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 現在形と二人称の不思議 : 『鴨川ランナー』ブックレビュー

時間があんまりなくて、気づくと一年も投稿していない。読みたい本を何冊も買ったのに、ほとんど積ん読になっている。積ん読されなかったわずかな本の中の一冊を、note 復帰をかねてご紹介します。

米国人グレゴリー・ケズナジャットが日本語で書いた小説『鴨川ランナー』。暇をみつけて少しずつ読んでいけばいいやと思っていた。たぶんこれも最後まで読み切れないまま図書館の返却期限がくるんだろうなと思っていた。が、夜寝るまえに開いてみたら二晩で読み終えた。たいていの夜は、本を開いても一日の疲れが出てすぐに眠ってしまう。なのに、これを読んでいるときは少しも眠くならなかった。おかげでいつもより睡眠時間が数時間減ったけれど、それだけの価値はじゅうぶん、だ。

ひとことでいえば、外国人からみた日本の······なんてまとめはいたしません。まとめるなんて、この作品に失礼だ。
「そう、あの感じ······」と、言葉で説明したいのになんと言っていいかがわからないことってあるでしょう。それを言葉で、それも母語ではない日本語で伝えようという試み、とでもいうか。この作品を的確に表現できる言葉が見つからない。いや、そもそも本作には的確さを拒むなにかがあるように思う。

主人公は、日本の言葉に興味をもち、英語指導助手として来日した若者だ。彼は日本社会に違和感を抱きながら起伏に欠ける毎日を送っている。異文化に融け込みきれない自分にときとして苛立ちをおぼえるのだが、やがて日本の小説を読む楽しさをおぼえ、少しずつ日本になじんでゆく。本作はそのプロセスを綴った物語だ。

これといって派手な出来事が起こるわけではない。単調で、わりとかったるい感じの日常描写がえんえんと続く。単調なのだが、なにかこう不安定な、浮き草のようにふわふわ定まらない感じもある。
たぶん文体のせいだろう。動詞がほぼすべて現在形なのだ。
だから、ものごとや思考がいつまでたっても過去形によって帰結されない。事態になかなかおさまりがつかない。私が眠気も忘れて夜半に読みふけったのは、現在形動詞のはらむ不安定感、足場の心もとなさに引きずられたせいかもしれない。

さらに不思議なのが、主人公が自分のことを語るときに用いる代名詞だ。
著者は主人公に、「僕」でも「私」でも「俺」でもなく「きみ」という二人称で語らせる。
なぜ一人称を手放したかという疑問がおのずとわく。
主人公は日本にやってきた英語話者で、日本に住みつき、やがて大学で教えるようになるという設定だから、たぶん著者自身の体験も部分的に投影されているのではないかと思う(著者はいま法政大学の先生をしている)。だったら「僕」とか「私」とか「俺」で語ってもいいじゃないか。

しかし、読みすすむにつれ、一人称を直立させることの危うさに私は薄々気づきはじめる。著者は一人称と慎重に距離をおき、「私」や「僕」という唯一無二の自分に溺れること、そうすることで異文化を性急に判断してしまうことを避けているかのように見える。なかなかその一部になれない目の前の世界(=日本の日常)と、そこに浮遊している自分を理解しようとするとき、一人称をくっきり立てると直線的な(もしかしたら底の浅い)理解に終わりかねない、ということはないか······なんてことも頭をかすめる。
ほんとうの現実はそんなに直線でも明快でもなく、薄ぼんやりしてうまく説明がつかなかったり、まどろこしくて理屈が通っていなかったりする。
日々は主人公の焦燥をよそに流れている。そこにはただ、そこに生きる人たちの暮らしがあるだけだ。目の前にただ流れているだけの日常と、自分がそこから遊離している感覚を描くのに、「I」では個が立ちすぎてしまうということなんだろうか。

では三人称を使うとどうなるかと考えてみる。
異文化で戸惑う自分を描写するのに、三人称分の距離をおいてしまうと、わかったふうの異文化論になりかねない、論じてしまいかねない、と私は思ったのだった。
ちょうどいいのは自分の傍ら、自分の隣にいる人の視点。ほんの少し離れた距離から自分の目の前のものを“そのまま受け止める”こと。それは赤子が言葉をおぼえていくときのプロセスにどこか似ている。ひとつひとつ、ゆっくりと、目の前のものに集中するプロセス──。

日本の小説に魅せられた主人公は、みずから原稿用紙のマス目に日本語を埋めてゆく快感に出会う。彼の書く文章には光景の描写が続く。
「たとえそれは自分の文章であっても」、彼は自分のことを登場させたくない。「自分のいない日本語のほうが、やはり美しい」と言う。
ああそうか、日本語って光景描写の言語だったのか、と私はそこでまた膝を打つ。

自分の気づいていなかった、あるいは薄々感じていたけど言葉にできないでいた母語の質感、それを使う日本人の質感が肌に沁みてくる。その沁みる感覚は、すみません、言葉におきかえられないので、どうぞ読んで、感じてみてください。

異文化に飛び込んだ人間のアウトサイダー感を現在形と二人称でみごとに描ききった、日本語や日本人について頭ではなく肚(はら)で理解させてくれる力作です。

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こんなに言葉が溢れているなかから、選んで、読んでくださってありがとうございます! 他の人たちにもおすすめしていただけると嬉しいなあ。