「経済学者も、民主主義を信じすぎていないだろうか?」(前編)
経済学者は、いろいろな人がいるけれど、どうも信じられないような気がするのは、どこか予言者的に振る舞っているように見えるからだけど、テレビで紹介されていた経済学者は、経済破綻をした後のギリシャを、財務大臣として建て直したと言われる「実践」をした人だったから、信じられるように思った。
だから、よけいにその人の本を読もうとした。
それもありがたいことに、「分かりやすい」内容らしかった。
『父が娘に語る 美しく、深く、壮大で、とんでもなくわかりやすい経済の話』 ヤニス・バルファキス
実際に「娘」がいるらしいので、仕方がないとは思うのだけど、こうした「分かりやすい」というタイトルだと、「父が娘に教える」パターンが多いことは、ちょっと気になるものの、確かに、経済がとても遠いものとして語られていないし、長い歴史から触れられてもいる。
そう考えれば、「経済」の歴史は思った以上に古く、「文字」も「宗教」も、その「余剰」と深く関係があることも示されている。「文字」は、「余剰」を記録するために生まれたと主張されているし、「宗教」も「権力」と「余剰」に関係している、という。
そんな長い構造的な「歴史」があるのなら、「支配者」でも「権力者」でも「金持ち」でもない私のような人間には、「経済」を、こうして少しでも知ると、未来に対して、元々絶望的だったのに、さらに絶望を重ねるようなことにしかならないのだろうか、と思う。
経済の専門家
さらには、経済の専門家、という存在に対しては、同業者でありながら、かなり厳しい見方をしている。
特定の誰、というわけではないけれど、それは、国が違って、時代が変わっても、経済理論や数学を学んでいなくても、「経済の専門家」を自称する人たちに対して、それに近い印象は抱いてきた。
そうした光景には、なじみがある。今も、見続けているように思う。だけど、それは、未来に対して、ただ、光の照度を落とすだけの事実のように思える。
では、どうすればいいのだろうか?
「民主主義」という処方せん
著者は、ここで「民主化」という概念を出してくる。
確かに、この本を読んでいくと、「経済」がすべてを支配しているようにさえ思えてくるし、それが「権力」と強く結びつき、格差は広がり、この状態を促進するのが「経済」のように感じ、だから、諦めそうになるけれど、それではダメだとも言っている。
そのことは、「訳者あとがき」に、わかりやすくまとめてくれている。
そして、これからどうすればいいのか?というテーマになると、「民主主義」につながっていく。
その一例として、こんな話もあげられている。
これは、民主主義のさらに進んだ形と言われていた「共産主義」のようにも見え、その「共産主義」は失敗に終わったはずだけど、どちらにしても、そんなに民主主義を信じていいのだろうか。
21世紀の資本
個人的には、ここ20年でも、最も重要な経済に関する書籍↑だと思うのは、ここ200年以上の資料を可能な限り調査した上で、記した本だからだ。
これまで、経済の専門家は、自分なりの根拠や理論をもとに、ずっと未来の予測をする行為を繰り返してきたように見えていたから、信じることが難しかった。
だから、「21世紀の資本」のピケティのように過去の事実を元にして、実証的に調査・分析した上での結論を出した経済学者が存在することを初めて知り、しかも、その結論は、資本主義の基本構造が、元々格差を生むというように読めた。
それは、「r>g」という数式を明らかにしたからだ。
この記事自体は、だから、投資を考えた方がいい、といった結論になっていくのだけど、私にとっては、「21世紀の資本」を読み、その分厚さと、難しさで理解が足りないのではないか、と思っていたことが、やはり、基本的には間違っていない、といったことを確認するためにも、この引用部分は重要だった。
民主主義への信頼
「21世紀の資本」が2014年に和訳されたあとは、ブームのように、こうしてあちこちのメディアで、ピケティを見る機会が多かったのだけど、そのうちにその回数が急速に減った気がした。
それは、もしかしたら現代の「支配者層」に都合が悪い事実だから、あまり広く、長く取り上げられなくなったのだろうか、といった「陰謀論」のようなことを思ってしまうほど、その重要度に比べて、その広がりが十分ではないように感じていた。
何の番組で見たのかははっきりと覚えていないのだけど、この格差が広がる構造を持った資本主義に対して、どうしていったらいいでしょうか、といった質問をされたとき、ピケティの答えも、民主主義の力を信じる、といったことだったように記憶している。
この言い方の細かいところは違っているかもしれないが、そこで資本主義の足りない点、いきすぎるところに関して、民主主義で対抗する、みたいなニュアンスは確かにあったようだった。
経済学者、それも現状に対して批評的に、もしくは批判的に考えている人も、どうして、そんなに民主主義を信じているのだろう、と思ってしまった。
民主主義の理想と現実
おそらく、このリンカーンの言葉が、民主主義の「定義」であり(そうだとしたら、かなり曖昧だけど)、もしかしたら「理想」なのかもしれない。
それから年月が経って、現在の日本では、間接民主主義を採用していて、戦後は、成人した人に対して、性別を問わず選挙権があるので、民主主義としては、かなり「正しいシステム」を採用しているはずだ。
今の、日本の与党は「自民党」で、正式名称は「自由民主党」で、民主主義の大事な要素だけでできている政党名だけど、それが皮肉に思えるほど、「差別的」な発言を繰り返す議員を入閣させる政党でもある。
また、コロナ禍で、さらに格差が広がる危険性に対して、「人民のために」何か対策をうっているようにも見えない。
それでも、今の日本は、バルファキスや、ピケティが「信頼」している民主主義を採用しているのは間違いないのに、このままだと、経済格差が縮小したりといった「好転」する要素が見出せない。
リンカーンの言葉に戻れば「人民の、人民による」政治にとどまっていて、「人民のための」政治になっていないということなのだと思う。
だけど、それは私が単に何か重要なことが見えていないだけなのだろうか。それともシンプルに、理解が足りていないのだろうか。
そうなると、ここ何年かでよく聞くようになった「ポピュリズム」のことを考えなくてはいけないのだろうか。
ポピュリズム
この定義自体は分かりやすいが、さらに、こうしたイタンビュー↓を読むと、もう少し複雑なのかもしれない、とは思う。
比較的シンプルに言ったとしても、また、歴史を踏まえて両義的な意味があると理解したとしても、どちらにしても、「ポピュリズム」は、オーソドックスな「民主主義」もしくは「あるべき民主主義」とは違う、というような見方になっているように思う。
ただ、個人的には、「民主主義」と「ポピュリズム」は、同じなのではないか、という印象がある。
違いがあるとすれば、選挙の結果が予想に反して、もしくは、冷静さよりも熱狂が重視され、知識階級から見て「望ましくない選挙結果」になった時だけ、(たとえば、アメリカがトランプ大統領を選んだ時のように)「ポピュリズム」と呼ばれるだけではないか、とも思っている。
(※さらに、経済と民主主義について、もう少し考えるために「後編」に続きます)。
(他にも、いろいろと考えています↓。よろしかったら、読んでもらえたら、うれしいです)。
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