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精神病院物語-ほしをみるひと 第十七話

 外泊までまだ二日も待たねばならなかった。僕は心のどこかで、外泊さえ決まってしまえば後の時間はすぐに過ぎてしまう、と思っていたのだ。
 しかしそれは大きな間違いだった。なにもやることのない時間は敷き詰められた砂袋のようで、いくら潰しても先がみえなかった。
 昼の番組では芸能人が健康豆知識について話し合っている。有益かもしれない情報が僕の耳から耳へ素通りしていった。
 花村と愚にもつかない話でもしていた方がマシだったが、花村は体調を崩して寝込んでいるようだった。江上も最近部屋から出てこないし、来宮さんに至ってはまだここに入院しているのかどうかもわからない。女性患者のエリアの情報は基本、女性から聞くしかなかった。
 爆発頭の西尾はホールでうめき声をあげながらふらついている。心なしか声が小さくなっているのは、彼なりに気を使っているのか。
 他にも白髪の老人、無口な中年女性、白髪のおばあさん延岡がばらばらの場所で座って時間を過ごしていた。
 長く病棟にいても、なんの交流もない人というのはいる。一人でいるのが楽という気持ちはよくわかった。
 もっといえば、病棟の中でひきこもってしまう人もいた。随分前から入院していたらしいが、個室からほとんど出てくることがなく、看護師と面会に来る家族としか会っていないようだった。昨日入り口の開け閉めの際に偶然目撃したのだ。水色のパジャマを着た気弱そうな、太った男性だった。
 驚いたこともあった。車椅子で介護されていた太郎というおじいさんが、自分の足で歩いているのを目撃したのだ。
 震えて小さい歩幅でゆっくりとではあったが、あの人は車いすから立ち上がり、確かに畳の上にあるテレビのリモコンを取って、チャンネルを回していた。車椅子で介護されるレベルではあるが、いざとなったらある程度は動けるということだった。
 そのリモコンだが、今はコンピューターおじさんの手のうちにあった。この呼び方も相当失礼とは思うが、おじさんはリモコンを持ちながら「リモコンリモコン」と呟いていた。本当に、こういった物に執着があるらしい。
 この人の秘密を知る機会は、多分ないだろう。会話すら成り立たないかもしれない。だけど僕は不思議なくらい、この人に好感を抱いていた。誰かに特別危害を加えることもないので、嫌う理由がなかった。
 畳でコンピューターおじさんがリモコンをみつめる様子を見守りつつ、不意に顔を上げた。
 その刹那、血の気が引いた。爆発頭の西尾が鬼の如き形相で、今にも襲い掛からんばかりの勢いでこちらに向かってきたのだ。
 アッ、アアアアッ! これは……絶対にやばい! 助けてくれ! と心の中で悲鳴を上げた。僕は身構えようとしたが、萎縮して体が動かなかった。
 しかし、彼の標的はこちらではなかった。西尾は僕の横を素通りすると、何故かコンピューターおじさんに向かって飛びかかっていったのだ。
「うおおおああああっ?」
 僕はその場で腰を抜かしてしまった。おじさんが大した理由もなく暴力を振るわれようとしているのは明白だった。すぐに看護師を呼ぶべきだったが、既に事は起こってしまっている。
 しかし次の瞬間、形勢は逆転した。おじさんは西尾に二発のカウンターパンチを食らわせてノックアウトし、西尾は後ろへ殴り倒されてしまったのだ。
 この病棟に来て一番のバイオレンスな事件だったが、すぐに看護師が異常に気付きやってきてなんとか場を収めた。おじさんは看護師の制止で追い打ちすることを止め、ただ無言で西尾を睨み付けていた。西尾は特に怪我をした様子もなかったが、かなり辛そうな顔をしていた。
 コンピューターおじさんは想像以上に強かった。彼は看護師にボソボソと状況を説明すると、じきにまたリモコンを見つめる方に戻っていった。
 一方、西尾は看護師二人に押さえられ、ナースステーションの方に引っ張られていった。
 結論からいうとそれからしばらくの間、西尾を見ることはなかった。状態が悪すぎるため隔離室に入れられたらしい。なんの脈絡もなく他人に襲い掛かるくらいだから仕方のない処置といえる。僕としても同室のおじいさんと「戻ってこないで欲しいね」という話をするくらいには迷惑していた。
 とても良い形でとはいえないが、結果的に入院中の悩みが一つ消えたようだった。(つづく)

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