言葉の化学反応
私は、以前は短歌や俳句、詩というものがあまり良く分からなかったのですが、30代半ばを過ぎたあたりに、室生犀星の詩や俳句を読み、一気に壁が壊され、分かるようになりました。もちろん、他の人々の作品も分かり、感じるようになりました。
室生犀星によって、私の感覚の壁が壊されたわけです。
ちなみに、犀星の小説も大好きです。
犀星についての個人的な思いは別に書くとして、ここでは、個人的に犀星によって理解出来るようになった「短歌・俳句・詩・その他」のことを。。。
私は、短歌や俳句、詩は、それ以前は小説を読むように読んでしまっていたのですが、それが良く無かったようで、ピンと来ていなかったのです。
それを、犀星の詩や俳句によって
「言葉と言葉の化学反応によって表されたものを受け止める」
ということを知ったのです。
言葉と言葉が出会い、ぶつかり、そこで生じた香りを味わう、という感じです。
例えるなら
「その作者が調合した香水をふっと嗅がされたようなもの」
なのだと思います。
それは、心を酔わせる良い香りばかりではなく、時に変なニオイであったり、これは好みの香りではないなあ、ということもあるし、時には臭い!ということもあるわけですが、しかしそれが正にその作品の個性なわけです。
その香水から、例えば
「ああ、春風が吹く、草原を歩いた時を思い出すな。。しかも、前日に雨が降ってから、直後に晴れたあの感じ。。木々や草が生き生きして、良い香りもする。。。」
というイメージが瞬時に湧き上がるような。。。
「あの時の、あの心持ちがフト蘇った」「ああ、ずっと感じていたけども、どうしても捉えられなかったことが今映像になって眼の前に現れた!」などなど。
そんなものだと思います。
例えば小説の文章などの場合は、書かれた文章で描写されたものの他に、行間に香るものがあり、その両者が面として、あるいは三次元的固まりとして、質量を持って伝わって来る感じです。
詩や短歌や俳句の場合は、より小さい単位の言葉同士の化学反応によって生じる何かを受け止める感じです。なので、より直接的な言葉同士の反応が起こる感じ。。。時に嵐のように激しく、時に頬を撫でる春風のように優しく。。。実に様々な反応が起こります。
だから、通常、言葉が持つ意味とは違うものすら、生じてしまうこともあります。
いや、むしろ
「言葉では説明出来ないことを、言葉で表現する」
という感じなのかも知れません。
その「言葉と言葉の化学反応で産まれる何かで表現されたもの」が「短歌・俳句・詩」なのだな、と思います。
が、自分で書くとなるとそれが本当にむづかしいですね。
文章が「詩的」になることがあっても「詩そのもの」を書くことは本当にむづかしいと思います。
個人的には、本当に当人の心情を表せて、かつ他人に伝達し増幅を起こすような「短歌・俳句・詩」を書ける人は、極一部の人だと思っています。
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