深海 (掌編小説2000字のホラー)
もう、何も見たくない。
何も聞きたくない。
何も考えたくない。
何も感じたくない。
無、になりたい。
早朝、私は船の甲板から眼下を見下ろす。
そこにあるのは群青色の海面。
潮の流れが激しいのか、所々渦を巻いている。
凝視していると、吸い込まれていくような感覚に陥った。
(あそこに飛びこめば、楽になれるだろう。
寂しさと苦しみから開放される)
飛び込んだ後、しばらくは苦しいかもしれないが、
じきに意識は無くなるはず。
もう、この世に未練などなかった。
未来への希望は一切ない。
両親が不慮の事故で亡くなり、恋人には婚約破棄されてしまった。
一人っ子だった私は、天涯孤独となった。
おまけに、勤めていた会社からは人員削減のため
解雇を通告された。
これでもか、というほど不運の連続だった。
(早く、楽になりたい)
私がいなくなっても、悲しむ人は誰もいない。
イヤ、いなくなっても誰も気づかないだろう。
昨夜、名古屋発のフェリーに乗船した。
夕方には仙台に到着する。
命を断つ方法を幾つか考え、遺体の処理で誰にも迷惑がかからない方法を考えた結果、海に身を投げるのが特策に思えた。
(さあ、早く! 誰かに見られないうちに)
いざ、実行の段階になると幾分躊躇するのは
生への執着が残ってるからだろうか?
私は意を決し、フェンスを乗り越えた。
海面が、より一層近くなった。
目を閉じ、一歩前に出る。
すーっと、体が落ちていった。
足先が海面に入るや否や、ずんずん沈んでいく。
忽ち、呼吸ができない苦しさに襲われた。
苦渋に顔を歪めたが、次第に意識を消失していった。
ふと、目覚めた。
イヤ、もう死んでるかもしれないから
目覚めたという言い方は適切ではないだろう。
辺りを見回す。
私は砂地のような場所に横たわっている。所々に岩のようなものが見える。
恐らく、海低まで沈んでしまったのだろう。
太陽の光はほとんど届いていないらしく、薄暗い。
海の底にいても苦しくないということは、やはり私は死んだのだ。
死んだら何処かにある死後の国に行くのかと思っていたが、このまま海底に居続けるのだろうか?
そよ風の吹く、光溢れる場所で両親に会えるのを期待していたのだか……。
再度辺りを見回すと、視線の先に穴のようなものが見えた。
近くまで行き、目を凝らす。
直径2メートルほどの穴が空いていた。
恐る恐る、覗き込む。
かなり深いようだ。
「あっ!」
落ちていかないよう、注意していたつもりだが
もう手遅れだった。
地球の中心部まで到達するのではないかと思うほど、どんどん落ちて行く。
既に自分は死んでるとしても、恐怖を感じる。
ザブン! と音がした。
(沼? 池?)
水中のような所に落ちたのだろうか?
私は全身の力を抜き、浮上した。
何かがまとわり付くような異様な感覚がしたが、
それが何なのか分からなかった。
水面に顔を出すと、異様な原因が判明した。
水が、真っ赤なのだ。
すると、生臭い匂いが鼻をついた。
(えっ! 血?)
手で掬うと、指の間からトロリと零れた。
(血の池?!)
私は慌てて、這い出た。
全身血まみれで、吐きそうなほど具合が悪い。
(ここはいったい、何なの? 血の池なんて
まるで地獄みたい)
そこで、ハッとした。
辺りは荒涼とした景色で、何やら不穏な気配がする。
(もしかして、本当に地獄かもしれない)
すると、遠くで叫び声のようなものが聞こえた。
私はその方向に注意深く進む。
薄暗く、霧のようなものが立ち込めている為、
視界が悪い。
ギャ〜!!
今度は、はっきり聞こえた。
私は身を低くし、前方に目を凝らす。
(あれは何? 鬼?)
上半身は人のようだが、顔は鬼のようだ。
下半身は馬?に見える。
ギリシャ神話に出てくる、ケンタウロスに似ている。
そのケンタウロスのような鬼が、今まさに斧を人間?に降り下ろそうとしていた。
ギャ〜!!
再度、断末魔が響き渡る。
降り下ろされた斧が、血しぶきを上げながら人間を真っ二つに切り裂いていた。
うわっ!!
私は思わず、声を上げていた。
子供の頃、お寺で地獄絵図を見てそこはかとない恐怖を感じた。地獄には絶対行きたくないと思った。その地獄の光景が、今まさに目の前で繰り広げられている。
ケンタウロスのような鬼が、ギロっとこちらを振り向いた。
私は一目散に走り出した。
だが、4本足の鬼のほうが走るスピードが早かった。
振り向くと、既に私の後ろに鬼がいた。
恐怖が最高潮に達した。
ものすごい力で肩を捕まれ、押し倒された。
(一度死んでるのに、再度死ぬことになるのだろうか?)
らんらんと目を光らせた鬼が、高らかに斧を振り上げた。
私は、ギュっと目をつぶった。
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