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見よ!これぞ万博パビリオン。オーストリア人とハンガリー人建築家が生んだ「伝説のカイロストリート」(シカゴ万博(1892))〜(原爆ドーム)チェコ人建築家ヤン・レッツェルシリーズⅴ〜LOLOのチェコ編⑬

〜最初に

 今回の記事後半の「1893年シカゴ万博」における、オーストリア・ハンガリー帝国の建築家の二名、マックス(ミクサ)・ヘルツとエドゥアルト・マタセクの手掛けた「エジプト・カイロストリート」にかなり力を入れて書きました。

 よってどうか後半のその部分だけでも、読んで欲しいなあと思います。

 エジプト君主もスポンサーも現場には一切口を挟まず、二人の建築家を信じすべて任せました。これこそ、本当の万博パビリオンです。拍手です。


オーストリア領事、イギリス支配のエジプトを静観

エジプト・イスマイール副王

 19世紀後半ー

 赤いトルコ帽を被ったエジプトのイスマイール副王(1830-1895)は、頭を抱えていました。

 スエズ運河開通、カイロの街の近代化、アブディーン宮殿建設…
「国の予算の計算に、大きな誤りをおかしてしまったぞ」

 エジプト綿が最高高値で売れ続ける数字でお金の計算をし、各国の銀行から借金をし続けていましたが、アメリカの南北戦争が終わった後、各国は綿の買付けをそちらへ戻してしまいました。

 経済回復に必要な措置を講じようとエチオピア侵攻を果たすものの、失敗し逆に負債を増やしました。
 トドメはイスマイールの破産のせいで、スエズ運河の所有株をすべてイギリスに奪われ、運河がエジプトのものではなくなってしまったことです。

 この事態は、エジプト国内で三つに分かれたナショナリスト反乱団を誕生させました。最初のグループは、カイロのアズハル大学の若い聖職者たちです。

 第二のグループはいわゆる立憲主義者で、ヨーロッパで教育を受けた新しい中産階級の人々でした。

 第三のグループは、国政と軍の上層部をトルコ人とチェルケス人、そしてアルバニア人将校だけが占めていることに怒ったエジプト人兵士達でした。

アングロ・エジプト(イギリス支配)時代の始まり

 最終的にイスマイールは英仏によって国外追放され、彼の息子タウフィクが新たに即位しても、世の中の景気は低迷したままでした。

 1881年9月9日、ついに反乱団体が行動に出ました。パシャ率いる陸軍部隊がアブディーン宮殿前でデモを行ったのです。

 しかし、ここにしゃしゃり出たのがイギリスとフランスでした。

 イギリスはすぐさま、連合艦隊をエジプト海域に派遣することを決定し1882年7月11日、アレクサンドリア砲撃を開始しました。かたや、フランス議会は結局フランスの軍事介入を認めず、アレクサンドリアから撤退しました。

 その後、アレクサンドリアに上陸した英軍の武力行使により、エジプトの行政権はイギリス総領事に完全に持っていかれ、エジプトは実質的に「大英帝国」の一部となり、本格的なイギリスのエジプト占領が始まりました。

 なお英軍の攻撃により破壊されたアレクサンドリアの街は、イタリア人建築家らにより再建が行われたのですが、この時、イタリア人は多くの余った建材や破壊された家屋から出てきた、持ち主の不用品をこのまま処分するのは勿体ない、と思いました。

 すると、街の再建で建築装飾を担当していたフランス人たちが、
「つい最近、パリで街の拡大工事の際に【蚤の市】 が開催された」
と教えてきました。

 そのアイディアを聞いたイタリア人たちは感心し、アレクサンドリアで大きな蚤の市を開きました。これがエジプトにおける初めての蚤の市でした。

 そうそう、英軍によるアレクサンドリアの破壊の復興のために、のちにアブディーン宮殿主任建築家になるAH出身のアントニオ・ラシアックも初めてエジプトに渡って来ています。

 以下、引用
Austria -Hungary and Egypt (1882–1914) by Michaela Mikešová 

【当時、AHの領事は冷静に観察をしていたのだが、デンシャワイ村で起きた事件については、流石に呆れた。

 それは何かというと、英将校5人が鳩を撃ちにその村付近へ出かけた時だった。そのうちの一人が村の女性に発砲していまい、女性は死亡した。だが英将校たちは謝罪すらしなかった。

 激怒したエジプト人の村人たちが暴徒化し、ブル大尉は死亡。他の2人の将校は重傷を負った。
 英軍は村人の多くを逮捕し、この事件はシベイン・アル・クームの特別法廷に送られた。被告は村人51人であった。

 判決は主犯とみなされた4人の村人に絞首刑、2人(このうちの一人は15歳の少年)に無期懲役、1人に15年の禁固刑、2人に7年の禁固刑、3人に1年の禁固刑を言い渡した。
 後の被告人は懲役2年から7年、懲役3年から1年、鞭打ち5年から50年、残りは釈放された。

 この判決を不服としたエジプト人の抗議活動が強めると、イギリスの占領軍は強化され、最大57,000人の増員が発表され、イギリスの占拠はエスカレートしていった。

 だが忘れてはならない。エジプトは公的・法的にはオスマン帝国の一部であった。コンスタンティノープルのスルタンに年貢を納めていた上、エジプトの行政権もオスマン帝国のスルタンにあった。

 にも関わらず、英国総領事のエブリン・ベアリングはエジプトの君主を意のままに操り、遥かに巨大な実権を握った。AH総領事は不快な思いで成り行きを見守り、常にイギリスに対する監視の目を怠らないようにした】

ウィーン帰りの18歳のエジプト君主の誕生 

 1892 年

 ウィーンのテレジアヌム アカデミーに留学していたエジプト王太子のアッバス・ヒルミー2世に急遽、帰国要請が入りました。父親のタウフィク副王が崩御したからだです。

 まだ18歳だったヒルミー2世は学業継続を諦め、すぐに即位しエジプト最後のケディブ(副王)となりました。

 ヒルミー2世は両親からギリシャ人、アルバニア人、チェルケス人、トルコ人などの血をひいているのですが、子供の時にドイツ語圏のスイスへ渡り、その次にはウィーンに渡ったため、ドイツ語を一番得意としていました。

 あとはオスマントルコ語、フランス語と英語も流暢に操り、カタコトのエジプト語も少々話せました。

 歴代の君主はフランス贔屓でしたが、ヒルミー2世はAHに傾倒していたので、即位後も毎年夏の休暇をオーストリアで過ごし、1910 年にはAHの貴族のマリアンナ・トーレクと結婚をします。

 もちろん、すでに妻と側室が複数いたのですが、しかしこの婚姻により、エジプトはオーストリアとの緊密な絆が強化されました。

 新副王のヒルミー2世がまずとりかかったのは、エジプト領土のスーダンで勃発している反乱を鎮圧させることでした。

 マフディの反乱といいますが、イギリスも大きな軍隊をそちらへ派遣させました。この時、その英軍隊はスーダンへ向かう交通手段として、トーマス・クックのナイル川クルーズ蒸気船を貸りました
 旅行会社が国の戦争に協力したという歴史上初のエピソード
です。

 エジプト軍もスーダンに侵攻しましたが、しかし前線の状況を聞くと、ヒルミー2世は怒りがメラメラ沸き上がりました。

 というのは、英軍によるエジプト軍への扱いがあまりにも不公平だったからです。直ぐ様、正式に抗議をしたものの前線では何も改善されず、なおさら腸が煮えくり返りました。

「絶対に、この国からイギリスを追い出す。そしてオスマン帝国に主権を戻す」

 そこでヒルミー2世は、AH出身などの反英派のヨーロッパの顧問団を自分の周りに据え、本来の宗主国のオスマン帝国や、AHとの関係強化を意識し始めました。

 彼は同時にエジプトの文明をより進歩させ、国力を上げるために観光業にも本腰を入れることも考えました。観光業がいかに大金をもたらしてくれるのか、すでにトーマス・クック旅行社の二代目社長のジョンから學んでいました。
 それにです。

 19世紀後半はスエズ運河は開通、アメリカでは大陸を横断する鉄道が誕生、蒸気船の旅が増え、フランス人作家ジュール・ヴェルヌによる「80日間世界一周旅行」は、十年前の1872年に出版されています。

恐らく、タウフィク副王(中央)、その右が少年時代のアッバス・ヒルミー2世、右が弟のムハンマド。三角帽子の男性がジョン・クック(二代目)かと思います。傘は、傘が珍しいエジプトの王子たちが手に取りたかったんじゃないかな?
 

 観光誘致のためには、魅力的な観光スポットおよび街作りが必須だと考え、その一環としてエジプトのさらなる文化・芸術の発展と、過去の歴史の保存を決意しました。

「高祖父ムハンマド・アリがルネッサンスの基礎を築いたが、後継者はさらなる芸術の発展を遂げる扉を開くべきだ。それがさらなる近代化への鍵にもなる」

写真のルネッサンス時代

 繰り返すと、ヒルミー2世は18歳で即位するまでウィーンに留学していました。
 写真の起源は18世紀のウィーンに遡ります。

 ウィーンで、ヨハン・クリストフ・フォクトレンダーによって設立されたフォクトレンダー社は、写真技術に携わる最も古い会社のひとつです。

 最初のカメラレンズは、そのフォクトレンダー社の分析的計算により製作されました。これは写真技術の実用化への最初の歩みのひとつでした。

 これらのレンズはハンガリー生まれの数学者、ペッツヴァル・ヨージェフにより計算されデザインされたもので、後にフォクトレンダーの孫によって更に改良されました。
 彼は新しいレンズを使うことにより、露光時間を20~30分から1~2分と劇的に短縮することに成功しました。

 1849年、フォクトレンダー社は、初の金属製のカメラを製造。
 1868年までには、当時としては破格の数である一万枚のカメラレンズを製作し、19世紀末には、フォクトレンダー社は写真産業で有数の会社となり、ウィーンでは写真が一流の芸術として認められ、流行っていました。

「この時代の最先端をいく「写真」をエジプトで普及させ、芸術のレベルを上げたい。さらにエジプトで多くの素晴らしい写真が撮影されていけば、それは外国に渡り、国の良いPRにもなる」
 ヒルミー2世はこのように考えました。

 もっとも、実は元々それは祖父のイスマイールのアイディアでした。彼はパリ留学が長かったエジプトの君主でしたが、やはりウィーンにも留学経験がありました。 

 ヒルミー2世が生まれる前の1864年、イスマイールはフランス人写真家、ギュスターヴ・ル・グレイをアブディーン宮殿に招き入れました。

 グレイはナポレオン・ボナパルトの公式皇室写真家であり、写真の構図と光の技術を劇的に改良した人物でもあり、現在でも高い評価を得ています。

 イスマイールはエジプトの歴史ドラマや映画では「無能のでくのぼう」「女好きの浪費家」として必ず描かれますが、実はヨーロッパの最先端の技術や文化をすぐに取り入れ、芸術に詳しく目利きで、物凄い審美感を持っていた。
 だけど「計算」が出来ない副王だったと私は思っています。

フランス人写真家グレイ

 当時、まだ少年だったヒルミー2世の父親タウフィクと、そのきょうだいのフセインの二人に、グレイは写真技術や撮り方などを教えました。一般人は写真を見たこともないし、カメラが何かも聞いたことのない時代に、これはかなり贅沢恵まれた凄いことです。

 グレイはムハンマド・アリ王朝の王家の「記録」写真も撮影し続け、エジプト国内の様々な風景や街、人々の撮影も行いました。

グレイが撮影した、イスマイールの想い女性・ウジェニー・ド・モンティジョ仏皇后

 だけども残念ながら、グレイのそれらエジプト時代の写真のほとんどは残っていません。1952年の君主制打倒の時、革命家たちは全ての宮殿を差し押さえたので、多分その時に燃やされたのだと思います。

 唯一残っているのは、グレイがタウフィク王子とフセイン王子兄弟の上エジプト旅行に同行した時に撮影した、数枚のルクソールの遺跡写真ぐらいです。これらは革命家の男たちも燃やさなくてとっておいても問題ない、と考えたのでしょう。

ルクソールのカルナック神殿でしょう。柱が倒壊しかかっていますが、トーマス・クックが再建するまで、こういう感じだったらしいです

 その後、グレイはカイロで息を引き取ります。パリに戻らなかったのは、借金取りに追われていたからだ、とも言われています。

 1892年に即位したヒルミー2世は、カイロに新しく誕生したマフルーサの通りに次々と写真スタジオを用意し、AHからだけではなく、イタリアやオスマン帝国からもプロの写真家たちをを呼び寄せました。
 
 そのため、写真そのものをこの国に持ち込んだのはイスマイール副王だったけれども、孫のヒルミー2世がエジプトにおける写真」のルネッサンス時代を築き上げた、と評されています。

 しかしです。
 続々と腕の良い外国人写真家たちを招致したのはいいけれども、街や建物、観光地、娯楽施設が美しくなければ、外国人を「魅惑」する芸術的な写真が生まれません。それは観光誘致宣伝にも繋がりません。

 そこで、ヒルミー2世は元々気にしていた、長年放置され荒んだ旧市街のイスラム建築の修復と保護にも尽力を注ぐことにしました。それと同時に、次々と新しい地区・新しい建物を増やしていきました。
 
 順調でしたが、彼はふと思いました。
「もっと効率が良くエジプトを外国に宣伝する機会や方法が、他に何かないだろうか…」

 その矢先でした。
「来年の1893年に、シカゴ万博が開かれる?これだ!」

伝説となったシカゴ・コロンブス万博のエジプト・「カイロ・ストリート」

 アッバス・ヒルミー2世はまだ若いのにも関わらず、プロパガンダ目的の世界博覧会の重要性を十分に認識しており、シカゴ博覧会に公式レベルで参加することを望みました。

 だけども、前述したようにスーダンでの反乱そして国内でのエジプト人民衆によるデモとストライキ、そして祖父イスマイールの残した巨大な赤字と不安定な経済状況のため、参加できそうにもありません。

 しかしくじけず、スポンサー探しに奔走しました。前述しましたが、彼の母親はトルコ人の貴族の娘で(同時にムハンマド・アリの家系とも繋がります)、オスマン帝国にも別荘を持ち、そちらにもよく訪れていました。

 おそらくコンスタンティノープルのスルタン経由だったのではないか、と思うのですが(なぜなら宗主国のスルタンの了承を得ず、勝手に動いたとは考えにくいので)、彼はスミルナことイズミールに住む実業家ジョルジュ・パンガロ(*人種と国籍は不明)に相談を持ち掛けました。

 パンガロはヒルミー2世の主張する
「エジプトがイギリスから離れ、かつてのオスマン帝国の実権を戻したい」
意向を歓迎しいたこともあり、快く資金提供を承諾しました。

 その結果、シカゴ万博のエジプトコーナーはパンガロ氏の私的なプロジェクトとして実現させることに決定しました。これなら反対派も何も言ってきません。

「やるからには、完璧なものにしたい。大成功をおさめたい」
パンガロ氏は
「となるとだ。このプロジェクトにはミクサ(マックス)・ヘルツの協力を得ることが、成功の鍵を担っている

ハンガリー建築家ミクサ(マックス)・ヘルツ

 AH出身のユダヤ系ハンガリー人ヘルツは、エジプトのアラブ・イスラム建造物の保存を主旨とした、公式国家機関であるアラブ美術建造物保存委員会の主任建築家であり、この分野の第一人者でした。

 もともとヘルツを見出したのは、ユリウス・フランツ(1831-1915)です。

 フランツはオーストリア人としてよく知られていますが、ドイツのナッサウで、森林警備員の息子として生まれました。よって本当はドイツ人です。

 ウィーンの美術アカデミーで建築を学んだ後、「療養」のために医師の勧めでエジプトに渡って来ました。
 当時は喘息や肺の病があると、湿気がなく冬も過ごしやすい気候のエジプトで静養するものだったのでしょう。(カイロの空気もまだ汚染されていなくて、良かったのでしょう)

 健康状態を取り戻すと、エジプトとスーダンの副王イスマイール・パシャの宮廷建築家として、1869年のスエズ運河開通を機に完成に向けて多くの建物を設計、建設、監督しました。

 これには、当時最も野心的な国家委託であったゲジーラ宮殿(後のマリオットホテル)と高級街エズべキーヤ地区のキオスクのほか、劇場、サーカス場、競馬場なども建築しました。
 その功績により、副王から1868年に「ベイ」の称号を与えられました。

 その後、副王の指示の下、カイロの近代化、すべての新しい通りが放射状に広がる道路などを手掛けましたが、しかし1871年の時点で、フランツはすでにこの開発に対して非常に批判的でした。

「フランスの革命後の近代的な都市構想を模倣するために、カイロの古き良き中世の街並みを破壊すること。そして歴史的価値があり、伝統的な記念碑や建物、家屋を消し去っていくのにもう耐えられない

 フランツはその「罪悪感」に苦しみ1888年に引退。

 その後、文化省の「技術局」の局長に就任し、ヨーロッパに渡って本場で直に学べないエジプト人学生のための建築学校を開校しました。省略しますが、この学校から多くの優れたエジプト人建築家が誕生しています。


 ミクサ(マックス)ヘルツは、1856 年 にハンガリー領で生まれ、ブダペストとウィーンで建築を学びました。

 イタリアを観光した後、ふらりとエジプトに渡り、そこで人の紹介でユリウス・フランツに出会い、すっかり気に入られ、フランツが運営する文化省の技術局に加わりました。

 その後、「アラブ美術建造物保存委員会」でフランツの助手として働き、彼の引退後はその後継者となり、歴史的アラブ建築物保存委員会の主任にもなりました。

 1890 年、「国際建造物委員会 - 東方部」の会員にもなり、1 年後にはエジプト研究所の会員、1892 年 になるとアラブ博物館の運営をも任されました。

 パンガロは
「ヘルツの専門知識が不可欠であることに加えて、エジプト政府におけるヘルツの公式な地位が、今回のプロジェクトにさらなるが付く」
と確信。

 この仕事の依頼を受けたヘルツは、直ちにウィーンに本社を構えるフェルナー&ヘルマ社と契約を結びました。
 この会社はカイロにも支社も構え、すでに多くの建築を建てているので、カイロの街に詳しく実績もあったからです。

 フェルナー&ヘルマ社はすぐにウィーンから設計士エドゥアルド・マタセクをカイロに派遣しました。

 1867年に地元の建築業者の息子としてウィーンに生まれたマタセクは正式に建築を学んだことはありませんでしたが、父親の元で働きながら建築の経験を積み、現場体験で技術や知識を得ました。

 エジプトの地に足を踏み入れたのは、今回初めてです。
 到着するやいなや、カイロの街を再現するという万博プロジェクトのために毎日一日中、街を歩き回り熱心に観察を続けました。

 そしてマタセクはヘルツと相談し、シカゴ万博に出すパビリオンの建物のほとんどの部品はカイロで製造。

 その後アメリカにそれらを輸送し、シカゴでパンガロが特別に雇った建築家の監督の下で組み立て、最終的にヘルツがそっちへ行き、建設の最終段階を監督することにしました。

 本物の雰囲気を醸し出すには、ただ建物を建てるだけでは空っぽの「カイロの街」でつまらないです。

 だから、カイロの街路の典型的な特徴であるラクダやロバとともに、本物のカイロ住民も必要で、見どころのひとつである「カイロの結婚行列」など、カイロの生活を特徴付ける行事も演出することにしました。

 本物のカイロ人のエキストラを雇うのは簡単でしたが、パンガロは女性ベリーダンサーの確保に予想外の困難を経験しました。
 エジプト人ベリーダンサーたちがみんな拒否反応を示し、嫌がったのです。元々、外の明るい所で見せる踊りでもないですし。

 万博のエジプトエリアのカイロ通りにはモスク、住宅、店舗など 26 の本格的な建物が建てられました。

 しかもです。前の18世紀の街の特徴であった地下に公共診療所、その上には小学校が併設されているという作りもそのまま再現しました。

 カイロ旧市街のランドマークの 1 つであるアブド・アル・ラフマーン・カトフダー王子(1715-1776年)の美しいサビル・クッターブのレプリカが、カイロ通りの中央に立っていました。

本物のカイロのサビル・クッターブ
1893年のシカゴ万博でミクサ(マックス)・ヘルツが再建したサビル・クッターブ。内部の地下も再現

 サビル・クッターブとは

 一階部分に公共の井戸であるサビール、二階部分が読み・書き・クルアーンなどを教える初等教育機関であるクッターブを備えた複合慈善施設。

 給水施設のサビールはイスタンブルやエルサレムなど他の地域にも見られるが、複合施設のサビール・クッターブはカイロで発展した特徴的な建築物である。

 マムルーク朝期から既存のモスクやマドラサ(学校)の付属施設として建設され、後に単独の施設として建設されるようになった。特に17,18世紀のオスマン朝下のカイロ市内に多数建設された。

https://qalawun.aa-ken.jp/glossary/sabil-kuttab/

 この美しいモスクは、北の墓地にあるカイトベイの葬祭用モスクのコピーでしたが、ミナレットは正確なレプリカでした。
 前近代カイロ建築の重要なタイプである「キャラバンサライ」(ラクダ隊の休憩所)もあり、内部に多数のブースが含まれていました。

 通りには、本物のエジプト製品を販売するブースが全部で 57 軒、飲食店含むスタンドが 50 軒以上ありました。

 そのインパクト・楽しさ・面白さはラクダ、ロバ、サル、さらにはヘビ使い商人の登場で最高潮に盛り上がりました。

 だけども、ぎりぎりになって何とか確保できたベリーダンサーが実際に官能的な踊りを始めると、清教徒のアメリカ人たちが激怒しました。
不適切だ」

 これは大きな騒動に発展し、即時中止を求める声が上がりました。このような官能的な踊りを見たことのない、アメリカの素朴な彼らにはあまりにもショッキングだったのです。

 しかし最終的に
伝統的な民族のパフォーマンスを否定してはならない

 結局、継続が許可され、またこの件が各新聞に大きく取り上げられたことにより、いっそうエジプトの「カイロ・ストリート」の知名度が上がり、人気が出ました。

実際のダンサーの女性たち
新聞の一面を飾りました

 
 そもそも、「カイロストリート」が成功した最大の理由は、外国人を喜ばす「千夜一夜物語」の雰囲気を取り込んだことです。

 本物の建築要素だけではなく、エキゾチックな幻想的な要素を加味し、中東の大都市の実際の通りであるような錯覚を与えるという、調和のとれた「現実の街と幻想の世界」をブレンドした世界観を作り上げたのが正解でした。

 この万博では、エジプトの「カイロ・ストリート」が最大の人気になりました。

 これをどうしても見たいがために、なんと!ストーブを売り、家を抵当に入れ、一生の貯金や葬儀費用をシカゴの万博へ向かう旅費に回した人々も多くいたほどです。
 アメリカの庶民はいくらお金をかき集めても、一生エジプトには行けませんが、シカゴならどうにか行けますから。

 こうしてAH出身のマタセクとヘルツがタッグを組んだテーマ「カイロストリート」は完璧で伝説になりました。史上最高の万博作品とも評価されています。

カイロストリートの入口
万博のカイロストリート
ミクサ(マックス)・ヘルツの協力のおかげで、完成度が上がったのは間違いありません

 
 その後、ヘルツはヒルミー2世に依頼され、王家の墓となる、あのアル・リファイモスクの建設を開始します。

 一方、ヘルツの協力のおかげで一躍有名になったマタセクは
「独立してやっていける」
と踏んで、ウィーンの本社に辞表を出しました。

 そして、ウィーン出身の建築家ユリウス・フランツがカイロに設立した建築学校を卒業した(多分チェルケス系)のモーリス・カタウイと共同で、この街にカタウイ&マタセク建築会社を設立しました。

 マタセクはカイロのいたるところにオフィスビル、学校、病院、多くのエジプト人や外国人のための建物を建設し、どれも高い評価を得ました。

 マタセクのエジプトでの成功物語は、ウィーンにまで噂で流れていました。学校を出ていない、本格的に建築を学んだことのない彼の過去が、これまたいっそうドラマチックに聞こえます。だから、
「よし、俺もカイロへ行くぞ!」

 AHの若手建築家たちが続々とカイロを目指しました。
 ヒルミー2世の方もAHの建築家には絶大なる信頼を寄せていたので、積極的に彼らを受け入れました。

 こうして、やっといよいよ、AHのボヘミア出身の「広島原爆ドーム」建築家となる、まだ若き青年ヤン・レッツェルもエジプトへ渡ってきます。

            つづく

参照&引用:


 

 

 






  
             
 


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