対しての人権侵犯のようなことが行われるのであれば、ちょっとどうすればいいのか、分からなくなる。

 それでも、自分の存在の尊厳に関わることは、人権という視点から考えないと、守られないのだろうということはわかってくる。そして、このように「救済措置」を受けられることもわかる。

 ただ、繰り返しになるけれど、恥ずかしながら、本当にほとんど知らなかった。

 そして、それは、言い訳になるかもしれないけれど、自分だけの責任ではなく、あまりにも、こうしたことが周知されていない、もしくは、教育機関において触れられていないという原因もあるのでは、に思いが至る。

『令和4年における「人権侵犯事件」の状況について(概要)』https://www.moj.go.jp/content/001393278.pdf

【令和4年の主な特徴】
1 令和4年において、新規に救済手続を開始した人権侵犯事件の 数は、7,859件、処理した人権侵犯事件の数は、7,627件で あった。
2 学校におけるいじめについて、新規に救済手続を開始した人権 侵犯事件の数は、1,047件であり、全体に占める割合は、13.3%であった。
3インターネット上の人権侵害情報について、新規に救済手続を 開始した人権侵犯事件の数は、1,721件であり、高水準で推移 している。

 この約8000件という数字が、公的機関が扱う事例として、どの程度の多さなのかは不明だけど、これだけの事例に関して、少なくとも救済手続きが開始されているかと思うと、印象から言えば「多い」ように感じる。

 同時に、この数字は、5年ほど前は2万件を超えているのと比べると、かなり少なくなっていて、それはコロナ禍によって、人と人との接触が減少してからではないかという分析もされているから、これから再び、増加することも予測される。

 こうしたことを考えれば、そして、法務局で「人権侵犯」のようなことが行われるのを防ぐためには、意識を変えたり、注意深くあるのは当然だとしても、おそらく、他にも業務が多い、ということも理由の一つとして考えられるのだから、国内に専門の「人権機関」が設置されることは、やはり重要ではないか、という思考になるのは、自然な流れでもある。

 それも、国際社会から、何度も勧告を受けながら、それでも、設置されないのは、どうしてなのだろうか、と改めて考えてみたくなる。

世界人権宣言


『世界人権宣言』 法務省

https://www.moj.go.jp/JINKEN/jinken04_00172.html

 20世紀には,世界を巻き込んだ大戦が二度も起こり,特に第二次世界大戦中においては,特定の人種の迫害,大量虐殺など,人権侵害,人権抑圧が横行しました。このような経験から,人権問題は国際社会全体にかかわる問題であり,人権の保障が世界平和の基礎であるという考え方が主流になってきました。
 そこで,昭和23年(1948年)12月10日,国連第3回総会(パリ)において,「すべての人民とすべての国とが達成すべき共通の基準」として,「世界人権宣言」が採択されました。
 世界人権宣言は,基本的人権尊重の原則を定めたものであり,それ自体が法的拘束力を持つものではありませんが,初めて人権の保障を国際的にうたった画期的なものです。

 こうして世界を巻き込むような戦争という、人権が無視されるような酷い人災を経て、その反省をもとにして「世界人権宣言」が採択されたのだから、それは、言ってみれば、切実な人類の目標のはずだ。

 そして、こうした「世界人権宣言」だけでは実効性を伴うのは難しくなるのは素人でもわかるので、これを規約化したものが、当然ながら存在するようだ。(こうして少しでも調べると、すぐにわかることでもあるのだけど、恥ずかしながら、どこかで聞いた程度の記憶しなかった)

 それが、「国際人権規約」だった。

(『人権外交』 外務省)
https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/kiyaku/index.html#:~:text=国際人権規約は、世界,年に批准しました%E3%80%82

国際人権規約は、世界人権宣言の内容を基礎として、これを条約化したものであり、人権諸条約の中で最も基本的かつ包括的なものです。社会権規約と自由権規約は、1966年の第21回国連総会において採択され、1976年に発効しました。日本は1979年に批准しました。

 国際的に取り決めをして、その条約を批准した、ということは、その規約を実際に国内でも実効性のあるものにしていくことが、当然ながら求められるだろうし、その達成度は、その後の国際社会での信用度に関わってくるのも、予想ができる。

 ところが、どうやら、事実はそんなに単純ではないし、その事実に関して、繰り返しになるけれど、本当に知らなかった。これは、、それだけ周知されていない、ということでもあるはずだ。

日本社会の現状

国際人権規約の活用と個人申立制度の実現を求める宣言

 わが国は、1979年、市民的及び政治的権利に関する国際規約(以下、「国際人権(自由権)規約」という。)を批准し、同規約は、国内法的効力を有するに至った。しかしながら、批准以来17年を経た今日まで、国際人権(自由権)規約が法規範として、司法・行政等の場で機能しているとは言いがたく、国内の人権状況は、刑事手続、被拘禁者の処遇、女性の地位、在日外国人の人権を含む様々な分野において、国際人権(自由権)規約の求める国際人権保障の水準に達していない。

その原因は、第一に、国が国際人権(自由権)規約の周知徹底を怠るなど、同規約によって義務づけられた規約の国内的実施義務を果たしていないことにある。その結果、裁判官ですら、国際人権(自由権)規約の各条項やその適正な解釈についての理解を欠く場合が多いのが実情である。

 この宣言が、日弁連から出されたのが、1996年だから、それからすでに20年以上が経っているのだけど、国内の様々な問題を考えると、「国が国際人権(自由権)規約の周知徹底を怠るなど、同規約によって義務づけられた規約の国内的実施義務を果たしていないことにある」状況は変わっていないようだ。

 国際社会において、できたら、名誉ある地位を得たい、といった願望は、おそらくは、実際に国の運営に関わるようになった人間であったら、誰でも持ちそうなものでありながら、国際基準の規約に対して、あまり重視しないのは、なぜだろうか、と改めて思う。

 ただ、政府がそのような姿勢を、1979年から長く続けているのであれば、この記事の冒頭の、日本のメディアが人権を重視していないのも、どこか当然だと思えるし、人権を重視する、という民主制を採用している現代社会では、ごく常識的と考えられることも、日本社会では、実は「常識」ではないのではないか。

 もしかしたら、(自分自身が実際に人権侵害を受けるようなことがなければ)人権を重視する、という国民の方が、現時点では、少数派になっている可能性すらあるのではないか。

 そんな微妙に怖いことを思うのだけど、もし、その傾向があるとすれば、それは、どうしてなのだろうかを、自分の能力では、とても扱えないと思いながらも、考えてみたくなる。

自民党憲法草案

 自民党が野党だった時代、2012年に、「日本国憲法改正草案」が起草され話題になって、その内容についても、様々に検討もされたが、今もこの「日本国憲法改正草案」が撤回もされていないので、2023年現在でも、少なくとも自民党では、この草案を否定していないということになる。

(「日本国憲法改正草案」)https://www.jimin.jp/policy/policy_topics/pdf/seisaku-109.pdf

 この草案について、その4年後、自民党が政権与党時代に、こうした本も出版されている。

憲法草案、すなわちあたらしい憲法の三原則はつぎの三つです。

一、 国民主権の縮小
一、 戦争放棄の放棄
一、基本的人権の制限  

 この原則だけでも、現在の先進国が採用している民主主義を後退させて、歴史をどこまで逆戻りさせたいのか分からないような、「保守」ともいえない「思想」をもとにしているように思えて、十分に恐い。

 さらには、その草案の、たとえば十三条の微妙な変更については、注意深くないと気がつきにくいが、「個」という一文字を除くだけで、これだけの意味の違いが出てくる、という怖さがあった。

十三条は〈すべて国民は、個人として尊重される〉となっていましたが、憲法草案では〈全ての国民は、人として尊重される〉とあらためられました。
(中略)
「個人として尊重される」といったばあい、ひとりひとりの個性や考えかたのちがいを尊重するという意味です。いっぽう、「人として尊重される」というのは、ひとりひとりの個性や考えかたはどうでもよく、人間としてあつかえばそれでよろしい、という意味です。

 この草案の原則と書かれている「基本的人権の制限」が、自民党として、改正の際には実現したい内容であれば、前出の日弁連の宣言の中にあった「国内の人権状況は、刑事手続、被拘禁者の処遇、女性の地位、在日外国人の人権を含む様々な分野において、国際人権(自由権)規約の求める国際人権保障の水準に達していない」という指摘ももっともだし、これ以上、人権状況が改善される可能性も低くなる。

 こうした分析に対して、根本的な反論もないようなので、「基本的人権の制限」が、自民党の目指す憲法の改正内容の一つだとしたら、実は「人権意識」と言われても、定着していないのが自然な状況なのではないか、とも疑いたくなる。

 いつから、こうした国だったのだろうか?

「基本的人権」については、幸いなことに、個人的には露骨に侵害されたことがほとんどないのは、日本国籍を有する男性であったことが大きくて、もしも、自分がそうした社会的に有利な立場でなければ、人権侵犯される機会も多く、そのことで「基本的人権」が十分に保障されていないことに、もっと早く気がついていたのかもしれない。

 そして、もし知らないままでも、自分がもっと老いて、心身ともに衰えてきたときに、ようやく「基本的人権」が十分に保障されていないような、「人権」の「現在位置」を身にしみて分かるのかもしれない。

 とても微力で未熟とはいえ、「人権」というものが、今、どんなふうに思われているのかを、もう少し考えたい。





(※「後編」へ続きます)。




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