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世界初のエジプトパッケージツアー物語・〜ナイルクルーズ蒸気船の誕生〜トーマス・クックシリーズ ②

 トーマス・クック氏は初のパッケージツアーのご一行様をエジプトに連れてきました。1869年です。このエジプト添乗が彼の人生を大きく変え、そしてエジプトで初めての「ツーリズム」産業が誕生することになります。


開通式前のスエズ運河見学に感激!


  ツアーグループはアレクサンドリアの観光を終えた後、スエズへ向かうと、先にそこに到着し運河を見学していたお金持ちの個人観光客たちにはクスクス笑われます。
「いっそう、全員に同じ制服でも着させればいいのにねぇ」

 今までもどこに行っても悪口を言われていました。しかしクックは気にしません。なぜならツアーですでに相当儲かってウハウハなのと(←1845年からイギリス国内&ヨーロッパ、アメリカツアーを出しています。そして一体、いくら上乗せして販売していたのか、気になるところです)、旅行に自信のないグループメンバーが自信をつけていく変化を見るのを毎回嬉しく感じていたからです。
 またこの時のツアーメンバーたちも意に介しません。眼の前に見えているスエズ運河、そして運河のすぐ向こう側にはっきり見えているヨルダンとサウジアラビアの街に感動し、興奮しているからです。

トーマス・クックツアー ご婦人たちのスカートの裾が砂漠でいかに汚れたか、気になりました

ルクソールまで40日間かかるナイル川クルーズの移動 

 トーマス・クックグループは列車でカイロへ向かうと、今度はそこからダハビーヤ(意味は「ゴールド」)の船に乗りました。ダハビーヤとは大きな帆がある風力船です。しかし、そもそも風なんか吹いていません。よって実際は10〜12人がかりで漕いでいました。
 ちなみにこの船の歴史を遡ると約5000年前のたどり着きます。ダハビーヤは古王国時代から存在しており、遺跡の壁画あちこちにも描かれています。

 クレオパトラ七世とカエサルもこのダハビーヤで「ハネムーン」旅行をしていますが、ローマ帝国時代にはローマ人たちはこの帆船を笑い、彼らは「川上ホテル」として利用していました。

数千年前のダハビーヤ
クレオパトラ七世のダハビーヤ(イメージ)
トーマス・クックツアーが利用したダハビーヤ(例)

 このダハビーヤ数隻をエジプト総督が所有しており、不定期に運航していたのを船員込みでレンタル契約しました。多分、大変だったと思います。ちゃんと船が来るのかどうかも怪しいし…。

 トーマス・クック初エジプトツアーの行程は全部で三ヶ月でしたが、実はその大半は「移動」でした。というのは、ダハビーヤ移動はカイロールクソール40日間(140ポンド)、カイローアスワンは50日間(150ポンド)。むろん、帰りも同じ日数がかかります。

 それにしても人力船なので片道40、50日間かかるのはやむを得ませんが、料金がかなり高いです。なので、ドイツ人観光客などは自分たちでボートを作っていました。その方がダハビーヤをレンタルするよりも、漕ぎ人の人件費を入れても安く済みました。

 またダハビーヤの中には部屋数10あり、乗客はそれなりに快適でした。ただし、害虫やネズミがよく出たため、シーズンオフになると船ごと(つまりネズミも)川に沈ませてそれらを駆除しました。
 ナイル川に遺体が流れたり、そこで洗濯したり身体も洗っていましたから、1800年代の100年間に十以上もペストなどのパンデミックが起きたのも、少しも不思議ではありません。

 アスワンに到着すると、ツアーグループはカタラクトである岩の多い浅瀬(急流や小さな瀬がある)のところで下船。船着場というものはまだありません。

ホテルはない、神殿もぐちゃぐちゃじゃないか!

トーマス・クックツアーグループ 個人的に最後列左の柱に手をかけポーズをとっている紳士にウケます

 今度はダハビーヤでアスワンからルクソールに到着。十日かかりました。やはり船着場がないのでちょっと大変、、、そして神殿に向かいますが、馬車が通れる道幅もなく、ナイル川に沿った道路もありません。よって、全員ロバに乗って移動しました。 

 ようやく神殿に到着すると一同は唖然呆然愕然。
「これは観光地ではない…」

 いわゆる道がちゃんとない、神殿は瓦礫の山、足の踏み場が難しく歩きにくい、砂で埋もれている、神殿各部屋には人が住んでおり、遺跡の上にも現地の人間がごろごろ転がっている。

神殿の中の足場がこんな様子です↑なおプリンス・オブ・ウェールズの写真だそうで、多分石の上に座っている黒いコートの紳士じゃないかと…)

 しかも宿がないので、観光客はみんな古代の墓の中(!)やファルーカ(帆掛け船)の上、またはナイル川の岸にテントを張って寝泊まり。虫どころか蛇、ワニも出ます。大変です。

初のナイルクルーズ汽船を開発する

 このように、第一本目のエジプトツアーは驚きや戸惑いが多く、非常に苦労があったツアーでした。

 しかし意外にも参加したお客さんから大好評で、その後、ロンドンのトーマス・クック旅行代理店には
「俺もナイルクルーズの旅に行きたい」
と申込みが殺到。

 1870年代に入ってもエジプトのナイルクルーズツアーは売れまくり続けます。すると当然、真似をするライバル旅行代理店が登場するもので、アメリカ、ドイツの旅行代理店もエジプトのパッケージツアーを販売。

 しかも各国の旅行会社揃いも揃ってナイル川クルーズを謳い文句にし、ダハビーヤの争奪戦に展開。

「これはいかん」

 そこでクックは当時のエジプトのイスマイール副王に交渉し、副王が所有する小型蒸気船四隻ーメムノン船、セラピス船、ウナス王船、セティ船を独占レンタルする契約を結びます。

メムノン(1904、131x19 フィート)
セラピス(125x18 フィート)
ウナス王(110x18 フィート)
セティは、 1894 年にトーマス クックがナイル川岸のホテルを購入するまで、アスワンの水上ホテルとして使用されていました。(100x18 フィート)

 さらにツアーで定期的に小型汽船を動かすことにより、トーマス・クックがエジプト政府・役人の郵便物を運搬することをイスマイール副王に約束します。

 ちなみに、イギリスの海運会社P&O社は1848年にエジプトに参入していますが、彼らは3000頭のラクダ🐪を「採用」し砂漠を荷物や郵便物を、荒馬車で人を運んでいました。ナイル川を利用した輸送は行っていませんでした。なお、エジプトはP&Oの運搬物(人)には50%の関税をかけ、それで儲けていました。 

 トーマス・クックはイスマイール副王にカイロに造船場を開設し、各船着場も作り、アスワンとルクソールにホテルを建てること約束します。 
 クックはもともとイギリス国内ツアーしか出していなかった頃から、謎の広い人脈があったのですが、何度もエスコート(添乗)でエジプトに訪れているうちに、ここでも驚くべき人脈を広げていました。だからイスマイール副王に近づけ、他の旅行代理店を大きく引き離す独占契約を取れたのです。

 イスマイール副王の小型蒸気船は隔週ごとに運航させ、そのスケジュールにあわせてエジプトツアーをバンバン販売しました。「売れる」自信はあったのですが、案の定、空前のヒットを飛ばしました。
 なにしろ、川の移動時間が当然帆船のダハビーヤより比べ物にならないほど速いです。おかげで旅行の時間短縮にもなり、一気にブレイクしたのです。イギリス国外のお客さんからも申し込みが殺到。あまりにも人気なので船の各キャビンに二段ベッドを増やしました。

 さらにほぼ同時期、アスワンからスーダン北部のワディハルファまでのナイルクルーズツアー販売も始めました。現在は大部分がナセル湖となっている区間です。

 1877年になると、富裕層のお客さんの要望に応え、豪華ナイルクルーズ汽船も生み出します。1920年以降ですが、アガサ・クリスティが乗船したのは元々イスマイール副王が所有していた豪華蒸気船の「スーダン号」です。確か現在でも運航しているはず。

「ナイル殺人事件」の次回の映画リメイクでは、この蒸気船「スーダン号」でロケを敢行してもらいたいものです。
「ファーストクラス」客層向けナイルクルーズ蒸気船

 数年前、「ナイル殺人事件」の映画がリメイクされましたが、眠くなったので私は途中で視聴を止めちゃいましたが、1970年に作られた人造湖のナセル湖が出てくるとか、トーマス・クックの汽船じゃないとか、蒸気船の特有の音もない、「アングロ・エジプト時代」の雰囲気がどこにもない。もう本当に色々がっかりで、、、。

民間船、初の軍隊への貸出し

 1882年、エジプトではそのイギリスの事実上の植民地になり「アングロ・エジプト&スーダン(イギリス支配時代)」が開幕します。
 するとその二年後、イギリス軍のゴードン将軍からトーマス・クック(&SON)にこんな要望が舞い込みました。
「ナイル川を上りスーダンまでイギリス兵11000人、エジプト兵7000人輸送せねばならないが、御社の蒸気船を使わせてくれないか?」

トーマス・クック・ナイルクルーズ川蒸気船のイギリス軍隊

 スーダンは1820年にエジプトに攻められ、エジプトの領土になっており、
イギリス支配が始まるとスーダンも自動的にイギリスの領土になりました。 しかしこの年、スーダンのハルツームで大規模な反乱が起きたため、軍隊をそこへ送り込むことになったのです。まさかダハビーヤで二ヶ月もかけて行くわけにはいきません!

 よって急遽、トーマス・クックのナイルクルーズ汽船に目がとまり
「軍に貸してくれ」。

 しかし戦闘ですから、敵に攻撃され実際にハルツームに到着したクックの汽船は一隻もなく、大きなダメージも負いました。ドンパチするので船が壊れないわけがないものの、頭にきたクックは英国政府に補償を請求し、それが認められ同社は 1886 年に大規模な艦隊再建プログラムに着手しました。
 第二次大戦中、日本軍がB29を撃ち、そのB29の翼が我が家(私の父親の家)に落下したものの、一切家の修繕費など出さなかった日本政府とはああ何たる違いよ!

 壊れたクックの汽船のほとんどはイギリスから提供され持ち込まれた部品を使用してカイロで組み立てられました。2 隻はフランスで建造され、完成した船体はエジプトに曳航されました。

 これは民間船が軍隊に使われたという、初めてのことだったそうですが、第一次世界大戦のときにもトーマス・クックのナイルクルーズ川汽船はイギリス軍に貸出しています。

 とにかくナイル川の「汽船」独占でがっちり儲け(軍からの支払いも良かった)、そのお金でトーマス・クックはいよいよ「ホテル手配」の改革、初の旅行代理店エジプト支店設立、スエズ運河を利用した「77日間世界一周旅行ツアー」販売、そして「ルクソール観光地を作る」へ

                          つづく

スエズ運河開通により、ロッテルダムー横浜ーロシア周遊がこんなに近いそうですが、山手線マップのようですな…

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