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過敏と鋭敏は全く違う世界

このnoteに似たテーマを既に投稿済だと思うのですが、noteには自分の過去記事の検索機能が無いようで、確かめるのが面倒なので、12年ぐらい前に書いた同じような内容のものを再度掲載します。

2007年9月22日に書いたものと記録がありましたので、このnote の自己紹介にある通り、私は同じことを、まるで新しいものを発見したかのように違う言い方で書くんだなと再確認。笑 この記事はそれに書き足したものです。

普段、あまり芸術云々という言葉を使わないのですが、ここではあえて使っています。

同じような話題はこちらにもあります→「創作仕事で感覚が異様なほど敏感である必要はないと個人的には思います」

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創作的な世界では、感受性が鋭い、敏感な方が良いと思われ勝ちですが、しかし「過敏」にまでなってしまうと、それは「ただの異常な状態」で表現する際には良くないと私は考えます。

長年、社会と関わる表現者でいられるようなレベルの人の(独りよがりではない表現者)「検出器官」は、極弱いものからかなり強いものまで検出範囲が広く、かつ検出精度が高く具体的で、その検出結果を常に表現と結び付けるように設計され作り上げられている、という特性があります。

ようするに、強靭なのです。脆いものではないのです。それは過敏なものではありません。

例えば、皮膚が剥けてしまって、微風が触れても痛いような感覚は正常ではありません。肉体でも精神でもそんな状態では、一般に通ずる何かを組み立てることが出来ません。社会一般に通ずるような何かを組み立て提示するのは、肉体にとっても頭脳にとっても大変な作業だからです。

その過敏な状態を「普通ではない状態だからこそ芸術を産み出す元になるのだ」とするのは、私は違うと思います。

仮に過敏に感受したとしても、それをキチンと出力することが出来なければ、世の中にそれは存在したことになりません。それに、ただ過敏に感じた通りのものを世の中に発信しても、それは他人からすれば、なんだか良く分からないものにしかなりません。

皮膚の大部分が剥けて大変な思いをしている人自身が、その状態で他人にも分かる形式で自分のことを書き綴り、普遍性を持つものに昇華したのであれば芸術になる可能性はありますが、現実的に、人がそんな状況にある時に可能な表現は、叫び声を上げること、うめき声を上げること、そして苦痛でのたうち回り、疲れ果て、ただ虫の息で横たわっていることぐらいでしょう。

そもそも「〇〇だから芸術が産まれた」という理屈は成り立ちません。

それは「人間を構成する物質を集めれば、命と固有の性格を持つ生きた人間が作れる」という理屈が成り立たないのと同じです。

たまに「人間の正常な状態が正五角形だとすると、芸術家はそれが極端に歪んでいる人だ」と、一部の極端な芸術家の例を出し、したり顔で言う人がいますが、私はそうは思いません。

五角形が極端に歪んだ人は「ただの変人」であって芸術家ではありません。そういう人は世の中にゴマンといますから、ある意味そういう人は普通の人です。

そもそも【芸術はいろいろな条件付けと時間から自由かつ、美を宿すもの】です。

だから【芸術はその発生原因からも自由】なのです。

(ここで言う美は審美的にキレイということではありません)

。。。と、私は「真正の芸術」について考えています。

例えば、五角形の一つの角だけに、ほぼ全てのエネルギーを注ぎ、他はてんでダメ、というような「エネルギーの特化」によって制作する人もいますが、それも「だから芸術家」ということにならず「いわゆる芸術家や研究者にはそういうタイプがいるよね」ということに過ぎません。

そもそも、誰だって集中している時には一時的に他がお留守になります。当たり前のことです。

私個人は「エネルギー特化型」タイプではないので、音や、味や色を過敏なまでに感じてしまう時には仕事をしないようにします。(他の仕事をする、あるいは休む)特にその状態で「判断する仕事」はしません。

それは、私の感覚がおかしくなっていて「その異常さに酩酊してしまい適切に動いたり判断したり出来ない」のと、その過敏な感覚で形にしたものは、冷静になった時にあらためて観ると全然面白くないし普遍性も無い、ということが殆どだからです。(意図的にその異常な感覚を利用することはあります)

「いわゆるエネルギー特化型芸術家」でも、その人が本物の芸術家である場合は、その特化された部分においては、非常に整合性があり、冷静な観察と適切な実行があります。傍から観たら激しい熱狂の最中にあるように観えても、その熱狂のなかに冷静さと適切さがあるのです。

仮に普通一般の人が狂死するほど熱狂したとしても、芸術品を残せるわけではありません。その熱狂を表現する観察と技術と経験が無いからです。ただ、その熱狂に巻き込まれ飲み込まれてお終いです。

「エネルギー特化型芸術家」たちにとっては、その極端な場所はやりやすい場所なのです。あくまでそういうタイプの彼らにとっての話ですし、毎回成功するわけではありませんから芸術が産まれる条件にはなりません。

現実的には「過敏」であるよりも「鋭敏で俊敏で適切あること」が、摂理に乗り普遍性があり、かつ最も過激だと私は考えています。

ニュートラルな感覚でいろいろな物事の殆ど全てを認識出来、かつ自然の摂理に触れ、必要なことを必要なだけ行為出来た時が最も斬新で過激な作品が残ります。鋭敏で俊敏であるには、正常であることが理想です。それも「超正常」であれば完璧です。

狂気や異常さに創作があるという夢想は、どこかからの、誰かからの影響、そして思考停止なのだと私は把握しています。

それは、どこかの小説家や映画監督が描写した「いかにも芸術家的な人物像」なのであって、多くの真の芸術家たちは、多少の異常行動があったとしても、あるいはかなり異常な部分があったとしても、制作や研究に関しては、基本的には地道な作業を誠実に繰り返し、面倒なことであっても辛抱強く行い、粘り強く創作したのだと私は思います。

偉大な芸術家たちの「その芸術家の人生を元に創作された伝記風小説」ではなく「最近の詳細な資料からなる伝記」を読むと、だいたい以前の芸術家像は「誰かが書いた小説の主人公だったんだ」ということが多い気がします。

それと、特別に資質と才能のある人の様子は、当人からすれば当たり前のことでも傍から観たら、異常、過剰に観えるのではないでしょうか?例えば、普通一般の人から観たら、野球のボールを時速165kmで投げる人は異常です。

一般的に芸術と呼ばれるものは、何かしらの苦しみや人間の精神の異常な部分、歪んだ部分、そして思想から産まれるように思われがちですが、個人的には、そういうことは「起因になることもあるが作品自体とはあまり関係が無い」と思っています。

なぜなら、ただの苦しみ、悲しみ、苦痛、異常な精神状態をぶつけたようなもの、思想の解説のような作品は芸術たりえないからです。それを昇華したものだけが、芸術品といえるのだと思います。

そういう意味では、芸術品といえるものは「超正常」から産まれるのだと個人的には思っています。

「超正常」も、世間からは異常に観えることがあります。自然現象は摂理そのままですから、超正常です。例えば、火山の噴火の様子を観た時に、人がまず受ける感覚は「制御不能の膨大なエネルギーから受ける畏れと美しさ」ではないでしょうか。

自然の摂理そのものは完全に開放されたエネルギーですから、人の精神の歪みや摩擦によって産まれた「いわゆる芸術的とされている」範疇を遥かに超えているわけです。

「超正常」の膨大なエネルギーは、一瞬で人々に浸透し、即座に機能します。だから「受け止めた人の感情をすり抜けて精神に定着してしまう」のです。「いわゆる感動」すら感じさせない。もっと素早く芯まで到達してしまうエネルギーです。そこには絶対性と客観性があります。

時に、人はそういう創作物を産み出します。実際、歴史的にも沢山残っています。しかし、そういうものはあまり芸術と認識されないようです。それは、元からそこにあるもの、と認識されるのです。人造物なのに、ああ、あの山はずっとずっと昔からあの場所にあるよ、という感じに。そして、その山は様々な恩恵を与え続けてくれるのです。

人間の精神の異常や歪みの状態から産まれた創作物と、超正常の状態から産まれた創作物では、エネルギー量が全く違うのでその違いは分かりやすいものです。

異常(過敏)から産まれるもの=それは単に異形であり、その違和感を感動と取り違えることが多い

超正常(過不足無い感受・鋭敏・俊敏)から産まれるもの=膨大なエネルギー

という違いです。

芸術は「超正常」から産まれる「超現実」という無限のものであって、主観的な「夢想や妄想」という有限のものではありません。

しかし、芸術家自身も「いわゆる芸術家像(古臭いイメージ)」を自ら演じている人たちの方が人気があり、ビジネスも上手く行っているように思います。

それもあって、余計に「芸術家は過敏な人たち」というような「妄想」が産まれるのかも知れません。


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