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「名前がない何か」に耳を傾けること

この間、朝井リョウの『正欲』を読んで感動したのだけど、クライマックスに出てくる

「自分が想像できる“多様性”だけ礼讃して、秩序整えた気持ちになって、そりゃ気持ちいいよな」

というセリフを読んだときに、ふと「多様性って、結局何なんだろう?」という疑問が浮かんだので、忘れないうちに考えておこうと思う。

そもそも「マイノリティ」という言葉が世に出てきた理由は、なぜだろう?
きっとそれは、自分たちには「理解できない」、自分たちの「言葉に当てはまらない」他者を、自分たちにも「理解できる存在」として、自分たちの「言葉で捉えたい」という、マジョリティ目線からの定義なんじゃないだろうか。
そして、その言葉を作ったのがマイノリティ側であれマジョリティ側であれ、どちらにしろマジョリティの定める規範が優勢である社会から生まれた、概念であり言葉なんだろう。

私自身、世間の指標で見ると明らかに「ADHD」という「障害者」だ。
(自身のADHDについては後日投稿しようと思っています)
ときどき、「ADHDっていう障害名がまだ出てきてない頃は、ADHDの人たちは理解されなくて辛かったんだろうな〜」って意見があるけど、本当にそうなのかな?

そもそも何かに名前が付くってのは、「名前がない状態が気持ち悪い」からで、言い換えると「名前がついてない状態に耐えられない」人たちがいるってことだと思うんだけど、じゃあ名前がなかった頃の「ADHD」の人たちって、排除されてたのか?
昔の映画で、例えば「男はつらいよ」とか見てると、思う。寅さんとか特に典型的なADHDだと思うんだけど、別に全然生きづらそうには見えないんだよなぁ。
今で言うADHDの人って、当時は「なんかよくわからんけどよく遅刻する人」とか、そんなふうに思われてたんだろうし、少なくとも「忘れっぽい」とか「うっかりさん」とか、そういう言葉でぼんやり片付けられてたんだと思うけど…
それって、「ぼんやりしてるからだめ」なのか?

むしろ昔は、今みたいにちょっとうっかりしてることが多いぐらいで「自己責任能力のない異常者」ほどの扱いを受けてなかっただろうし、ただの「うっかりさん」ってだけで片付けられてたからって考えると、むしろ生きやすかったんじゃないかなあ。
だって、ただのうっかりさんが「ADHDなんです」って名乗らないと認められない社会ってさ…

むしろ時代が進むにつれて「名前がないことに耐えられない」=「何でも定義しないと落ち着かない」「アイデンティティがなければ社会参加できない」って思ってる「整理したい病」の人たちが増えてきたからじゃないんだろうか。
これはもう、経済成長に伴って都市化が進んだ結果として出てきた、現代病なんだと思う。
コンプラが厳しくなったのも、そのせいだろう。
「死」とか「性」とか、予想できないもの、自分の頭の中で綺麗に整理できないものに関しては、触れることさえ許さねーよって、そういうことなんだと思う。
まあ、何でも文章や言葉にしないと落ち着かない私もその一人なんですけどね…

それはともかく、私はそんな規範だらけの世の中はすごく息苦しくて、生き辛いなぁと思う。
別に、何を信じて何に耳を傾けるかは各々の自由で強制することではないんだけど、「何かに耳を傾けないこと」が暴力になる可能性がある、というか既に、現にその暴力はそこかしこで行使されているということを、私は忘れてしまいたくない。

そして自分自身も、そんな社会で生きていく中で「名前がない何か」に耳を傾ける力が確実に失われていることも自覚している。
だけどその自覚ありきで、できることはあると思う。
全てのものに完全に耳を傾けることはできないかもしれないけど、例えばこのnote一つとっても、「スキ」が全然付いていない投稿文の中から、自分が「スキ」だと思えるような文章って、いくらでも見つかると思う。

「スキが20個以上ついてないと読まない!」っていう人もいるかもしれないけど、実用的な情報ならともかく、自分の「スキ」を探すために不特定多数の「スキ」を指標にばっかりする人生なんて、きっと死ぬほどつまらない。
とにかく私は、そんなふうに「大きな流れ」から逸脱して自分の感覚を研ぎ澄ませていくことを、いつまでも放棄しないでいたいなと思っている。

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