ローロー(白川雅)
民主化になった10年後位に移住いたチェコでの生活の日々です
Loloの東京散歩
現代のピカソこと、けんいちパンダさん が描いてくれました😆 せっかくなので、新しいLOLO(ローロー)アイコンにします✨。 今までの(若い時の)私のおじいさんアイコン↓、さようなら👋 ちなみにけんいちパンダさんは上海在住。この写真の私のおじいさんも駐在員としてずっと中国(北京)に住んでいました。 戦後すぐに肺炎で亡くなりましたが、おじいさんの生まれ変わりがけんいちパンダさんだったりして😆😉 アカウント名はLoloだったのですが、ロロ/ローローで読み方が何気にややこし
「プラハの春」の12年前に遡ります。 1956年10月23日にハンガリーで、ソ連の支配に抵抗する反乱が起こりました。ソ連軍は直ちに出軍し、それを制圧。 結果、ハンガリー動乱(革命、反乱)は失敗に終わりましたが、西側のメディアは当然のごとく、ソ連を非難し悪者扱いしました。 ソ連としてはそれに納得がいかず、そんな最中。同年10月29日に、今度はエジプトでスエズ戦争がぼっ発しました。 フランスが発見し、工事をして完成させたスエズ運河の利益は、そのフランスと、エジプ
1949年、西町(今の元麻布2丁目)にインターナショナルスクールが開校しました。創立者は元総理の松方正義の孫、松方種子です。 授業は英語と日本語の両言語で行われ、教えは国際的かつ現代的な内容です。しかし、外国人生徒が大勢入学してくるのは、日本が高度成長期に入り、外国人の駐在家族が東京に増加した1964年の東京オリンピック開催以降です。 チェコ人大使の息子達である兄弟(12歳と8歳)が、この学校に転入したのも1964年のことでした。 * 「
「北京時代、私たちは茉莉花茶が一番好きで、頻繁に飲んでいました。今でもよく飲んでいます。 だけども日本では毎日、朝起きると宜興の陶器ですぐに緑茶を飲むのを習慣にしました。なぜなら緑茶は一日の始まりの飲み物として最高で、体にも精神にもとても良い効果を感じられたからです」 ミロシュ母はそう言うとにっこり微笑み、優雅な手つきで茶碗を手に取り、緑茶を静かに飲み始めました。その時、私はある質問が喉まで出かかりました。 『じゃあ、ウォッカで始まる朝を迎えている息子さんのことは、一
2〇〇〇年ー 数年ぶりに私はチェコに戻って来ていました。というのはです。かつてとてもお世話になったミロシュ氏があまりにも重度のアル中で目も当てられない状態だ、と人づてで聞いたためです。 氏にはいくつもの興味深い通訳現場に連れて行ってもらい、通訳のノウハウを教えていただきました。それに多くの人々にも紹介してもらい、チェコにおける私の人脈を広げてもらいました。 それだけではありません。氏のおかげで私の病気の発見も間に合い、入院手術した際にはその手続きの何もかもと、医
Ryéさんに初めてお会いしました。 最初のやり取りは、吉穂みらいさんのとある記事のコメント上でした笑。 Ryéさんは一言でいえば仏語・文学・歴史・美術に長けた方です。私の密かなニックネームは「女史」です。 先日、お仕事の関係で「女史」が東京に来られた時、たまたまのタイミングが合ったのがラッキーでした。 場所は(元々ヤ〇ザが抗争ばかりしていたラブホ街近くの)道玄坂のカフェで、シャンポリオンやコプト語等について熱く議論を交わしていたのは、私たちぐらいだったでしょう。
「直径15㎝以上にもなっている。よくまあここまで放置し生活できていたものだ。緊急入院し即、手術だ」 私を診察したチェコ人医師が、片方の卵巣に大きな囊腫ができていると説明しました。 確かに激痛で眠れないことがあったり、仰向けや嚢腫のある側を上にした横向きで寝そべることもできないとか、背筋を伸ばすのも辛い、月のお客様の訪問も滅茶苦茶になっていたなど心当たりがありまくりでしたが、ここまでおおごととは。 最初に「おかしい」と感じたのはエジプトに渡って一年目ぐらいの時でした
(ヘッダー画像:うちの猫と、猫の「枕」のスターリンの伝記。高さ(分厚さ)がちょうど顎を乗せる枕にいいらしい) 本日、渋谷のテレビ局の前では久しぶりに大規模な右翼?のデモ隊が来ていました。久しぶりです。コロナ騒動以来の大規模?一応、公安もいました。 今回は 「あ、あの件かな?」 案の定でした。尖閣の件でした。でも社員があまり出勤していない日曜にデモって…。 それはそうと、九月に入りました。九月といえば秋の気配。(実際はまだまだですが) 秋といえば、読書の秋。
それにしてもミロシュ氏はどんな高度な医学通訳、法律専門用語通訳、政治の議会の通訳もこなし見事でした。 多分、ここまでのレベルの日本語通訳は当時のチェコではほかにいなかったのではないかな?と思います。 ただし会社の共同経営者の若いジョディー(仮名)と一緒に同時通訳のブースに入り、英語通訳を交互に十分おきぐらいに行うのを見ていると、明らかに彼女に負けていました。 やはりジョディはまだ二十代で若いので活舌が良い上、アメリカで学んでいるため英語力のレベルも高い。 一方
(ヘッダー画像は「写ルンです」で撮った写真:)) 朝、起きて紙の山や衣服の山で散乱した居間へ降りて行くと、ソファーの裏から何やら荒い息遣いが聞こえてきます。何だろう?犬のジェームズボンドです。 「ぎょっ」 ボンドはくしゃくしゃになった私のストッキングに乗っかり、腰を振りながらゼーゼーハアハア言っているではないですか。 このストッキングは前日の夜に洗面室のかごに入れていたはずなのに、発見して口で咥えて持って来たのでしょう。確かに日本製のストッキングは質感がいいので、
「CZECH(チェク)じゃなくてCheck(チェック)を頼むよ」 プラハのど真ん中にある居酒屋「ゴーレム」にはアメリカ人たちの姿が目立っていました。英語がよく通じてアメリカのヒットソングを流し、アメリカのバドワイザービールの提供もあったからです。 そのせいか、その後わりとすぐに潰れましたが、彼らの多くは米兵たちでした。 みんな揃いもそろって野球チームのキャップをかぶり、Tシャツとジーンズ、そして紐のシューズ、時にはリュックサック。 なお「ゴーレム」とはユダヤの伝
憧れのエステート劇場でモーツアルトの「ドン・ジョヴァンニ」のチケットを購入した時、流石に感動でちょっと手が震えました。まさか世界初上演された劇場(*他国の劇場だった説もあり)で、このオペラを直に見れるなんて。 ノートではずっとエジプトの思い出ばかり書いていたので奇妙に聞こえますが、私はオペラやクラシックにはまあまあ慣れ親しんだ家庭環境育ちでして、だからプラハでは気軽に足を運べる教会のミニコンサートや劇場が沢山あってワクワクしました。 それはさておき、オペラ「ドン・ジ
「現役時代、オリンピックも含めて数々の国際大会に出ました。だけども東京オリンピックが一番心に残っています。いい思い出しかありません。人々はみんな親切で、私は日本が大好きです」 大きな瞳でしっかりと私の顔を見て、そのように言い放ったのは『東京オリンピックの名花』の異名を持ったというベラ・チャスラフスカさんでした。 チャスラフスカさんに私がお目にかかったのは1998年。一時帰国するために、プラハの繁華街にある日本のお土産を買おうとボヘミアンガラスの店に寄った時でした。
NOTE創作大賞エントリーされた作品で、面白い!お勧め!と私が感じた作品をいくつかご紹介致します。 他にももちろんたくさんあったのですが、今回はこれらの作品です。 見えなくても愛(笑) 特別NOTE版 かわい いねこ 作学び度:★★★★★ ユーモラス度:★★★★★ ノンフィクション度:★★★★★ 学校図書にすべき度:★★★★★ かわいいねこさんのこの記事は、私も投稿にご協力させてもらったので、お勧めのトップバッターに持ってきました。笑 かわいさんはもともと目が
~1952年7月23日のエジプト革命から72年後の日の投稿にて~ 今年2024年は、ユダヤ系チェコ人カフカの死後百年目を迎える年です。エジプトのチェコ大使館では、外壁にカフカの絵いくつもが飾られました。(2024年3月6日から5月3日) 北京のチェコ大使館では、カフカ死後百年を記念するイベントにイスラエル大使館とオーストリア大使館も協力しました。 チェコ大使館単独でやるよりも、予算や宣伝の上でもメリットがあると判断し、カフカがオーストリア・ハンガリー帝国(AH)
ウィーンの街を初めて歩いていた時、貴族のようなクラシカルな帽子がショーウィンドウに陳列された帽子屋が多いことに、目が留まりました。 ボヘミアの赤いトルコ帽 帽子といえばですが、オスマン帝国トルコとその領土ではおなじみの赤いトルコ帽子の生産地は、AH(オーストリア=ハンガリー帝国)のボヘミア地方でした。 この帽子が生まれたのには、こんないきさつがありました。 1826 年、スルタンのマフムード 2 世は「帽子」についてどうしたものだが、と考えていました。 当時、