創作仕事で感覚が異様なほど敏感である必要はないと個人的には思います
先日書いた「過敏と鋭敏は全く違う世界」という記事 と似た内容のものを2015年10月10日に以前のブログに書いていたので、ついでにそれも・・・
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いつものどうでもいい話なのですが(笑)
私は、若い頃のいろいろな職業体験で、いろいろな一流コックさんや酒の醸造家、コーヒーの焙煎、その他飲食業界の「つくる人たち」は「味や香りに”異様に敏感”というわけではない」という意外な事実を知りました。
マンガや小説の主人公のような「超精密検出・識別機器のごとく異常な感覚の持ち主で、信じられないほどの知識があり、異常な記憶力があり、奇跡レベルの高等技術をいつでも披露出来る人」とは出会いませんでした。
しかし、そんな彼らの作り上げるものは、力があり、斬新で凄いのです。
むしろ、過敏なレベルで感受してしまう人は、その自らの過敏さに振り回されて終わってしまう人が多いようでした。
今の私の染や絵やデザインの仕事でもそうなのですが、異様に色を識別出来てしまうとか、異様に視覚的な大きさについて細かな違いを感じてしまうとか、だまし絵に全く騙されない眼と頭を持っているとか、その他何かしらの異様に優れたスペックを持っていたとしても「だからスゴいものを作れる!」というような簡単な話ではないのですね。
例えば、
利き酒で異様に見分ける能力の高い人=良い酒をつくる人になれるわけではない
利き酒で異様に見分ける能力の高い人=優秀なソムリエになれるわけではない
利き酒で異様に見分ける能力の高い人=優秀な酒類販売員になれるわけではない
などなど。
それに、過敏と言えるほど繊細な感覚を持っている人は、意外に多くいるものですし・・・
何にせよ、過敏なぐらいに敏感過ぎるとむしろ、普通一般の人との感覚の乖離が激しくなり、一般に理解されるものが出来なくなる傾向がある事実は良く把握しておかなければならないと思います。
ようするに「異様に敏感=過敏」であることは、一般の人々とのコミュニケーション上は必ずしも有効に働くとは限らないのです。モノづくりして社会に生きるということは、自分と社会との通じ合いが無ければならないのですから。
まあ、当たり前といえば、当たり前の話で「異様に味覚に敏感なグルメの人が料理店を開店したからといっても必ずしも流行るわけではない」わけです。
その人は「特殊な人」ですから、その特殊な人が美味しいと感じる料理を、一般の人が美味しいと感じるかどうかは分からないのです。
それと、異様に細部まで感じてしまう人=過敏な人は、一般の感覚の人からすると妙なところにいつまでもこだわって、そこばかりにエネルギーを注ぎ、結局、全体を仕上げることが出来ずに、ただやり散らかして自爆する、ということも多いような気がします。
もちろん言いたいのは「過敏なまでは必要ない」という意味であって、プロの場合は、普通の人よりは相当にいろいろな「検出・識別能力が高い」のは前提の話です。
「元々備わった過敏なまでに鋭い感覚」は、その業界のプロでもアマチュアでも、全然その業界に興味のない人でも、ある人にはあります。
プロではない人でも検出・識別能力が非常に高い人はいますし、また、プロ以上の才能を持つ人はいますが、しかしちゃんとしたプロの場合は、検出・識別したものを自分なりにまとめて増幅させ、昇華し、一般社会に通用する普遍性を持たせて表現出来るのです。
それが「プロ」と「とても才能のあるアマチュア」の違いです。
感受性の高い肉体を産まれ持った人で訓練を受けていない人、技術を磨いていない人は、肉体自体はいろいろなものを感じていますが「肉体が感じたそれを認識出来ていない」ことが殆どです。
例えば、味覚や嗅覚で、若い人は肉体が若く検出装置としての肉体が優れているので、劣化している中年の人々よりも沢山感受はしていますが、しかしそれを具体的に認識・整理出来ていないので、その人は感じていないことになってしまうのです。(特別な天才は除く)
だから、加齢による肉体の劣化が激しくなければ、キャリアの長いプロの方が「日々の訓練と経験により、味を検出し、分析し、識別し、適切な言葉に起こすことが出来る」=「味が分かる」ことが多いわけです。
肉体や精神がいろいろな物事を感受し、それをキチンと認識・整理し、それを他人に分かるように必然ある形にし、出力する、というプロセス全体を鍛え上げているのが、優れたプロなのです。
肉体の感受と頭での認識の乖離は、誰でも最初からあるのです。神さまの設計ミスなのか、そうなっています。だから、意図的に地道に丁寧に「感受と認識を結合させる」必要があります。
初期設定のままだと、配線・結合されている部分と、中途半端に配線・結合された部分と、間違って結合された部分と、全く配線されていない部分といろいろです。
だから意識して配線・結合する必要があります。
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一流シェフの元で修行していた時に感動したのは「新作の料理が自分のイメージに近づくように試行錯誤し、シンプルに集約させて料理を強くして行く姿」です。その求心力が強烈なのです。
まるで肉食獣が獲物を仕留める時のように、慎重に、忍耐強く、時に大胆にやるんですね。自分のイメージと現実が一致し仕上がるまで何度も何度も。獲物を仕留めて食べないと死んじゃうから真剣にやっている感じで、スゴい逼迫感をもって臨んでいる。。。
で、意外にそういうシェフでも「仕事モードに入っていない時にはそれほど食にウルサクない」という人が多かったのも面白く思いました。自分の店の料理のこと以外、また、何か飲食物を批評しなければならない時以外は、あまりウルサいことを言わない。
また、そういう「オンとオフがある」のも、作る側のプロの性質かも知れませんね。料理人ではなく「グルメな人」なら、年がら年中、飲食のことにウルサいでしょうから。。。
もちろん、異様な検出・識別能力を持ちながら、創造的で、自分の特殊性と一般の差異も理解把握し、つくる人もいるかと思いますが、私の経験上は、意外に極上レベルのつくり手の検出・識別能力はマンガや小説のようではないし(笑)なんでも細かいことにこだわるわけでもない人が多かったですね・・・
ただし「創作に向かう推進力」は誰もがスゴかったです。地球の重力から脱出するロケットエンジンのごとく爆発力と推進力。
むしろ、ある程度適当なところがある人の方が「伸びしろのある作品」をつくっていた気がします。あまりに細かいところまでこだわる人の作品は脆いというか「ある特定の条件だと良いのだけども、そこからちょっとでも外れると力を発揮出来ない」感じ・・・
ポイントをキッチリ押さえながら、ある程度大らかに作られたものは、想定外の環境であってもそれに影響されないで強い感じ・・・
そして、そういうものは世に出てから「作品自体が成長して進化する特性が」あります。
優秀なプロは、絶対に狙い通りに仕上げなければならない部分と、多少流しても良い部分を(むしろ流すことが必要だったりする)見極める眼と感性があると言えるかも知れません。何か作るのには、そちらの面も大切だと私は考えます。
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ものづくりにはいろいろありますが、今回の話題をまとめると
「どんなに精密な検出・識別機械のような感覚を持っていても、創造力と実現する技術がなければ素晴らしいモノはつくれない」
ということです。
「過敏」であったり「異常な状態」は、時々有効な飛び道具に過ぎないのです。
「素晴らしい作家や仕事人は、過敏で異常である、そういうイカれたヤツでないとスゴいものはつくれないという誤解」が多いのでこんなことを書いてみました。
まあモノづくりで「過敏な人のおかしなふるまい」が芸風の人もいますので、そういう人はそれが生活しやすいでしょうから、それで良いかと思います。
(でも私はそういう人と一緒に仕事をしたくないかなー、笑)
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