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精神病院物語-ほしをみるひと 第十二話

 幻聴は波のように断続的に起こっては消えていった。まるで聞こえない一時、僕は自分の現状をどう考えればいいのかわからなくなっていた。この日は、幻聴がない日だった。
 今日の給食は少し嬉しかった。焼きそばが夜のメニューとして出たのだ。
 僕は病院で出る味の薄い焼きそばが好きだった。いつも物足りない病院食で、焼きそばは量を感じるし、食べているときの弾力感も心地良い物だった。食べても食べてもまだ残りがある感じがして、圧倒的満足感を得られる貴重なメニューだった。
 最近、来宮さんは姿をみせない。体調が悪いのか、もしかしたら退院してしまったのか。
 しかしいたとしても、やはり僕にはどうにもできなかった。ホールですれ違ったときも、僕は目の置き場に困り、あからさまに右から左へ視線をそらしてしまう。確実に相手から不審に思われるようにしか振る舞えないのだ。
「あんた死にそうな顔してるけど、具合悪いの?」
 フルーツポンチをつまんでいると、首長のギザギザ頭のおばさん、花村がお盆を前に置いた。
「具合はいつも悪いですよ。病人ですから」
「顔も具合も悪そうだけど、そうじゃなくて。あんた好きな女の子がいないからしょげてんだろ」
 なんでこの人がこのことを知っているのかと思った。だが今はオーバーリアクションをする力も湧いてこなかった。
「なんで知ってるんですそのことを」
「見てりゃわかるよ。あんたがその不細工顔でときめいたり、恋をしのんだりしているのを見てると、あたしは悲しくなってきてね。人間ってのはなんて悲しい生き物だろうってつくづく思うんだよ。切ないわーホント」
 壮大に馬鹿にされているようでちょっとムッとした。
「あなた馬鹿にしてるんですか」
「ごめんごめん。あんまり不細工っていわれると傷つくよね。それより来宮さんって二十四歳なんだって。あんたの方がよっぽど老けてみえるけど、それでも二十四歳って若いよね」
「二十四歳」
「退院する様子もないみたいだから。とりあえず頑張ってみたら。無理だけど」
 そうか。まだこの病棟にいるのか。いちいち一言多い人だな、と思ったが、こんな情報自分では絶対得られない。わざわざ世話を焼いてくれるところをみると、このおばさん結構良い人なのだろうか。
 食事の後は薬が配られる。やかんに入れられた水をコップに汲んだ後、渡された薬を順番に飲んでいく感じだ。看護師がみているところで飲むので、基本的にズルをして捨てることはできない。
 順番を待っていると、頭の禿げたおじいさんとトカゲ顔の三浦が順番の食い違いから揉め始めた。薬の順番などで揉めなくても良いと思うが、火がついてしまったらしく激しく罵り合っていた。
「てめえふざけんな先並んでただろうが」
「馬鹿野郎おめえがここにいなかったから俺が入ったんだよ!」
「俺が並んでたんだよ俺が!」
「うるせえな、てめえの声はでけえんだよ!」
 激しい罵り合いが繰り広げられ人だかりができる。周囲の何人かの患者が笑っていた。
「やめなさいやめなさいって!」
 こういうもめ事を収めるのはいつも看護師である。二人は顔を真っ赤にして怒っていたが、お互いに捨て台詞を吐き合ったところで、ひとまずこの場は収まった。元々しょうもない理由から始まった喧嘩である。
 思えば看護師というのはハードな職業だ。週に何回か夜勤はあるし、力仕事は多いし、医師への報告のためかなにか詳細なレポートを書いているのをみたこともある。その上、狭い空間で起こる患者同士の衝突を収めなければならない。
 自分には無理だろう。野辺や堀のことは素直に凄いと思うが、職業としての憧れは全く湧いてこなかった。
 僕の順番になって薬を渡されると、ちょっとした変化に気づいた。夜は八錠薬を飲んでいたが、いつもより一錠だけ減っていたのだ。
 主治医の言う、薬の組み替え、は実際に行われているらしい。僕は減らされた薬がどういう効能を持っているのか知らない。本当は薬など一錠も飲みたくないので、減ったことは単純に嬉しかった。
 薬を捨ててしまう人の話は、沢山聞いた。ただの風邪なら何日何週間と薬を飲めば大抵治る。だが向精神薬はいつ治るとも知らぬ病のため何年何十年と飲まねばならない。嫌になって止めてしまう気持ちは理解できた。
 しかし飲むのを止めることで、更に症状が悪化して再発すると聞いている。これは一体どういうことなのだろう。死ぬまで副作用に苦しみながら飲み続けろということなのか?
 この理不尽なバックグラウンドが、僕の絶望を一層深めるのだ。
 今日やるべきことはもう眠剤を飲むことだけである。テレビは他の患者に占領されていたので、大人しく病室に戻ることにした。
 部屋に入った途端、僕は気圧され思わず「うわ……」と声を漏らした。爆発頭の患者、西尾が何故か下半身を露出させたまま、布団の上で眠っていたのだ。
 しばらく唖然としていたが、これには耐えられずナースステーションに向かった。頭の中がなにか強い薬でも打ったかのように歪んでいた。
「なに? 下半身が裸? うわーまいったなあ。ごめん、ちょっと待っててすぐ行くから」
 野辺から返事はもらったのでじきに改善されるだろう。僕はため息をついた。あんな裸は少しも見たくなかった。
 僕が陰気な顔をさらしながらうろうろしていると、野辺と堀が出てきてくれた。ナースステーションには絵原という男性の看護師と、女性の看護師二人が残っている。
 僕の病室に入ると、野辺と堀が西尾にズボンを履かせていた。西尾はどこをみているのかわからない目で、うめき声をあげている。そもそも何故この人はズボンを脱いでそのままにしていたのか。
「少年! よく見ておけ! これが世の中という物だ!」と堀が訴えていた。野辺は野辺で「頼むからもっといい仕事をくれ」と嘆いていた。
 消灯の時間になってからも、相変わらず西尾のうめき声はひどかった。しかしこれにはもう慣れるしかなかった。(つづく)

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