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トラブルと戦争の《沖縄旅行日記》その7 「平和教育をするなら沖縄だ」と確信が持てた!

12月28日(木)沖縄2日目 沖縄南部に行こう! 3

 斉場御嶷を出てすぐ、なんか景色のいい橋のような道路のようなところにでました(後で調べたら、ニライ橋・カナイ橋という場所でした)。見晴らしが最高でした。
 玉城城跡と道路標識が見えましたが、今回はパスしました。少し雨模様の後で、泥濘んでいそうなのと(私のサンダルは、踵に穴が空いていて、泥濘んだところを歩くと、なぜかその穴が水を吸い込んで、足がびしょびしょになる)平和祈念公園に早く行きたかったからです。明日か明後日には、どこかの城跡に行く予定です。

 到着した平和祈念公園は大きな公園で、目的の平和祈念資料館がどこにあるのか、分かりにくいくらい広かったです。周りを見渡してみても、工事中の塔みたいなものは見えますが、平和祈念資料館らしき建物がありません。  
 駐車場横に地図があったので見てみると、かなり離れたところ(多分1キロ位離れたところ)にあるようです。公園内循環バスがあるようですが、運営中止になったのか、年末だからか、バス停にいいてみると運行中止の紙が貼ってありました。仕方なく、歩いて祈念資料館に行きました。

平和祈念資料館は、こんな建

 資料館は、スペインの海岸べりの住宅のような建物でした。誰の設計なんでしょうね。面白いと思いました。中は、外国人10人位と大学か短大の見学会の学生がいるだけで、比較的空いていました。年末だからでしょう。

 使用感の中にはる味深いものがいっぱいありましたが、一番興味深くて恐ろしかったのは、戦争で生き残った人々の証言録です。録音でも聞けるようですが、かなり大き目の文字で冊子にして、部屋一面に100個(?もっとあるのかな?)位並べて置いてある方を読みました。

たくさん並んでいた。写真は、証言した人。
録音も、映像もあった。

 内容は、かなり生々しく衝撃的でした。時間をかけて、たくさん読んでしまいました。一番胸に答えたのは、日本兵の残虐さでした。結局は、戦争の悲惨さを訴えているのですが「日本兵の行動=日本本土政府の意向=作戦」が酷すぎます。沖縄全部を犠牲にして、本土決戦準備のための時間稼ぎをしようとしていたのです。どちらかというと、アメリカ兵の方が沖縄市民を救う方に手を貸していたくらいです(書いてある証言によると、そうなります)。

アメリカは、日本を救うために原爆を使用したと言っている

 平和教育に政府が、広島・長崎の原爆を使いたがる理由がなんとなく分かりました。なんか、原爆押しばかりが不自然な感じがしてましたし、それに対するアメリカの反応も微妙だなと普段から思っていたのですが、腑に落ちました。

 広島・長崎の原爆で平和教育をすると、日本が犠牲者でアメリカが加害者と言う構図を作りやすいのです。日本軍が沖縄で行った蛮行を隠しやすいのです。沖縄での戦争を平和教育に利用すると、被害者は沖縄県民で加害者は日本政府とアメリカ軍になるからです。その延長で行くと、アメリカは、沖縄市民を救うことにも力を入れ、原爆で本土決戦を避け、原爆被害を救う医療団を出した国という立ち位置になっていきます(何にせよ、戦争はいけません。それ以外の解決手段を、模索するべきでした。戦争に踏み切った当時の日本とアメリカの政府は、おおきな間違いを犯したと私は思っています)。  

平和式典広場

 そういう意味でいうと、戦争の悲惨さを訴え、二度と戦争をしない教育をするなら、この沖縄に来て勉強するべきです。平和学習のための修学旅行は、お金があれば沖縄を訪れましょう(このあと、帰りに平和式典広場に寄ったら、東大阪の中学校が修学旅行にきて千羽鶴を奉納していたのを見て、なかなかやるじゃん東大阪市[大阪]と思いました)。

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