見出し画像

「人権」の「現在地」を確認する。(後編)。

 ラジオ番組で「人権機関」という言葉を聞いて、本当になじみがないことに気がついて、それで少しでも調べると、自分が「先進国」の「民主主義」の社会に生きているのに、「人権」について、どれだけ知らないのかが改めて分かった。

 ただ、それが、自分が勉強不足で無知なだけではなく、日本という社会の環境にも関係があるのではないか、ということを、もう少し考えたいと思った。


啓発と実効性

(法務省「人権週間」)
https://www.moj.go.jp/JINKEN/jinken03.html

 日本国内の人権状況に関わりなく、「人権週間」は毎年設けられている。そして、それは年末になるとやってくる。

 世界人権宣言は、基本的人権尊重の原則を定めたものであり、初めて人権保障の目標ないし基準を国際的にうたった画期的なものです。採択日である12月10日は、「人権デー(Human Rights Day)」と定められています。

 法務省の人権擁護機関では、人権デーを最終日とする1週間(12月4日から12月10日)を「人権週間」と定め、昭和24年(1949年)から毎年、各関係機関及び団体とも協力して、全国的に人権啓発活動を特に強化して行っています。

(「法務省」サイトより)

 こうした「人権啓発活動」は大事だと思うし、こうした活動をしていれば、少なくとも、そうした機関では「人権」が大事にされているはずなのに、それでも、こうした事件↓が起きてしまったのは、「前編」でも触れた。

 こうした事件とは微妙に違うのかもしれないが、似たような出来事が「東京都人権部」が関係して起こっている。

 東京都人権プラザの主催事業として開催されているアーティスト・飯山由貴の企画展「あなたの本当の家を探しにいく」。この展示の附帯事業として上映とトークが予定されていた映像作品《In-Mates》(2021)に対し、東京都人権部が作品上映を禁止する判断を下した。

(「美術手帖」より)

 飯山由貴の作品も、まさに「人権」に関わるテーマを、かなり繊細に扱っているという印象だったのだけれども、それが「人権プラザ」で作品上映を中止されるのは、法務局で人権侵犯される印象と近いように思う。

 啓発をしている側が、その「やってはいけないこと」をやっているように思えるが、どうして、こうなるのかと考えると、自分も、少しでも調べてみて改めて知ったことが多いので偉そうには言えないものの、法務局でも、人権部でも、やはり、「人権を尊重」することが本当に根付いていないせいではないだろうか、と思ってしまう。

 それは、やはり、権力を持つ人たちが、どう考えているのかに関係しているに違いない。

自民党議員の意識

 前編でも触れたが、「自民党憲法改正草案」の基本的な考えの一つに「基本的人権の制限」があるという分析もあるが、それを裏付けるように、この草案が起草された頃、自民党議員の、こうした発言があった。

 驚くべきことに長勢は「国民主権、基本的人権、平和主義」を否定する。とりわけ国民主権と基本的人権は天賦人権説の根幹をなすものだが、これを「無くすべき」と発言したのである。 

(「シニア右翼」より)

 第一次安倍政権で法務大臣を務めた自民党の長勢甚遠は、こうした発言↑をしている。東京大学法学部を卒業しているのに、とは思ってしまう。

 2012年12月6日、自民党の片山さつき参議院議員は自身のツイッターで「国民が権利は天から付与される、義務は果たさなくていいと思ってしまうような天賦人権説をとるのは止めよう、というのが私たちの基本的な考え方です。国があなたに何をしてくれるか、ではなくて国を維持するには自分に何ができるか、を皆が考えるような前文にしました!」と発言した。
 ここでいう「前文」とは自民党憲法草案(当時)のことを指し、「私たち」とは自民党憲法草案メンバー(グループ)を指すものと思われるが、またしても長勢と同様、天賦人権説を完全に否定している。  

(「シニア右翼」より)

 これは、当人たちが「保守」と称しているが、歴史的にみても「人権」を否定するような思想は「保守」とはいえないようだ。

フランス革命から概ね始まるこのような近代の考え方に規定された権利を「天賦人権説」という。つまり「自由・人権・平等」という概念は創造されたのではなく、人間が生まれながらにして保有する天然の権利だとする考え方で、保守主義者もこれを肯定している。

(「シニア右翼」より)

 保守主義の源流とも指摘されるエドモンド・バークも人権を否定していないという。

バークは天賦人権説を否定しているのではなく、あくまで革命の伝統との切断と急進性を危惧したのである。 

(「シニア右翼」より)

 だから、こうした自民党議員の発言は「保守」という思想に基づいたものではなく、人権を否定する、あくまでも「独自」の思想としかいえないものではないだろうか、といったことを、この著者・古谷経衡氏も指摘している。

 どうして、このような思想が出てくるのだろうか。

立憲主義

 憲法とは、権力側に対して守らせるルールということを、ここ何年かの色々な出来事で聞くようになった。それは、憲法学者にとっては、当然のことながら常識になっているようだ。

立憲主義の考え方に立つ憲法は、政治のプロセスがその本来の領分を踏み越えて個々人の良心に任されるべき領域に入り込んだり、政治のプロセスの働き自体を損ねかねない危険な選択をしたりしないよう、あらかじめ選択の幅を制限するというのが、主な役割である。

不毛な憲法改正運動に無駄にエネルギーを注ぐのはやめて、関係する諸団体や諸官庁の利害の調整という、憲法改正論議より面倒で面白くないかも知れないが、より社会の利益に直結する問題の解決に、政治家の方々が時間とコストをかけるようにと、憲法はわざわざ改正が難しくなっている。

(「憲法とは何か」より)

 この書籍自体、憲法が理想を説いているわけではなく、もっと実質的なものであり、当然ながら、長い歴史をもとにしてできてきたシステムといったことも伝えようとしているのだから、こうして部分的に抜き出すことは、あまり良くないことかもしれない。

 それでも、前出の自民党議員の発言自体、現在の民主主義の国であれば、常識でもあるはずの「立憲主義」を理解しているようには思えないことはわかる。(知っていて無視しようとしているのだろうか)。

 その上、どうして、いつも自分たちが権力側にいることを前提に語っているのかも不思議だと思う。もしも、自分たちと敵対する勢力が政権をとった場合、少なくとも基本的人権が保障される憲法でなければ、その時の自分たちも危うくなるはずなのに、そうした想像はないようだ。

 どちらもしても、こうした長勢や片山のような、自民党議員の発言は、それこそ「本音」のようであるし、その後、根本的に改めたという話も聞いた記憶がなく、だから、現在、政権与党が自民党である以上、これからも人権状況が良くなる可能性は、外圧がない限り難しいのだろうと思えてしまう。

人権思想

 現在の「日本国憲法」の第三章 第十一条に、こういう条文がある。

第十一条 国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。

 今でも、「ルールを守れ」と、やたらと言われていて、インターネット上の、いわゆる「炎上要件」に、この言葉はよく聞くような気がする。

それなのに、日本国内で、おそらくはもっとも重要で基本となるルールである「憲法」に関しては、なぜか、とにかく「ルールを守れ」ではなく、前出の自民党議員の発言のように「ルールを守る」よりも「改正する」ばかりを語る人たちは一定数いて、それは「ルールを守れ」といった批判を受けにくい。

 このあたりは、少し不思議でもあるのだけど、この憲法の定めがあるから、わかりにくいのだけど、毎日の生活があるし、そして、この憲法の条文があるから、「人権侵犯」に対して、(その実効性については、場合によって違うかもしれないけれど)、正面から抗議できる。

 だから、自分が尊重されないような状況で、これは「人権を侵害された」というときに初めて、こうした憲法の条文の意味や、有り難さのようなものを感じられるのかもしれない。

きほんてきじんけん【基本的人権】

人が,生まれながらにしてもっていて,だれからもおかされない権利。自由権・社会権・平等権・参政権などに分けられる。◇このほか,最近では環境権や知る権利などの新しい人権が積極的に主張されている。

 この「思想」も、もちろん急に誕生したわけでもなく、そこには「歴史」がある。ただ、それについて、フランス革命、といった大きな単語が頭に浮かぶのだけど、そこから始まったとしても、すでに200年以上の年月がある。

 しかも、その間には、さまざまな大きな事件、さらには、大きな戦争さえあって、その中で生き抜いてきた「思想」であるということは、そこにおそらくは、「こうあってほしい」といった、それこそ命がけの願いが形になったものかもしれない、とも思える。

 維新後の日本に流入したのは、フランス啓蒙思想が説いた自然法の思想であった。これは、教会と王権を否定した後にも確固として存在する「自然」の理法によって、人間社会の構造を説明しなおそうとするもので、フランス革命後ただちに出された『人権宣言』第一条「人間は生まれながらにして自由である」にもっともよく表現されている。人間には自然法的な各種の自由が備わっているとするこの思想は、18世紀後半から19世紀前半にかけての欧米の著作に多かれ少なかれ影響を与え、たとえば上野戦争の際に福沢諭吉が講義を続けたウェーランドの『経済学』にもその影響が見られるという。天賦の人権、ついで国会開設運動と結びついた自由民権という標語は、維新後の日本に流れ込んだ数多くの啓蒙書や教科書を通じて広まったものと思われる。

 日本でさえ、「天賦の人権」という思想が入ってきてから、100年以上になるものの、戦前の日本で、この基本的な人権が保障されていたとは言えない。

 それでも、もしこの「天賦人権説」のようなものを否定するのであれば、この200年以上の歴史に対して、その蓄積をひっくり返せるような強くて緻密な思想をもとにするべきだと思うのだけど、前出の自民党議員のような言動に、申し訳ないのだけど、そんな力は感じない。

 ただ、一般的にも、「人権」の「現在地」は、この自民党議員の発想に近いのかもしれない、という話も聞いたことがある。

人権の臭い

 作家・中村文則が自身のブログに、大学生活の頃からの話を書いている。長くなるが、この時代のある部分が印象的に描かれているので、引用する。

僕の大学入学は一九九六年。既にバブルは崩壊していた。
その大学時代、奇妙な傾向を感じた「一言」があった。

 友人が第二次大戦の日本を美化する発言をし、僕が、当時の軍と財閥の癒着、その利権がアメリカの利権とぶつかった結果の戦争であり、戦争の裏には必ず利権がある、みたいに言い、議論になった。その最後、彼が僕を心底嫌そうに見ながら「お前は人権の臭いがする」と言ったのだった。

 「人権の臭いがする」。言葉として奇妙だが、それより、人権が大事なのは当然と思っていた僕は驚くことになる。問うと彼は「俺は国がやることに反対したりしない。だから国が俺を守るのはわかるけど、国がやることに反対している奴(やつ)らの人権をなぜ国が守らなければならない?」と言ったのだ。

 当時の僕は、こんな人もいるのだな、と思った程度だった。その言葉の恐ろしさをはっきり自覚したのはもっと後のことになる。

派遣のバイトもしたが、そこでは社員が「できない」バイトを見つけいじめていた。では正社員達はみな幸福だったのか? 同じコンビニで働く正社員の男性が、客として家電量販店におり、そこの店員を相手に怒鳴り散らしているのを見たことがあった。コンビニで客から怒鳴られた後、彼は別の店で怒鳴っていたのである。不景気であるほど客は王に近づき、働く者は奴隷に近づいていく。

 その頃バイト仲間に一冊の本を渡された。題は伏せるが右派の本で第二次大戦の日本を美化していた。僕が色々言うと、その彼も僕を嫌そうに見た。そして「お前在日?」と言ったのだった。

 僕は在日でないが、そう言うのも億劫(おっくう)で黙った。彼はそれを認めたと思ったのか、色々言いふらしたらしい。放っておいたが、あの時も「こんな人もいるのだな」と思った程度だった。時代はどんどん格差が広がる傾向にあった。

 僕が小説家になって約一年半後の〇四年、「イラク人質事件」が起きる。三人の日本人がイラクで誘拐され、犯行グループが自衛隊の撤退を要求。あの時、世論は彼らの救出をまず考えると思った。

 なぜなら、それが従来の日本人の姿だったから。自衛隊が撤退するかどうかは難しい問題だが、まずは彼らの命の有無を心配し、その家族達に同情し、何とか救出する手段はないものか憂うだろうと思った。だがバッシングの嵐だった。「国の邪魔をするな」。国が持つ自国民保護の原則も考えず、およそ先進国では考えられない無残な状態を目の当たりにし、僕は先に書いた二人のことを思い出したのだった。

(「中村文則 白夜の炎」より)

 この後編で、前出した自民党議員の発言と、このブログに登場する「二人」の発想は、とても似ている印象がある。

 自民党憲法改正草案は、イラク人質事件よりも8年後のことになるが、こうした「人権の臭い」といった発言をする人が存在するのだから、自民党議員の「人権を否定するような言葉」は、こうした、一般の空気を読んだ可能性もある。

 だから、決して、一部議員の言葉と軽視もできないように思うし、さらに自民党憲法草案が、そうした一般の思想も汲み取って形にしたものにもなっているような気がするから、それだけに、とても根深く、その分、怖さも感じる。

「戦前」と「戦後」

 この傾向は、実は、もっと以前から始まっていると指摘するのは、前出の古谷経衡氏だった。

 「戦前」と「戦後」の連続性については、いろいろなところで指摘はされてきたのだろうけれど、それは専門的で正確なことだけに大きなが流れがつかみにくかった印象がある。

 だからこそ、これだけいい意味で大掴みに提示されたことで、改めてその連続性について、明確になったように思えた。

私としての結論を述べれば、戦前と戦後の日本は、憲法という看板のかけ替えが起こっただけで何も変わっていない。(中略)民主改革は不徹底なまま、戦前の支配者が戦後もまた舞い戻った。所謂「逆コース」である。

アメリカにしてみれば、(中略)日本の経済復興をより急ぐためには、どうしても旧体制の人々を戦後社会の中枢に復帰させるしか道は無かったのである。

書き出すときりがないが、(中略)東條英機内閣で商工大臣を務めた岸信介が自民党総裁となり総理大臣になったのを筆頭として、「作戦の神様」と謳われた陸軍の辻政信は国会議員となり、真珠湾攻撃の立案者とされる海軍の源田実が衆議院議員となり、第6代朝鮮総督で陸軍大将だった宇垣一成も参議院議員になった(全て自民党) 

戦後ドイツではヒトラー内閣で閣僚だったり、ドイツ国防軍で将官や参謀だったりした人が戦後の政権に参画した例は無い。

 意識改革が先行するのではなく、社会の封建的構造が人々の社会意識を規定するのである。この戦前と色濃く連続する社会構造を有する体制こそ、戦後日本の真の姿である。
 戦前の構造が完全に解体されなかったからこそ、人々の意識の中の戦後民主主義も不徹底なまま、弱いまま、未完の状態で終わってしまったのである。

(「シニア右翼」より)

 そうであれば、イラクの人質事件のとき、バッシングをした人たちも、「人権の臭いがする」と発言した若い男性も、実は、そうした日本社会の構造に、より素直だった、というだけなのかもしれない。

基本的人権

 もちろん、「人権の臭いがする」という発言をした青年に対しても、「自由に発言できる」といった、基本的人権が守られているのは間違いない。

 そして、普段は当たり前に維持されていることは、あまり意識もしない。

 本来、民主主義の先進国なら「人権教育」がもっと行われているはずだから、もしそうだったら、こんなに「人権」という言葉に過剰に意味を見出し、もしかしたら特殊な思想ではないか、と思うような人も少ないと思う。


(ところで、古谷経衡氏が、著書の中ですすめていたのですが、保守を考えるのであれば、必読ではないかと思いました)

 
 ただ、当然だけど、フランス革命以来、特に現在「先進国」と言われている国であれば、「保守思想」を持つ人間でも、「基本的人権」を否定したり、制限したりする人間の方が、どうやら特殊らしいというのは、少しわかってきた。

日本国憲法で保障されている基本的人権は、次の4つの権利に分けられます。
· 自由権
· 平等権
· 社会権
· 参政権
それぞれ解説します。

自由権は、自由に生きることが保障される権利です。この権利によって、以下のようなことができます。
· 自由にものを考えられる
· 自由に出版できる
· 自由に発表できる
· 自由に好きな場所に旅行できる

平等権は、以下のようなことに関係なく、全ての人が等しい扱いを受けられる権利です。
· 性別
· 年齢
· 職業
· 出生地

社会権は、人間らしい豊かな生活が保障される権利です。この権利によって、以下のようなことができます。
· 病気などで生活に困った人が支援を受ける
· 無償で義務教育を受ける

参政権は、政治に参加する権利です。選挙権や被選挙権、公務に就く権利などが保障されています。

 どれも、剥奪されたり制限されたら、人生が変わってしまう。それに、想像もできないほどの苦痛を味わうと思う。

 改めてみると、本当に人の基本を支えているものだと感じる。

義務と権利

 義務を果たしてから、権利を主張するべきだ。

 一見正しそうで、「人権の臭いがする」という青年も、こうした主張をしていたようだし、自民党議員も、こうした発言をしていたはずだ。

 だけど、少しでも考えたらわかるけれど、義務が果たせない場合がある。

 生まれたばかりの赤ん坊がそうだし、長生きをして体がうまく動かせなくなることもある。病気になったり、ケガをしたり、本人に全く落ち度がなくても、そういう状況になるのは、誰もが知っていることだと思う。

 だから場合によっては「義務を果たさないと権利を主張してはいけない」という条件がつけば、永遠に権利が認められないことも珍しくなくなる。

 それは、やっぱり不自由で辛く、嫌な世の中だと思う。

 まず基本的人権が保障されていれば、こうして義務が果たせない場合でも、その人の存在が踏みにじられるようなことはない。だけど、もし、基本的人権が制限されたり、認められていない状況では、どのように扱われるかわからなくなる。

 それは、歴史的にも、とても素朴すぎる言い方になるけれど、権力によって力がない人たちが、ひどいめにあってきたから、その暴走を止めるために「憲法」というルールによって歯止めをかけた、ということになるはずだ。あまりにも粗い捉え方だけど、それが「立憲主義」の基本ではないか、と思っている。

 だから、今も普段は意識していないけれど、基本的人権の保障があるからできていることが、もしも基本的人権が制限されたら、途端にできなくなり、そのとき初めて「基本的人権」が保障されている有り難さがわかるのかもしれない。

 自由に考えられなくなったら、とても辛い気がするが、例えば戦争中の国だと、報道を通してでしかわからないけれど、とても自由に発言できるような状況には思えない。

 私自身は、人権のことを、あまり理解していないのかもしれないが、やはり「基本的人権」は守られてほしい。それは、本来ならば、特殊な思想ではなく、現在の憲法の下では、ごく普通の考えなのが改めてわかる。

 基本的人権が制限されるようなことになったら、その時こそ、現在の国際基準だと「先進国」ではなくなるのだと思う。

行き過ぎた「個人主義」

 時々、主に政治家や、もしくは、社会的に力を持つ人から、「行き過ぎた個人主義」という言葉が聞かれることがあった。それは、政治的な意味合いの前に、発言する人の、「人をコントロールしたい欲望」のあらわれのように思うこともあった。


(このブログ↓では、どんな人が「行き過ぎた個人主義」という言葉を使ってきたかをまとめてくれています)

 
それを聞くたびに、違和感が強めに出たのは、「個人主義」が行き過ぎた状況に遭遇した記憶がないからだった。

地毛を黒髪に強制的に染髪させるというような傷害行為の疑いがあるもの

地毛証明を提出させるなど個人の尊厳を損なうもの

水飲み禁止など 生命の危機・健康を損ねること

下着の色の指定とそのチェックなどハラスメント行為

「行き過ぎた個人主義」が、本当に日本社会に浸透しているならば、どうして、このような「校則」が今もあって、実効力を持っているのだろうか?

 精神障害者の家族でいると、いやでも直面することがある。
 妻の病気を周囲の人に打ち明けると、「もっと厳しくしないからだ」と見当違いの説教をされる。「閉鎖病棟に閉じ込めておけばいい」と平然と言う人もいる。身体の病気やけがで医療にかかれば露骨に嫌な顔をされ、ときには治療を拒まれる。

 こうした場面↑では、「行き過ぎた個人主義」の影すらなく、ここでは厳密に言えば「人権侵犯」が行われているといってもいい。今もこうした社会なのに、どうして「行き過ぎた個人主義」などと、ありもしないことが言われるのだろうか。

「憲法13条は『個人の尊重』を定めていますが、個人の尊重を利己主義と誤解しているのです。戦後の改憲論議で繰り返されてきたのが、日本国憲法が行き過ぎた個人主義という風潮を生んできたという保守層からの批判でした。それは2012年の自民党の憲法草案が、『個人』を『人』に書き換えていることにも表れています」

「つまり、55年体制以降の長期保守政権が、憲法とその人権規定を尊重しない改憲論の立場をとり、国内人権機関や小学校などでの人権教育の制度化を怠ってきたことに原因があるのではないでしょうか。道徳と人権が混同され、個人尊重主義が利己主義と誤解される傾向とあいまって、十分な人権論議や人権教育の場が確保されない状態が続いてきたと考えています」

「行きすぎた個人主義」というのは、利己主義のことを指すようなのだけど、憲法改正、という動機のために、道徳と憲法の混同はあえてしているのだろうか。そうであれば、「行きすぎた個人主義」というのは、「憲法改正」という目的のためにつくられた「存在しない敵」という可能性はないのだろうか。

「世間」のルール

 ただ、確かに「世間」という視点から見たら、「行き過ぎた個人主義」という発言も、それほどおかしくないのかもしれない。

「世間」とよばれる人間関係は、どこの国や地域においても普遍的に存在するものだと思われるかもしれない。しかし、とくに現在の西欧との比較においては、日本特有のものであり、おそらくお隣の韓国や中国にも存在しない。 

「世間」では、権利とか人権という西欧近代に形成された理念は、まったく通用しない。つまりここでは、伝統的な「世間」のルールのほうが、近代的な法概念を凌駕している。

 Rightには「権利」という意味のほかに「正しい」という意味がある。つまり少なくとも英語圏では、権利をもつことは正しいということになる。
 しかし、「世間」のなかでは個人がいないために、個人の権利も存在しない。「権利だけ主張しないでください」というセリフでは、権利が悪い意味でつかわれていて、権利=正しいという本来の意味がどっかにふっとんでいる。いまでも、英語圏でつかわれている意味での権利は存在しないのだ。 

今後「世間」がなくなることがあるかのかを考えてみると、おそらくほとんど期待できそうにない。 

(「なぜ日本人は世間と寝たがるのか」より)

 この著者は「世間学」の研究者という側面があり、今も、日本の中で、人々を最も強力に抑圧しているのが「世間」である、という分析をしていて、それは、とても説得力がある。

 同時に、ここで語られている「世間」の理屈は、ここまで挙げてきた自民党の政治家の発想ととても似ていることに気がつく。

 そうであれば、「世間」に支配された国で、その「世間」のルールに精通する人たちが、長く与党であるのも自然なことのようにすら思えてくるが、これは言い過ぎだろうか。

 そして、当然のことながら、「行き過ぎた個人主義」と口にする人たちには、「基本的人権」の意味も見えていないと思う。

基本的人権の「自主規制」

 ただ、「行き過ぎた個人主義」という言葉が長年使われ続け、その言葉が本当に具体化されているのかもしれない、と思えたのは、今年になって「教育と愛国」の上映会とトークショーを見てからのことだった。

 映画の内容は、2006年に教育基本法が改正されたあと、やはり以前よりも政治が教育に介入したような状況になっているのではないか、という印象だったが、それよりも怖さを感じたのは、そのあとのトークショーでの、現在の教育現場でのエピソードだった。

学校では、「平和」という言葉が使いにくくなっている。平和憲法、というような言葉でも、政治的な意味があるなどと言われてしまう。

道徳が教科になったけれど、そこに通底するのが、自己責任論のように見える。

今は、とにかくルールを守れ、和を乱すな、という教育になっていて、そのルールが本当に妥当なのか、と検討するような発想は尊重されない。

そういった教育のためなのか、大学生が、自分の意見を言うことに慣れていないように見える。周りに合わせることばかりが、体に染み付いているのではないか。

社会の先生が、社会のことを語れなくなっている。政治的公平性、といったことばかりを言われ過ぎて、投票に行ってもいいんでしょうか?という質問が若い教師から出るくらいになっている。

 そこで話された事柄は、教育の現場では、すでに「基本的人権の制限」がなされていて、その結果、そこにいる人たちは(学生も含めて)、そのことを内面化し、その結果、まるで「基本的人権の自主規制」が行われているようにも思えた。

 やっぱり、それは反射的に怖いと思えることだった。

「人権思想」の二重構造

 こうした道徳と憲法を混同した「行き過ぎた個人主義」という批判ではなく、民主主義自体を、正面から思想的に批判し続けている人もいる。

 例えば、「基本的人権」も、生まれながらに誰もが持っている権利という天賦人権説がある一方で、「基本的人権」という権利は、憲法で保障されたルールという見方もあるということについて、著者は、こう指摘している。

 ここに奇怪な「二重構造」があることが分かるはずだ。教育程度の低い一般民衆には人権思想は不易の真理であると教え、高度な教育を受けるエリート青年には人権思想は人工的なイデオロギーにすぎないと教える、という二重構造である。
 こうした二重構造は、戦前の侵略主義・軍国主義の基盤となった天皇制イデオロギーにも存在する。  

 そして、このようにも述べている。それは、考えてみれば、当然のことかもしれないと思える視点だった。

人権なるものが存在しうるとすれば、それは他のさまざまな権利がそうであるのと同じように、「取り決め」、すなわち制度として存在しうるにすぎない。 

 さらには、民主主義そのものへの言及もある。

(文部省教科書「民主主義」が70年ぶりに角川ソフィア文庫で復刊された。その中には民主主義の弱点も指摘している)
「要するに、有権者ひとりひとりが賢明にならなければ、民主主義はうまくゆかない」
 その通りだ。そして、有権者ひとりひとりが賢明になる社会など永遠に来ないのである。今世紀に入って衆愚社会論が公然と語られるようになった。そういう時代に我々は生きている。

(「バカに唾をかけろ」より)


 実は、民主主義の、こうした限界を踏まえて、それを体現しているのが、現在のドイツなのかもしれない。

頻繁に憲法改正を行う柔らかいドイツ憲法でも、改正できない条文がある。いわゆる「永久条項」と呼ばれるもので、憲法改正の限界を憲法自身が条文で明記している。

《第79条(基本権の改正)③この基本権の変更によって、連邦の諸ラントへの編成、立法に際しての諸ラントの原則的協働、又は第1条及び第20条に記録された基本原則に抵触することは、許されない》

 ここで注目して欲しいのは第1条だ。

《第1条(人間の尊厳、人権、基本権による拘束)①人間の尊厳は不可侵である。これを尊重し、かつ、保護することは、すべての国家権力の義務である。②ドイツ国民は、それゆえ、世界におけるあらゆる人間共同体、平和及び正義の基礎として、不可侵かつ不可譲の人権に対する信念を表明する。③以下の基本権は、直接に適用される法として、立法、執行権、裁判を拘束する》

 憲法改正ができない、というのは、民主的な原理から言えば矛盾しているけれど、過去のことを反省し、おそらくは「有権者ひとりひとりが賢明になる社会など永遠に来ない」を覚悟を持って前提としなければ、どんな時でも基本的人権は守る、という取り決めはできないと思う。

 こうした国が存在する以上、日本が、こうした選択をするのも不可能ではないはずだ。

「人権」の「現在位置」

 今回、この記事を「前編」と「後編」まで使って書いたのは、「人権機関」という言葉を恥ずかしながら知らなくて、それで、「人権」の「現在地」は、どうなっているのだろう?と思って、少しでも調べて、考えてみたくなったからだ。

 そうしたら、歴史的にみても、日本の場合は「戦前」と「戦後」がかなり接続しているといっていい状況がある、という見方も改めて知り、そこに説得力を感じ、そういうことであれば、「人権」について、本当に根付いているわけもなく、だから、「人権機関」ができる可能性は、現時点では、とても低いことを、納得させられた気がした。

 その上、「人権」が語られるときに必ず出てくる「天賦人権論」も、改めて考え直した方がいいのかもしれない、という「二重構造」への指摘もあった。

人間は生まれながらにして自由平等であり、幸福追求する権利があるという思想ルソーミルをはじめとするフランスやイギリスの啓蒙思想家あるいは自然法学者らによって主張された。明治維新後、日本に紹介され、明治前期の自由民権運動の理論的支柱となった。

 この思想は、ある意味では純粋で、理想的な響きもあり、だからこそ、人を熱狂にも導けたのだとは思うし、私のような無知な人間が簡単に疑問を持ったり、ましてや否定できることではないと思う。

 ただ、この思想は、権力によって否定されると、とても弱い部分があるようだ。それは、自民党の議員が、Twitter上での発言であっても、生まれながらにある権利として考えないようにしたいという指摘は、実は、弱点をついている、と言ってもいいのではないか、と思えてくる。

「基本的人権」に関しては、21世紀の現時点では、「先進国首脳会議」に参加している国でありながら、国際人権規約の批准をしていながら、その実効性に関して、国際人権委員会の再三の勧告にも、それに対応するような対策をとっていない。

 つまりは、「人権」について、日本という国では、それが保障されている憲法を持ちながらも、今も十分に保障されているかどうかも定かではない。

 そして、その「基本的人権を尊重するという意識」は、おそらくは日本に住んでいる多くの人にとっては、それほど大事なことではない。それは、自分自身が、調べる前は、「人権」について無知であったし、関心も持てていないことが、証明しているように思う。(少し調べ、考えたくらいでは、まだ足りないとしても)。

 だから、まず、今の状況は「人権」という視点から見たら、日本は、完全に遅れているどころか、逆コースをたどりかねない危うい状況にある。

 まず、それを認めて、そこから始めるしかないのだと思う。

これからのこと

 現時点で、基本的人権が認められている世の中に生きてきて、それは、普段は意識していないけれど、もしも、それが制限された社会になったら、とても苦痛であろうことは、予想がつく。

 そうであれば、「天賦人権説」が、現在の日本で共有できるとは限らないので、基本的人権は取り決めに過ぎない、という前提に立ち、だからこそ、憲法を守ることを改めて決意し、特に、その基本的人権について保障されている条文については変えないことを国民として希望し続けた方がいい。(今のところ、どうすればいいのかは、よくわからないけれど)

 個人的には、それほど意識が高く行動をすることは、これからもできないし、「基本的人権」について、ずっと考えていくことも難しいと思うのだけど、「基本的人権」が、今も決して盤石ではないこと。それに、黙っているだけで、社会的に力を持っている側の人が、親切にも保障してくれるわけではないことは、意識した方がいいのかもしれない。

 公的介護保障制度には、地方自治体によって大きな地域間の格差があります。なぜかというと、自治体の財政状況や、福祉に対する理解度によって大きく異なるのに加えて、その地域に住む障害者たちが、自ら声を上げて、行政と粘り強い交渉を行っている地域ほど制度が充実し、そうでない地域は遅れるという現実があるからです。 

 駅にエレベーターがついたのは〝自然の流れ〟でそうなったわけでも、鉄道会社や行政の〝思いやり〟でできたわけでもありません。
 30年以上にわたる障害者の絶えざる要求と運動によって、ようやく実現しました。


 「基本的人権」は、この国ではとても脆弱で、かなり危うい根付き方で、油断をすると、気を抜いたら制限されるような状況で、私のように「基本的人権」への関心もそれほど高くない人間が(おそらく)ほとんどなのが「現在位置」だと思う。

 それでも、これから、「基本的人権」は、単なる取り決めで、現状では憲法によって、ようやく守られている人工的なものだという自覚と覚悟を持つことからは、始められると思う。

変化

 最近、旧ジャニーズ事務所の性暴力の問題で、思った以上にスポンサー企業が素早い対応をした。

大手企業が契約を打ち切ったのは、株主、東京証券取引所に上場する企業の株式の30.1%(2023年3月末)を保有する外国人株主を意識した判断です。外国人株主、とくに欧米の機関投資家は、「人権問題」を非常に重視しています。

重大な人権侵害をした創業者の名を冠する「ジャニーズ事務所」との契約を続けると、企業は外国人株主から「人権問題に甘い企業」と烙印を押されて、株価が下落するとともに、欧米での事業展開や株主総会運営に支障が出ることが確実です。

 江戸末期以来、変わる時は、ずっと「外圧」なのが、日本という国だった。

 そればかりに頼るような状況自体は、あまりいいことではないけれど、「人権問題」も、外からの視線や圧力が、今後も影響するのは間違いないようだし、これ自体は、ここのところはあまりなかった「変化」だとも思う。




(他にも、いろいろと書いています↓。よろしかったら、読んでもらえたら、うれしいです)。




#人権   #基本的人権   #世界人権宣言
#国際人権規約 #自民党憲法草案 #民主主義
#ウェルビーイングのために   #多様性を考える
#ニュースからの学び   #社会 #人権侵犯
#人権侵害   #毎日投稿  #最近の学び

この記事が参加している募集

最近の学び

多様性を考える

記事を読んでいただき、ありがとうございました。もし、面白かったり、役に立ったのであれば、サポートをお願いできたら、有り難く思います。より良い文章を書こうとする試みを、続けるための力になります。