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全てを知り覚るには神を心から信じること、それが大前提である

現在Qアノンがカルト宗教化しているが、他にもパロディ的な思想主義からカルト宗教化したものは多くあり、ロン・ハバート執筆のSF小説が始まりとなったサイエントロジー教会も最初はその類いだった。

それそのものはパロディのような宗教とされてはいるが、その他にディスコーディアン主義と言うものがある。それはギリシア神話の混沌と争いの女神エリスを信仰対象とする思想主義で、宗教の神学を揶揄するようなカルト思想主義。1965年グレッグ・ヒルとケリー・ウェンデル・ソーンリーと言う人物が共同で執筆出版した『プリンキピア・ディスコルディア』、を元にした思想主義。

その無神論的な考え方は古来からある無神論哲学の、破壊と再生が新たなるものを生み出すとするフリーメイソン的ヒューマニスト思想主義や、その基になるグノーシス主義、古来からいたニューエイジ思想主義を持つ哲学者の考えの中にあったもの。それは現在のイルミナティOTO、ニューエイジ思想や占星術にもかなり影響している。

秩序は無秩序と表裏一体としてあり、そのディスコーディニズムでは、太極図の中に五角形とエリスの話が基になる黄金のリンゴが描かれているシンボルが使われる。リンゴを禁断の果実と見立て、それを松果体と考え神秘的な力でエリスと交信する、といった考え方は他のカルト思想主義と同じである。

カルト宗教はそういった神秘主義による自己開発的な考え方から広がりを見せ、賛同者が増えると肥大化し集団カルトとなる。だから古来から人間を拝むなといった教えがあったが、神を信じない人間は次々と知恵を使い小さなカルトをあちこちに作り始める。基本的に人間を拝み神扱い、個人崇拝を行わせる宗教、団体、集団、組織等は全てカルトと定義できる。

しかし人間とは心弱き生き物、その承認欲求から必ず小さなカルト集団を作りたがる。YouTubeやSNSなど、他TwitterXなどでは、それぞれの思想主義を持つ人々の集団となる数字があり、そこに小さなカルト宗教、団体や集団を次々に作っては、政治や宗教など、社会的な物事に対する圧力、影響力やダメージを与えようとして頑張っている。

ディスコーディアニズムでは、秩序と無秩序は表裏一体としてあり、秩序とは無秩序があるから出来上がるもの、無秩序があるから秩序が生まれる、だから無秩序こそが秩序である、のようなわけの解らない持論哲学を思想主義として掲げ、ギリシア神話のエリスといった脇役のような中途半端な登場人物を信仰対象としている気持ち悪いカルト思想主義。そんなわけの解らない考え方がイルミナティにも継承されていて、神智学協会のようなカルト思想主義が根底にあるニューエイジ思想にも渡される。

だからはっきり言えば、それが影響している映画『マトリックス』、とはとてもくだらなくて鼻くそにもならないコメディ映画と言ってもいい、自分は素直に言えばそう思う。だから毎回いざマトリックスを視聴しようとしても10分として見ていられなくなり、第一作目からまともに見たことがない。

秩序とは何かと考えるなら、それは人間社会の中では決まりやルール、政府組織の決め事、法律等を指している。無秩序が秩序を生むと言うのなら、それは単純に当たり前のことであり、エリスは無秩序ではなく人々に混沌と争いをもたらす悪意の象徴。その破壊と再生のような回りくどい事をする考え方、その思想主義が根本的に間違っている。


人々があれこれ無駄な哲学など議論討論などしなくても、左右に分かれ善悪を使って争わなくても、全ての答えはずっと昔から、古来から既に完全に一致していた。

それが大昔から誰もが知っていた自然法であり自然の摂理、生み出し、渡し、消費し、また生み出す3つの流れの法則、完全なる神の秩序、三位一体。元からこの世界には善悪、秩序も無秩序もなかった、あるのはその神による絶対なる自然な流れを持つ自由なる秩序であるアナーキー、宇宙の法則。無秩序とは神の秩序であり、無秩序が秩序を生むのではなく、秩序が無秩序、自然法、自然の摂理であると言うこと。

人間社会での出来事は全て人間が決めている事で、それは神に従っているのではなく人間の秩序に従っていると言うこと。宗教も政治も何もかも全てが人間のものである。

しかし神の言葉とされる愛は、人間の秩序ではなく神による絶対なる自然法、だから自分は人間を拝まず愛を信じると言っている。愛を信じれば、その決まりやルールの基本に愛があるなら自然に行えると言うこと。しかしその決まりやルールに個人崇拝や権威主義的な独裁的な許し無き強制力があり、そこに愛がないなら従わずに逆らう、この自分の考え方はいたってシンプル。

科学としてあるダーウィンの進化論も、聖書による天地創造も基本は同じで、その答えはやはり三位一体であり、生み出し、渡し、消費し、また生み出す。食って消化してうんこして肥料にする自然の摂理、それと同じで、これこそが3つの美しいトライアングル。

一部の爬虫類の第三の目とされる頭頂眼、これが人間で言えば松果体の役割となり、一部の爬虫類は、その第三の目で太陽の位置を把握し生態系を維持している。その頭頂眼を失えば方向が解らなくなり、混乱し生きるのに支障を来たしてしまう、それを持つ爬虫類にとっては大変重要なもの。

人間の松果体も、太陽の光を受け、精神的安定に直結する概日リズムを調節するホルモン、メラトニンを分泌する。だから松果体の安定は頭心体全ての安定にも繋がり、それが肉体的、心理的な問題を解決する鍵となる。


三種の神器における第三の目、松果体は2つの勾玉となり、ユダヤ教の契約の箱では2つに割れた十戒の石板と言う事になる。

三位一体、父と子と精霊、これは父が子を精霊へ渡し、消費する意味の言葉。つまりはその三位一体の中ではキリストが第三の目であり、松果体であり覚りとなり、勾玉であり十戒の石板になる。



これこそが始まりであり終わり、アルファでありオメガ、13であり33の、全てとしてある神による秩序、アナーキー0による自然の法則、自然の摂理、宇宙の法則。

ダーウィンの進化論も、聖書の天地想像も、言い方、表現の仕方、例え方が違うだけで、どちらも同じことを言っていただけ。だから宗教と科学も表裏一体であると言うこと。

全ては神の元にある出来事、考え方であり、我々は神の体内としてある宇宙の一部なので既に全てを知っている。それを表現するために、思い出した事を絵や音楽、哲学や科学、数式やスピリチュアルなどで表現する。


それは古来から考えられてきた哲学の中にあり、後にルドルフ・シュタイナーがそのイメージをアカシックレコードと名付けた。

そのアカシックレコードの概念を知らなかった自分は、その感覚、イメージを独自に、宇宙のマトリックス図、そう呼んでいた。

これらの考え方は全て誰かに教わったわけではない、自分独自に中から出てきた、思い出したこと。瞑想とは、既に知っていることを思い出すために行う。

それがアポフェニアやパレイドリアとはならない、真なるスピリチュアルであり、神を信じる心無くして覚る事はできない。全てを知り覚るには神を心から信じること、それが大前提である。


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