精神病院物語第三十二話

精神病院物語-ほしをみるひと 第三十二話

 退院が近づいているのを感じていた。
 休みなく通っていることを考慮され、デイケアには午前、午後の両方に通うようになった。薬も一回六錠に減った。主治医から次の外泊の話も出ていた。
 順風満帆にみえるが、幻聴は断続的に起こっていた。それも医師に話すようになっていた。医師は「自分で幻聴をコントロールできるのは好材料です」といっていた。
 もっとも、本当に酷いときにコントロールできるとは思えない。幻聴という物は増殖する魔物みたいなもので、気づいたときには手がつけられなくなっている。今はかろうじて水際で抑え込んでいた。
 来宮さんのいない病棟は寂しい物だった。あの人がいたことで、僕は独りよがりなときめきや、心強さを感じていられたのだ。
 来宮さんのか細く、可憐な表情が忘れられない。かと思えば燃えたぎる炎のような激しさも兼ね揃えていて、僕が知らない一面がまだまだ沢山あったのではないかと思っている。
 体調が非常に不安定だった彼女のことが心配だった。だけどいくら思ったところで、最早来宮さんは手の届かないところにいってしまった。
 だから、僕は祈ることにした。
 自分も、来宮さんも、病棟のみんなも、家族も、小滝さんも、これからはそれぞれみんなが上手くいきますように、と。
 夕食の薬を飲むと、なにもすることのない暇な時間が押し寄せてきた。小説はもうすぐ読み終わるが、それでもすぐに読み切れる量ではない。今は疲れているので小説など開く気にならなかった。
「暇だ。尋常じゃなく」
 無駄に呟いてみた。奥の部屋ではお爺さんが戦前の朝日新聞を読み返している。あれは御子柴に借りた物だった。
 ふと、御子柴になにか別の漫画本でも借りようか、という気になった。あの人のことだからまた外出中に古本屋で別の漫画本を調達しているかもしれない。漫画なら小説より気楽に読めるはずだ。
 僕は廊下に出て御子柴の部屋に向かうと、手前の病室から御子柴が飛び出してきたのでびっくりして「わっ!」と声を上げてしまった。ジャストタイミングだったが、妙だなと思った。
「おおい! 滝内君大変だ」
 御子柴がしわくちゃの顔を青くしていう。僕はその部屋が御子柴の病室ではないことを認識した。そこは太郎が入っている個室である。
「なにかあったんですか?」
「やばいんだ! とにかくやばいんだ!」
 御子柴の目が泳いでいる。なにかとんでもないことが起こっているのかもしれない。
「とにかくこっちに来てくれ!」
 御子柴の切羽詰まった声に引っ張られ、僕は太郎の部屋に入ってみた。すると太郎が息を詰まらせたように、ガクガクと激しく痙攣していたのだ。
「これは……大変だ!」
 太郎には痙攣のあまり首を天に突き立てるような、明らかに危険な症状が出ていた。僕は心底恐ろしかった。
「俺、看護師呼んでくる! 見ててくれ!」
「えっ? いや、はい!」
 緊急事態である。御子柴がナースステーションの方にすっ飛んでいった。
 しかしそうはいっても、僕は一体どうすればいいのだ?
 太郎の激しい苦しみようはどう見ても命に関わるものだった。すがるようにぎょろつかせる太郎の目を見ていると、なんだか見殺しにしているような気持ちにさせられるのだ。
「オッ、オッ、アアッ、オッ」と絞り出すような声を出している。体でもさすってやったほうが良いのか。判断に困り、ここにいられなくなるようなひっ迫感に襲われ、僕はパニックになりそうだった。
「わあああ……どうしよう。どうしようもないけど……」
 太郎の苦しみもがく様を見守っている時間がとてつもなく長く感じたが、そのうちに看護師たちがやってきた。堀が身体を支え、太郎を元気づけている。それから野辺と絵原が移動ベッドを運んできた。僕はもうここから離れた方が良いと思い部屋を出ようとすると、何故か高見沢と江上が一緒になって入ってきた。
「ええっ?」
 声をかけようと思ったが、二人は青い顔をしながら僕を素通りして、太郎の傍らに張り付いていた。
「どういうことだ?」
 何故この二人がここに、このタイミングで来たのだろう? 僕は心底不思議だった。
「死ぬのか? あんた死ぬのかよ!」
 高見沢がうなだれている。さらに驚いたことに、江上がその場に崩れ落ち泣き出してしまった。
「いやあああああ。もうこんなのイヤああああ」
 高見沢が看護師となにか話している。看護師がどうするか? と聞いたのを高見沢が何度か頷いていた。
 そのやり取りが終わると、太郎が運ばれていった。高見沢が顔を押さえて泣いている江上の肩をポンと叩くと、江上は「ほっといてよ! あんたなんかになにもいわれたくない! あんたが悪いんだ! 私はなにも、なにも悪くない!」と怒鳴りつけていた。
 呆気にとられた僕は、自分が完全に野次馬になっていることに気づいた。自分の病室に戻ろうとすると、江上が泣きながら部屋から飛び出していった。体がもろにぶつかった僕は少しバランスを崩して横に倒れそうになった。
 なんとか体勢を立て直したが、落ち着かない気分は続いていた。特に驚いたのは江上のことだ。あんなに激しくとり乱すのをみたことがなかった。いつも笑顔で、快活なしゃべり方をする女の子だったはずだ。最近はちょっと不穏な様子だったけれど、きっと余程の理由があったのである。
「いやあああ、お父さんごめんなさい! ごめんなさい……! ごめんなさいごめんなさいごめんなさい! うあああああああ!」
 江上が廊下の隅で、誰かのことをお父さんと呼んで泣きじゃくっている。なにか声をかけたかったが、なにも言えなかった。
「なんだってんだよ。訳わからねえ」
 御子柴も唖然としている。太郎の部屋にはもう高見沢しか残っていなかった。
「悪いな滝内少年。見苦しいところをみせて」
 僕は驚いた。高見沢の目が潤んでいたのだ。それで僕はなんとなく、高見沢と太郎、江上の関係性に気づいてしまった。
 そんな馬鹿な、とも思う。だけどここまで条件が揃ったら、そうとしか考えられない。
「家族、だったんですか? 皆さんは」
 高見沢はハアと疲れのわかるため息をついた。
「そうだよ。俺たちは一家揃って病気になっちまって。親父がもう長くないのはわかってたから、一緒の病棟に入れてもらってたんだ。やめとけよと思ったんだけどな。案の定、お互いが顔を合わすたびに睨み合う始末だよ」
 高見沢は太郎に対して妙に違和感のある対応をしていた。江上は、家族がみんな病気で、それが嫌だったのに自分も病気になってしまったといっていた。さっきのやり取りからいっても、円満な家族とはとてもいえなかったのだろう。
「親父は、くたばるだろうな。全くひでえ親だったぜ。酒は飲むわ、女遊びはするわ。死んだらせいせいすると思ってた。だけど、あんなに嫌だったのに、なんでか知らねえけど涙が出てくらあ……」
 高見沢が腕で目元を拭う。僕も御子柴も返事ができなかった。
 太郎のことを、高見沢はずっと嫌っていた。高見沢の話が本当なら結構な酷い親だったのだろう。それでも、いまわの際には悲しくなるものなのか。
「あそこで泣いてる妙子は、もう俺のことを家族だとも思ってねえ。結婚のことも、ここに入院するまで知らなかったよ。畜生がっ」
 江上の名前は妙子というらしい。旧姓は、高見沢妙子ということである。二人が兄妹として過ごしていた日々を、僕には全く想像できない。
 こんな家族もいるのか。僕は高見沢家を垣間見ることで、自分自身の家族のことを考えさせられた。
 僕は、父や母、兄のなにもかもが好きなわけではない。だけどみんな、それぞれギクシャクしながらも自分のやるべきことをやって過ごしている。少なくともこの高見沢家のように機能不全、空中分解に陥ってはいない。
 僕はそれだけでも大変恵まれているのだと悟った。
「高見沢さん元気出せよ。場所変えて気分変えようぜ」
 御子柴が気まずそうに言う。一人で逃げてもいいくらいなのに、つきあいの良い人だと感心してしまう。
「場所変えるってどこも行くところなんてねえだろ。病室かホールしか」
「ねえなあ。確かに」
 これでは話が止まってしまいそうなので、僕は一つ提案をした。
「なら奥の窓から夜景でもみましょうよ」
 御子柴が「なに言ってんだあんた?」と首を傾げている。しかし高見沢にはなんとなく伝わったらしい。
「夜景? そういや少年はよく眺めてるよな」
 この病棟にいる人たちの多くは僕が窓から外を眺めているのを知っている。僕にとってこの行為は天体観測であって、街宇宙の星々を羨望の眼差しでみつめているのだ。
「じゃあついてくよ。こんなところにいるよりマシだ」
 廊下を三人で歩き、すぐに窓にたどり着く。
 僕と高見沢、御子柴は小さな窓を共有し、星々を眺めた。変わらない場所で光る星。流れるように光る星。営みの輝きが今日も僕の視界に届いてくる。
 本物の空でみた星も、今見ている星も、光を遠くから眺めているという意味でなんら違いはない。あれこそが、今の僕にとっての宇宙なのだ。
「ただの夜景だな、少年」
 高見沢が少し僕を責めるようにいう。星の光に見とれていた僕には心外な言葉だった。
「行ってみたい、とは思いませんか?」
 僕は病棟の敷地内からここのところ出ていない。自由と、自由にいられる元気な心が欲しかった。
「ヒヒヒ、あんなところ俺たちはいつでも行けるんだよ」
 そういえば御子柴や高見沢は看護師に手続きをして、よく外出をしている。本屋に行ったり、お菓子を買ったりしているようだ。それでも、行動範囲は知れているが。
「外出許可もらってればそうでしょうね」
「こんなものを眺めてて少年はいつもなにが楽しいの?」
 高見沢にいわれて少し言葉に窮したが、ごまかす頭も働かなかったのでそのまま話すことにした。
「いやあ、なんか星を眺めてるみたいだなって」
 御子柴が僕をみながら胡散臭そうに片目を瞑った。なに言ってんだこいつ、と言いたげだった。
「へえ? 滝内君はあれが星に? ヒャハハ、退院が遠いね」
 高見沢もヘラヘラと笑い出して「全くだ。あと一年くらい入院してるんじゃねえか」と辛辣な言葉を向けてきた。
 酷い言い様である。皆の気分を直すために提案したのに、かけられる言葉はボロカスだった。
 なんだって、あと一年入院だと?
「冗談じゃない……嫌ですよ」
 僕はそういってまた星空に目をやった。高見沢も、御子柴も部屋に戻ればいいのに律儀に眺めている。
 この世界はとても広いのに、僕らはこの病棟で、長い時間を過ごしてしまっている。
 もっとやりたいことが沢山あるはずだった。知らないことを知る機会、新しいことに挑戦して、なにかしら成長だってできるはずだった。
 本当はこんなところで、機会を奪われ続けていてはいけないのだ。今を生きている僕たちは、生きている間はこの手に光を掴んでいかないといけないのに。
 赤、橙、青、緑、金色、鮮やかに光る星々も、ここから見えるのはほんのごく一部に過ぎない。この病棟は僕たちにとって、あまりにも狭すぎる。(つづく)

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佐久本庸介
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