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精神病院物語-ほしをみるひと 第五話

 消灯時間になると病棟は闇に包まれる。たとえ日本代表のサッカーの試合があろうと、二十一時でテレビも消されてしまう。
 日中散々寝たせいで、寝付きが悪い。というか夜の方が圧倒的に眠れない体になっている気がする。目が冴えて仕方ない。
 こういう夜中でも眠れない患者がホールに出てきて、コーヒーなどを飲んでいることを知っている。そんなものを飲んだら余計眠れなくなると思うが、コーヒーは安価で飲める嗜好品だった。外の世界にいたときのように自由に物など買えないのだ。
 病棟の中で関わっている人は看護師と高見沢くらいである。ホールに出る気にはならなかった。出てもやることなんて、なにもない。
 孤独は感じなかった。大勢の中で感じる孤独を味わわされてきたので、誰も彼も繋がりの薄いこの病棟にいてもなにも引け目はない。ここでは皆、平等に孤独なのである。
 おじさん二人がいびきをかいて寝ていた。昼間あれだけ寝ていてよく寝られるなと思うが、体調も飲んでいる薬も違うのだろう。
 夜の時間を何時間も目をつむって過ごすと、ようやく浅い眠りにゆっくりと沈んでいった。
 が、二時間後、ジイイイイイイイイイイという振動音に起こされた。
 なんだ? なにが起きたんだ? まだ真っ暗じゃないか! せっかく眠りにつけたというのに、一体どうして起こされてしまったんだ?
 目を凝らして音の方向をみてみると、隣のベッドのおじさんがベッドの上で電動髭剃りを使って髭を剃っていた。今は午前三時である。あまりの非常識な光景に呆気にとられ、徐々に貴重な眠りから起こされたことへの怒りが湧いてきた。
「ちょっと何時だと思ってるんですか……?」
 僕は抗議の声を上げるが、彼は一向に髭剃りを止めようとしない。僕は心底うんざりしていたが、なんとか阻止しないと眠ることができない。というか向こう側のおじさんはどうして寝ていられるんだ。
「いいかげんにしてください! 人の迷惑を考えなさいよ!」
 少し言葉を強めて抗議をすると、おじさんは豆鉄砲でも食らったような顔をしてようやく髭剃りを止めて、ため息をつきながら布団に入った。僕は釈然としなかったが、とにかく髭剃りを止めさせることができたのだ。
 それからはずっと眠りにつくことができなかった。そういえば高見沢がいっていたが、不眠で苦しむ人は多いらしい。
「夜寝れんくてね。眠剤が効かねえんだよ」
 昔は日中に動いて、夜は寝ていた。ある日どんなに寝られなくてもサイクルは維持していて、次の日には修正されていた。だけどこの病気になって、薬という異物の影響を受けると、その辺りが狂う。日中も夜も眠くなる僕はまだ良いのだろう。長い夜を、冴えた頭で過ごさねばならない苦しみはいかほどのものか。
 僕も髭剃りで起こされてからは一向に寝られなかった。徐々に夜が明けていく様をみせつけられ、ついにラジオ体操の時間になった。
 朝の早い患者たちがホールの方に向かっている。仕方がないので僕もベッドから出て参加することにした。
 ホールに行くと何人かの患者と看護師が集まっていた。机の上にはCDプレーヤー。ラジオ体操第一が流されている。
 母に言われてショックだったが、明らかに病気になってから自分の歩き方はおかしくなっていた。いつの間にか腕が常に前にあって、ろくに動かない。さらに体も不自然な程、前屈みになっていたのだ。母に歩く練習をしてみたらといわれたのも屈辱的だった。今までなんの意識もなくやっていたことができなくなっている。
 実際このラジオ体操でもおかしかった。腕は伸びきらず、角度も違うと感じた。
 しかし今はこれが正常な状態なのだ。なにもかも、仕方がないのだ。
 朝食がきた。パーキンソン病の症状の治療をしていた時は、おかゆを食べるのがやっとだったが、あまりにも不味すぎたのでパンに変更してもらった。
 パンには貴重な甘味がある。ジャムやマーマレード、マーガリンなどがついてくるので、その日の気分で好きな味付けで食べられるのが良い。刺激に乏しい病棟においてこれは毎日の生命線といっても過言ではなかった。
 小さい袋から絞り出す橙色のマーマレードを引き伸ばし、パン全面に細くかけて食べはじめた。甘いは優しさである。こんな人生の僻地にいるのに、この時ばかりは少し心が豊かになっていく気がした。
 途中、おやと思って目を二つ先の机に向けた。目の細い女の子の横で最近入ってきた髪の長い茶髪の女の子が座っていた。小動物的なつぶらな瞳が人形のように整った顔に可憐さを醸している。
 この病棟にもあんな娘がいるのか。僕は不思議と物凄い得をした気分になっていた。彼女がなんの病気でここに入れられているのか気になった。
 しかし患者の入れ替わりは結構激しい。病棟に馴染むのを待たずにいなくなってしまう可能性もあった。
 それに……いたところでどうだというのだろう。昔からあんなかわいい女の子とはまともに会話もできない。好きだと思った女の子と上手く話したこともない。
 もっといえば僕は元々平凡だった顔が薬の影響で、目つきの悪い猫のような禍々しい顔に変わってしまっていた。髪はほぼ丸坊主で、とてもあんな高貴なオーラを醸した女性にお近づきになれるわけがなかった。話しかけられたらどれほど良いかと思うが、自分の浅ましさを同時に感じ、いつもいろいろな可能性を諦めるしかなかった。
 ……もう嫌だ。ずっとこんなんか。一生こんなんか。
 僕は悲しくなって詰め込むように食パンを貪ると、お盆を片づけ自分の部屋に戻ってしまった。そして再び布団にくるまり、毒沼の泡のごとく湧いてくる負の感情に悶々とし、いつしかまた眠っていた。(つづく)

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