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精神病院物語-ほしをみるひと 第十三話

「トランジスタかぁ、トランジスタかぁ」
 夜中の二時頃だっただろうか、酔っぱらいのような音調の声が二つ先の部屋から聞こえてきた。
「パソコン、リモコン、マイコンコン」と歌っていたおじさんの声に違いなかった。あまりに個性的な歌だったので、僕はあの人のことを密かにコンピューターおじさんと呼んでいた。本名は未だに知らない。
 うるさいことにはうるさいが、僕はだんだんコンピューターおじさんのことが気に入ってきた。至近距離からのうめき声に比べれば牧歌的といえるし、歌の言葉一つ一つに内容があるので聞いていて楽しい。
「トランジスタかぁ、トランジスタかぁ」
 コンピューターおじさんの歌が続く。トランジスタ? トランジスタっていうと、パソコンの部品のことか? 随分パソコンにこだわるけど、あの人コンピューター関連の仕事についていたのだろうか。
 病棟に長くいると、少しずつ患者の個性がみえてきて面白かった。たとえば木元という患者は車の会社で営業をやっていたらしい。病気をしなかったらずっと勤めていただろうといっていたが、転びそうなくらいに前屈みで歩く姿からは想像もつかない。
 延岡というおばあさんは実に親切な人だった。笑っているときに目が笑っていないのはただ表情が動かせないだけで、絵を描いている僕によく声をかけてくれる。
「毎日頑張ってて偉いね。目がキラキラしてるよあなたは」
 こんなことをいってくれる人は初めてだった。ここに入ってから目の輝きなど消えてしまったと思っていたが、この人はなお輝いているといってくれたのだ。
「わー絵を描いてると楽しいな。時間が早く進んでくな」
 延岡は丸と三角と点を組み合わせた絵を僕の鉛筆で描いて楽しんでいた。どこか子供らしい遊び心が和ませるところがあった。
 延岡は大家族のおばあさんで、たまに家族が面会にやってくる。歳をとって病気になったとしても、あれだけの家族がいるのは幸せなことではないか。
「トランジスタかぁ、トランジスタかぁ」
 コンピューターおじさんの酔っ払いのような歌は一向に止まない。どうもうるさいというか、おかしくて寝られそうにないので、僕は病室を出て、夜の廊下の散歩をすることにした。
 廊下を徘徊していると、ナースステーションの中で、江上と他の女の子が座って話をしているのがみえた。よくみると隣にいるのが来宮さんだということに気づき、僕は緊張した。いつもだったら入れてくれとドアを叩くところだったが、このときばかりは僕はもじもじして、ナースステーションの前をうろつくばかりだった。
「なんだ滝内少年眠れないのかい? 仕方ないな、入りなよ」
 野辺がドアを開けて入れてくれた。女性の看護師小堀が来宮さんと江上を交えて楽しげに話をしている。
 深夜は夜勤ということになるので、看護師の数は二人か三人である。患者が全員寝ていることが前提なので普段は特に問題ないようだ。たまに僕らみたいな寝られない患者の相手をしてくれる時もある。
「滝内君じゃない、どうしてこんな時間に起きてるの。フフ、君は未成年でしょ」
 江上が意味ありげに笑う。一方、来宮さんの汚れ一つない、眩しいばかりの麗しい顔に思わず息を呑んでしまったが、彼女自身は表情を一切変えずに黙っている。なんだか不審な目でみられているのではないかと、僕は気が気でなかった。こんな強引に話の輪に入ってしまってよかったのだろうか。
「来宮さんこの人知ってる? 凄い目立つから知ってるよね。滝内正高っていうんだよ。少年って呼んであげてね」
 フルネームで紹介か、と突っ込みたかった。変なあだ名も一緒に紹介されてしまった。
「あ……滝内です」
 来宮さんはどこか一歩引いたような心を許さぬ目つきで僕をみて、少しだけ頭を下げた。
 やはり、僕は警戒されている。いつもすれ違うとき、あからさまに目をそらすことを彼女はわかっているだろう。そういう不自然の積み重ねで嫌われたことは数知れず。仕方のないことなのだ。
「君は、いつも色々やってるよね。なにをやってるの?」
 なんと来宮さんが開きかけた花のように微かな笑みを浮かべ、僕に話題を振ってくれた。
「は、はい! えっと、絵を描いています」
 漫画、とは何故か恥ずかしくていえなかった。
「将来漫画家になりたいんだよね、少年は」
 江上が僕の言葉に余計な補足を入れる。
「凄いね。私、夢ないからな。羨ましい」
「夢が、ない?」
「うん、全部捨ててきた」
 来宮さんの瞳に暗い光が宿った。天使の羽毛の如き輝かしい魅力を纏ったうら若き女性が、事もあろうに夢を捨ててしまったといっている。それは一体どういうことなのだろう。
 思えば、僕は消えてしまいそうなくらい小さな意志ではあったが、心のどこかで常に夢は持ち続けていた。だから僕と大して歳も変わらない来宮さんの絶望が、想像できなかった。
 僕は言葉に詰まった。夢の話をしていたが、いつの間にか聞いてはいけない話題になっているように感じられた。
「ごめん」
 来宮さんが突然つぶやいた。最初わからなかったが、視線を僕に向けているところをみると僕に謝ったようだった。
「私、なんだか具合悪くて……」
 来宮さんは両手をクロスさせ、自分の腕をつかむと、ガタガタと震えだした。
「大丈夫? 来宮さん!」
 江上が来宮の肩をさする。
「調子悪い? もう病室に戻った方がいいよ?」
 女性看護師の小堀も来宮さんの肩に手を添える。
 僕はその様子に気圧されながら、眺めているしかなかった。好きな女の子が苦しんでいるのに、僕はどのようにも振る舞えなかった。
「病室に戻ったって……同じ。私はいるべきところにいなきゃいけない。そうじゃなきゃ、どこにもいる場所がなくなってしまう」
 来宮が消え入りそうなか細い声でいう。その言葉に僕は深く打たれる物があった。彼女の本音に違いなかった。
「でも、このままじゃ危ないよ、休まないと」
「江上さんが行くっていうなら、私はそこに行く」
 来宮さんはそういうと、耳を華奢な両手で塞ぎ、震えていた。小堀が来宮さんに声をかけ、なんとか病室へと送っていった。
 結局、ほとんどまともにしゃべれなかった。僕は、来宮さんに迷惑をかけてしまったのかもしれない。
「ごめんね、少年。でも仕方ないよ。あの娘、凄く病状が悪いんだ」
「いや、なんだか、すみません」
 病気のせいなら、まだ良かった。だけど僕は来宮さんの秀麗な顔が苦しみで歪むのを見て、どうにも良心が痛んで仕方なかった。
 一方、江上はどこが悪いのかわからないくらい元気だと思った。
「私? 私は統合失調症だよ。ずっと認めたくなかったけど、結局こうなる運命だった」
 統合失調症は僕と同じ病気だが、運命という言葉がひっかかった。なにか訳ありのようだった。
「血筋がね、統合失調症の一家なの。お父さんも、兄弟も、みんな頭おかしくなっちゃってね。私は絶対ならないつもりだったけど、遺伝には逆らえなかった」
 精神病が遺伝するという話を僕は信じていない。実際迷信の類だといわれているが、ケースとして親族が重ねて発症することがないわけではなく、江上の言葉をどう捉えたものか悩ましいところだった。
「みんなのことが、嫌いだった」
 江上が付け加えるように呟いた。僕はハッと顔を上げ、江上の顔に目をやった。
 少女のような幼い顔に、静かな陰が落ちていた。(つづく)

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