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「経済学者も、民主主義を信じすぎていないだろうか?」(前編)

 経済学者は、いろいろな人がいるけれど、どうも信じられないような気がするのは、どこか予言者的に振る舞っているように見えるからだけど、テレビで紹介されていた経済学者は、経済破綻をした後のギリシャを、財務大臣として建て直したと言われる「実践」をした人だったから、信じられるように思った。

 だから、よけいにその人の本を読もうとした。

 それもありがたいことに、「分かりやすい」内容らしかった。

『父が娘に語る 美しく、深く、壮大で、とんでもなくわかりやすい経済の話』  ヤニス・バルファキス

 実際に「娘」がいるらしいので、仕方がないとは思うのだけど、こうした「分かりやすい」というタイトルだと、「父が娘に教える」パターンが多いことは、ちょっと気になるものの、確かに、経済がとても遠いものとして語られていないし、長い歴史から触れられてもいる。

人類が農耕を「発明」したことは、本当に歴史的な事件だった。1万2000年経ったいま、振り返ってみるとその大切さがよくわかる。それは、人類が自然の恵みだけに頼らずに生きていけるようになった瞬間だった。

農作物の生産によって、はじめて本物の経済の基本になる要素が生まれた。それが「余剰」だ。 

 そう考えれば、「経済」の歴史は思った以上に古く、「文字」「宗教」も、その「余剰」と深く関係があることも示されている。「文字」は、「余剰」を記録するために生まれたと主張されているし、「宗教」も「権力」と「余剰」に関係している、という。

 では、支配者たちはどうやって、自分たちのいいように余剰を手に入れながら、庶民に反乱を起こさせずに、権力を維持していたのだろう?
「支配者だけが国を支配する権利を持っている」と、庶民に固く信じさせればいい。自分たちが生きている世界こそが最高なのだという考えを植えつければいい。すべてが運命によって決まっているのだと思わせればいい。(中略)
 その時代は、余剰が全員に行きわたるほど多くはなかったので、食べ物をほんの少ししかもらえない庶民がいつ反乱を起こしてもおかしくなかった。宗教の裏付けがなければ、支配者の権威は安定しなかった。だから、何千年にもわたって、国家と宗教は一体となってきたのだ。  

国家はいつも金持ちに役立つ保険を与えてきた。そして金持ちはあの手この手でそうしたコストの負担を避けてきた。

 そんな長い構造的な「歴史」があるのなら、「支配者」でも「権力者」でも「金持ち」でもない私のような人間には、「経済」を、こうして少しでも知ると、未来に対して、元々絶望的だったのに、さらに絶望を重ねるようなことにしかならないのだろうか、と思う。

経営者の夢は、どの企業よりも先に労働者を完全にロボットに置き換えて、利益と力を独占し、ライバル企業の労働者に自分たちの製品を売りつけることだ。(中略)マトリックスのような社会が待っていることを、私は恐れている。しかしその社会を支配するのは機械ではなく、カネと力のある巨大テクノロジー企業の経営陣だ。

経済の専門家

 さらには、経済の専門家、という存在に対しては、同業者でありながら、かなり厳しい見方をしている。

 経済理論や数学を学べば学ぶほど、一流大学の専門家やテレビの経済評論家や銀行家や財務官僚がまったく見当はずれだってことがわかってきた。
 一流の学者は見事な経済モデルをつくっていたが、そうしたモデルはこの本に書いたような現実の労働者やおカネや借金を勘定を入れていない。だから市場社会では役に立たない。
 二流の経済評論家たちは、自分が崇める一流の経済学者のモデルを理解していないばかりか、自分の無知を気にもとめていないようだった。
 そんな「専門家」の話を聞くにつけ、彼らが大昔の占い師のように思えてきた。

 特定の誰、というわけではないけれど、それは、国が違って、時代が変わっても、経済理論や数学を学んでいなくても、経済の専門家」を自称する人たちに対して、それに近い印象は抱いてきた。

 経済予測が間違うといつも、そもそも最初から間違っているその迷信のような考え方によって間違いを説明する。そして、たまに新しい考え方が出てきて、最初の間違いが説明される。
 たとえば「自然失業率」という考え方は、市場社会が完全雇用を実現できない理由をうまく説明するためにつくられた概念だ。そして、専門家がそれをきちんと説明できない理由をうまく説明するためにつくられた概念でもある。
 もっと一般的に言うと、失業と不況は競争不足が原因だとされてきた。そこで「規制緩和」によって競争を促進することが解決策だとされている。銀行家や支配層を政府のしがらみから解放するのが規制緩和だ。この規制緩和がうまくいかない場合には、民営化によって競争が促進されるという。民営化でもうまくいかない場合には、労働市場が問題だとされる。組合の干渉や福祉という足かせを取り除けばいいとされる。そんな説明が終わりなく続いていく。 

 そうした光景には、なじみがある。今も、見続けているように思う。だけど、それは、未来に対して、ただ、光の照度を落とすだけの事実のように思える。

 私が次のようなことを言うと、仲間の経済学者はもちろん腹を立てる。
「経済学者も星占い師みたいに科学者のふりをし続けてもいいのかもしれない。だが、経済学者はどちらかというと科学者ではなく、どれほど賢く理性的であっても人生の意味を確実に知ることはできない哲学者のようなものだと認めたほうがいいのでは?」
 しかし、経済学者がせいぜい世慣れた哲学者のようなものだと白状してしまったら、もはや市場社会を支配する人たちは経済学者を歓迎してはくれなくなるだろう。彼らの正当性は、経済学者が科学者のふりをすることで担保されているのだから。

 では、どうすればいいのだろうか?

「民主主義」という処方せん

 著者は、ここで「民主化」という概念を出してくる。

この本で見てきたように、経済についての決定は、世の中の些細なことから重大なことまで、すべてに影響する。経済を学者にまかせるのは、中世の人が自分の命運を神学者や教会や異端審問官にまかせていたのと同じだ。つまり、最悪のやり方なのだ。

 確かに、この本を読んでいくと、「経済」がすべてを支配しているようにさえ思えてくるし、それが「権力」と強く結びつき、格差は広がり、この状態を促進するのが「経済」のように感じ、だから、諦めそうになるけれど、それではダメだとも言っている。

 そのことは、「訳者あとがき」に、わかりやすくまとめてくれている。

バルファキスは本書で、「誰もが経済についてしっかりと意見を言えること」が「真の民主主義の前提」であり、「専門家に経済をゆだねることは、自分にとって大切な判断をすべて他人にまかせてしまうこと」だと言っています。

(「訳者あとがき」より)

 そして、これからどうすればいいのか?というテーマになると、「民主主義」につながっていく。

 権力者が好きなのは「すべての商品化」だ。世界の問題を解決するには、労働力と土地と機械と環境の商品化を加速し広めるしかない、と彼らは言う。
 反対に、僕がこの本を通じて主張してきたのが「すべての民主化」だ。

  その一例として、こんな話もあげられている。

 すべての人に恩恵をもたらすような機械の使い方について、ひとつアイデアを挙げてみよう。
 簡単に言うと、企業が所有する機械の一部を、すべての人で共有し、その恩恵も共有するというやり方だ。たとえば機械が生み出す利益の一定割合を共通のファンドに入れて、すべての人に等しく分配してみてはどうだろう?それが人類の歴史をどんな方向に変えていくか、考えてみてほしい。 

 これは、民主主義のさらに進んだ形と言われていた「共産主義」のようにも見え、その「共産主義」は失敗に終わったはずだけど、どちらにしても、そんなに民主主義を信じていいのだろうか。

21世紀の資本

 個人的には、ここ20年でも、最も重要な経済に関する書籍↑だと思うのは、ここ200年以上の資料を可能な限り調査した上で、記した本だからだ。

 これまで、経済の専門家は、自分なりの根拠や理論をもとに、ずっと未来の予測をする行為を繰り返してきたように見えていたから、信じることが難しかった。

 だから、「21世紀の資本」のピケティのように過去の事実を元にして、実証的に調査・分析した上での結論を出した経済学者が存在することを初めて知り、しかも、その結論は、資本主義の基本構造が、元々格差を生むというように読めた。

 それは、「r>g」という数式を明らかにしたからだ。

この不等式が意味することは、資産 (資本) によって得られる富、つまり資産運用により得られる富は、労働によって得られる富よりも成長が早いということだ。言い換えれば「裕福な人 (資産を持っている人) はより裕福になり、労働でしか富を得られない人は相対的にいつまでも裕福になれない」というわけだ。

(「大和ネクスト銀行」おすすめコラムより)

 この記事自体は、だから、投資を考えた方がいい、といった結論になっていくのだけど、私にとっては、「21世紀の資本」を読み、その分厚さと、難しさで理解が足りないのではないか、と思っていたことが、やはり、基本的には間違っていない、といったことを確認するためにも、この引用部分は重要だった。

格差は現在も拡大に向かっており、やがては中産階級が消滅すると考えられる。この不均衡を是正するためには、累進課税型の財産税や所得税を設け、タックス・ヘイブンへ資産を逃がさないように国際社会が連携すればよいというのがピケティ氏のアイデアだ。

(「大和ネクスト銀行」おすすめコラムより)

民主主義への信頼

 「21世紀の資本」が2014年に和訳されたあとは、ブームのように、こうしてあちこちのメディアで、ピケティを見る機会が多かったのだけど、そのうちにその回数が急速に減った気がした。

 それは、もしかしたら現代の「支配者層」に都合が悪い事実だから、あまり広く、長く取り上げられなくなったのだろうか、といった「陰謀論」のようなことを思ってしまうほど、その重要度に比べて、その広がりが十分ではないように感じていた。

 何の番組で見たのかははっきりと覚えていないのだけど、この格差が広がる構造を持った資本主義に対して、どうしていったらいいでしょうか、といった質問をされたとき、ピケティの答えも、民主主義の力を信じる、といったことだったように記憶している。

 この言い方の細かいところは違っているかもしれないが、そこで資本主義の足りない点、いきすぎるところに関して、民主主義で対抗する、みたいなニュアンスは確かにあったようだった。

 経済学者、それも現状に対して批評的に、もしくは批判的に考えている人も、どうして、そんなに民主主義を信じているのだろう、と思ってしまった。

民主主義の理想と現実

エイブラハム・リンカーン大統領が、「人民の、人民による人民のための政治」というフレーズで有名な「ゲティスバーグ演説」を行った。

 おそらく、このリンカーンの言葉が、民主主義の「定義」であり(そうだとしたら、かなり曖昧だけど)、もしかしたら「理想」なのかもしれない。

 それから年月が経って、現在の日本では、間接民主主義を採用していて、戦後は、成人した人に対して、性別を問わず選挙権があるので、民主主義としては、かなり「正しいシステム」を採用しているはずだ。

 今の、日本の与党は「自民党」で、正式名称は「自由民主党」で、民主主義の大事な要素だけでできている政党名だけど、それが皮肉に思えるほど、「差別的」な発言を繰り返す議員を入閣させる政党でもある。

 また、コロナ禍で、さらに格差が広がる危険性に対して、「人民のために」何か対策をうっているようにも見えない。

「リーマンショックのときも非正規労働者は真っ先に被害に遭いました。それが、再び繰り返されているということです。政府や企業がリーマンショックから何も学ばず、非正規労働者の身分保障を一切してこなかった、議論が全然進んでこなかった。それが露呈していると言っていいでしょう」

 それでも、今の日本は、バルファキスや、ピケティが「信頼」している民主主義を採用しているのは間違いないのに、このままだと、経済格差が縮小したりといった「好転」する要素が見出せない。

 リンカーンの言葉に戻れば「人民の、人民による」政治にとどまっていて、「人民のための」政治になっていないということなのだと思う。

 だけど、それは私が単に何か重要なことが見えていないだけなのだろうか。それともシンプルに、理解が足りていないのだろうか。

 そうなると、ここ何年かでよく聞くようになった「ポピュリズム」のことを考えなくてはいけないのだろうか。

ポピュリズム

ある政治問題に対して一定以上の見識があり、冷静で合理的な判断を下すことのできる国民よりも、一時的な感情や空気によって政治的態度を決めてしまう大衆の意思を重視し、そんな人々の支持を集めるやり方で政治的基盤を作り上げる手法をポピュリズムということが多いです。

 この定義自体は分かりやすいが、さらに、こうしたイタンビュー↓を読むと、もう少し複雑なのかもしれない、とは思う。

 本に詳しく書きましたように、現代のポピュリズムは反デモクラシーとは言えません。むしろ、グローバル化やヨーロッパ統合といった、エリートが民衆の意見を無視して一方的に進める動きへの反発が根底にあります。それがヨーロッパの多くの国のように右派ポピュリズムとなることもあれば、スペインのように左派ポピュリズムの形をとることもある。
 また歴史をたどれば、南北アメリカいずれにおいてもそうであったように、ポピュリズムには、「権力を独占するエリートに対する民衆の解放運動」という側面がありました。その点でも、「ポピュリズムはデモクラシーを脅かす害悪だ」と一方的に断ずることには慎重であったほうがいい。ポピュリズムは両義的な存在だと思います。


 比較的シンプルに言ったとしても、また、歴史を踏まえて両義的な意味があると理解したとしても、どちらにしても、「ポピュリズム」は、オーソドックスな「民主主義」もしくは「あるべき民主主義」とは違う、というような見方になっているように思う。


 ただ、個人的には、「民主主義」と「ポピュリズム」は、同じなのではないか、という印象がある。

 違いがあるとすれば、選挙の結果が予想に反して、もしくは、冷静さよりも熱狂が重視され、知識階級から見て「望ましくない選挙結果」になった時だけ、(たとえば、アメリカがトランプ大統領を選んだ時のように)「ポピュリズム」と呼ばれるだけではないか、とも思っている。



(※さらに、経済と民主主義について、もう少し考えるために「後編」に続きます)。




(他にも、いろいろと考えています↓。よろしかったら、読んでもらえたら、うれしいです)。




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