精神病院物語第三十一話

精神病院物語-ほしをみるひと 第三十一話

 僕は競争相手が見えなくなった道程を、延々と走り続けている。
 最早コースはまっすぐですらなくなっていた。酷い悪路で、途中には茨が敷かれ、毒の霧が舞っていた。僕は傷つき、汚れ、先の道へ進む意味を見失っていた。
 いくら先に進もうと、僕のライバルたちはとっくにこんなところはクリアして、全く違う段階に進んでいる。
 最早恨めしいという気持ちもなかった。ポツンと残った自分が惨めで辛いだけだ。
 今、走っている僕はなにを求めてこんな苦しい思いをしているのだろう? 胸が苦しくて横腹が痛い。足もボロボロだ。自信なんて全部削がれてしまった。
――下り坂にさしかかっている。

 デイケア初通所日。僕は配給されたお茶を水筒のコップで飲みながら、落ち着かない気分で午前中を過ごしていた。
 新しいことを始める時は、いつも緊張する。それでホールと病室を行ったり来たりしていたが、親しい人は誰もおらず、ただ時間が過ぎていくだけだった。それでも今日は特別やることがあるので、その過程もなんだかいつもより楽しかった。
 昼食のカレーライスを食べた後、僕は金髪の看護師に連れられて病院の敷地内にあるデイケアセンターという場所に向かった。久々に病棟の錠を通って外に出ると、思わず顔がほころんだ。
 なんだろう。病棟の中とはやっぱり違う。なんていうか外にいると、自分が進んでいくって感じがするのだ。
 一分ほど歩くと、デイケアセンターにたどり着いた。建物の作りは北欧風で、木造ならではの温かみが感じられる。入り口に入ると、ガラス越しに見えるスタッフルームに職員たちが座っていて、下駄箱の先ある大部屋では利用者たちがそれぞれ思い思いに過ごしているようだった。
「初めまして。所長の赤井といいます」
 赤井と名乗る太った熊のような所長に挨拶をされた。
「なかなか精悍そうな少年ですね。滝内さん、か。失礼ですがおいくつですか?」
 精悍? 嘘だあ、と思ったが、僕の年齢を話すと赤井はわざとらしく驚いていた。
「とりあえず時間が来るまで奥で待っていてください。空いている席に座っていただければ大丈夫です」
 金髪の看護師がついてくるのはここまでで、一旦病棟に戻っていく。僕はとりあえず靴を脱いでスリッパを履いた。
 大部屋に入ると、いささか強いプレッシャーを感じた。利用者たちは例外なく年上で、老年、中年層だった。白髪だったり禿げていたり、皺だらけだったり服装も古めかしくて、活気とかはあまり感じない。第一印象の暑苦しさは相当なものである。しかし僕も坊主で死んだような目をしていてパジャマを着ているわけで、人のことなど全くいえない外見をしているのだった。
 自由時間があるが、デイケアに知り合いなど一人もいない。僕はテーブルの端に座って、他の利用者たちがそれぞれ会話をしたりトランプをしたりしているのを黙って眺めていた。如何にここが緩い場所なのかが伝わってくる。
 そういえば、今でこそ僕は結構しゃべるが、病棟でも入院当初はなかなか他の患者とコミュニケーションがとれなかった。そういう意味では最初に高見沢がよく絡んできてくれたことは大分助けになったように思う。
 こんな僕も、病棟の中では少しずつ人間関係を構築していった。それは高校でも、大学でもできなかったことだった。
 当時、自分はどうして上手く友達が作れないのだろう、と何度も悩んだ。当たり前のようにコミュニケーションをとれる人が心底羨ましく、怖かった。友達を作れないことでいろんな人に笑われて馬鹿にされた。
 しかし入院してみてわかったことは、環境、人間次第で僕にも多少のコミュニケーションはとれるということだった。これは何気に驚くべきことではないか。
 しかし、結局病棟で作った人間関係は退院してしまえば、なかなか会えなくなってしまう。今の僕が外の世界で同じように振る舞えるか、といえばまず無理だった。
 だけどここはどうだろう。デイケアセンターの人たちはみんな年上で、正直今も気楽だ。僕はどうしようもなく駄目なところから立ち直っていこうと思っているが、まさに格好の場所にいるのではないか。
 この場所でなら、僕はやり直していけるかもしれない。
 先になにがあるかなんてわからないけれど、少なくとも今よりも前向きな明日がみえる。少しずつ自分が駄目だったこと、駄目になってしまったことを修復していけたらいいのではないか。
 昼休みが終わると、利用者たちは一階と二階の二つのスペースに分かれて別々のプログラムに参加する。一階では卓球、二階ではヨガをやるようだった。少し迷ったが、僕はまず経験のある卓球をやってみることにした。
「今日は初めて参加するメンバーを紹介します」
 赤井がそう前置きすると「滝内さん」と名前を呼ばれた。
「滝内さんはなんと十九歳という若者です。間違いなくデイケア史上最年少のメンバーです。皆さんからしたら息子、いや孫かな?」
 老年中年のメンバーが和やかに笑う。パワーには欠けるが、悪い雰囲気ではなかった。
「十九歳なんて、私の孫より若いわあ」
「良いねえこれから青春があるから」
 少し居づらくなることもいわれた。青春という物が必ずしも輝かしいとは限らない、と思うからだ。それが気に障るのも偏屈な性分かもしれないが。
 それから机と椅子を端へ押しのけて、個室から卓球台が運ばれてきた。
 ラケットは古いものがいくつか用意されている。僕はペンハンドの卓球ラケットを持ち、軽く素振りをしてみた。こんなことをするのは高校の部活で引退して以来である。
 あの頃から僕はちっとも上手くはなかった。基本的な技術さえ満足には扱えなかった。そうはいっても部活でやっていたわけなので、一応素人よりは打てる自信があった。少し打てば多少のブランクは修正できるはずだ。
 利用者たちは沢山いる。職員がホワイトボードにリーグ戦の表を作り、試合を割り当てていく。僕はまず相当に太った坊主のおじさんと試合をすることになった。おじさんと向かい合い、僕は動きが固くなった身体でラケットを構える。
 おじさんがサーブを打った。まずピンポン球を台にポコンと落とし、それをラケットで打つというやり方だった。これが公式戦だったらこの時点で反則である。しかしここでは通用する打ち方のようだった。
 僕は飛んできた球をスイングした。前に飛ぶ、はずだった。
 球は右斜め上にカーブを描き、あらぬ方向へ飛んでいってしまった。
「ええっ?」
 嘘だろう、と思った。前に飛ぶどころか、最低限のコントロールも効かなくなっていた。ただのブランクだけでこうはならない。僕は病気になって、治療することで、こうまで卓球が下手になってしまったのか。
 この試合はお互いミスだらけのかなりレベルの低い接戦となったが、幸い僕のコントロールは打っていくたびに少しずつマシになっていた。辛勝したものの、試合が終わった後は負けたような気持ちになっていた。
 他の利用者が試合をしている中、僕は並べてある椅子に座って、力なくため息をつく。
「ここから始める、にしても、落ちに落ちたところからでは大変だ……」
 僕は周りに聞こえぬように小さくぼやいた。本当に、僕はとことん弱体化しているのだ。
 その日はこんな感じで半日を過ごした。病棟に帰った後は自分で思っている以上に疲れていて、ほとんど病室のベッドから動けなかった。
 それから僕はデイケアに毎日通うことになった。次の日、今度は野辺に連れられ、同じようにデイケアの職員に引き継いでもらった。
 今日は他のメンバーとは別メニューで、所長の赤井と二者面談の形となった。赤井は沢山の穴の開いたボードを僕に差し出した。穴のサイズはビー玉と同じで、これにビー玉を入れることでパズルのようなゲームをするようだった。
 赤井がいくつか規則的にビー玉を配置した。ルールとして僕は好きなビー玉を二つ先の穴に移動させることができて、飛び越えた穴のビー玉を消すことができる。最後にビー玉を一つ残し、他を全て消すことができたらゲームクリアということになるようだ。
 僕は少し迷ったが、すぐにそのゲームをクリアした。もっと難しい配置もあるようだが、そこまで楽しくて、どんどんやりたい感じでもなかった。
「いやあ、実に頭脳明晰です。難なく終わらせてしまいました」
 赤井がわざとらしく目を丸くしている。
「まさに子供の遊びといったところですね」
 僕は本音のままをいった。診断テストにしても、あまりにレベルの低いところからやっているなという印象だった。
「とんでもない。これがわからないで悩んでしまう人は大勢いるんですよ」
 赤井の言葉に、そんなものだろうかと思った。僕の言い分も思い上がったことなのかもしれない。
 それから赤井から今後のデイケア利用についての説明をしてもらった。デイケアは週五で開かれていて、午前午後それぞれいくつかプログラムがある。僕は毎日どのプログラムに参加するのか選択することができた。
 といってもそれほど沢山の選択肢があるわけでもないので、大体毎週同じようなことをやることになるらしい。卓球、カラオケ、カードゲーム、街歩き。これもまさしく遊びである。心のリハビリとはこういうものなのか。
 赤井との話が終わると、女性の職員からアクトという手作業に誘われた。大多数の利用者が他のプログラムをしている最中、少人数で用意されたキットを使い、自分のペースで小物を作っていくものだった。
 横に座っているお爺さんはチマチマと和紙をボードに張り付けて一枚絵を作っているし、横のメガネのおばさんは細い紐にビーズをはめていき、ネックレスのような小物を作り上げていた。
 僕もいくつか見本を見せてもらうと、指輪やブレスレットのような見た目の良い物がたくさんあった。
「お金を出せば作った作品を買うこともできますよ。もちろん作るだけでも大丈夫です。一つやってみませんか?」
 女性のスタッフが微笑みながらいくつかキットを並べてくれた。どれも仕上がれば綺麗な小物になる。
 僕はふと、こうして作った小物を来宮さんにプレゼントしたらどうだろうと思った。すぐに駄目だろうと思い直したが、スタッフの勧めで試しにネックレスを作り始めた。
 贈るわけではない、と何度も自分に言い聞かせた。こういう安易な考えを僕はついついしてしまう。考えを押し込めながら、僕は一つ一つビーズを紐にはめていく。
 だんだんとペースよくビーズを通していったが、とても時間内には終わらなかった。デイケアのプログラムが終わると、堀が迎えにやってきた。
 ここのところデイケアへの通所のおかげで、病棟から定期的に解放され、外の景色をみることができた。といっても病院の敷地内だけだが、外は空気も、景色も、清々しく鮮やかだった。
 夜はいくらか疲れていた。僕はホールで座っていたが、病室に戻ろうかとも思っていた。ただ、今病棟に戻っても夕食まで時間があるし、その後も時間がある。潰さねばならない暇を思うと、ここを離れる気がいまいち起きなかった。
 例えば今、社会で楽しいことや、辛いことの狭間で自分なりに落としどころを見つけながら生きている人たちが、突然こんなところにたたき込まれてしまったらどうなるだろう。生きていた世界が一変し、自由を奪われ、いつ出られるかもわからない日々を過ごしていかねばならない。当然気が狂わんばかりに絶望するのではないか。
 だが僕はもう三ヶ月近くここに入っている。いつしか地獄にも適応し、僕はこの潰しきれない時間に、ひたすら辛くてしんどいことに慣れてしまった。
「あんた相変わらず死にそうな顔してるね。体調悪いの?」
 花村が心配そうに声をかけてきた。最初見たときのガリガリ具合は大分まともになり、ギザギザにたてていた髪の毛も首にかかるくらいに下ろしている。健康的なオバサンにみえた。
「体調は仕方ないですよ。どうしたってよくはならないです。ここにいて絶好調だったことなんてありやしません」
「まあそうだよね。そうそう、そういえば」
 花村は三つ先の机で力なく身を屈めて座っている西尾を指さした。西尾は長いこと隔離室に入れられていたが、最近病棟に戻ってきたのだ。僕は警戒していたが、戻ってきたといっても西尾は別の病室にいるようで、僕の隣の病床はどういうわけか未だに空いたままだった。それで大分助かってもいた。
「前はあんたんとこの部屋の人だったっけ? 西尾さんすっかり牙を抜かれちゃって、あれは辛いよ」
 僕の隣のベッドで寝ていたあの厄介な西尾だったが、かつてのバイオレンスな剣幕は薬で抑えられてしまっているようで、今では気の毒なくらいになんの気力も湧かないようだった。
 僕はあの人に滅茶苦茶迷惑していたし、実際必要な処置だったのだろうが、人間、薬でああも変わってしまうものなのか。あれではさすがに、という気はする。
「あの人、可哀想なんだよ。奥さんに先立たれて、もう家に帰ってもひとりぼっちなんだよ」
 花村が僕の知らない西尾の情報を話し始めた。ちょっと聞いただけで耳を疑う内容だった。
「ちょっと待ってください。なんですかその話?」
 僕は西尾を二度見した。西尾は気力のない無表情な顔で、力なく自分の手元を眺めながら座っている。
 あの素行の悪かった西尾に、そんな悲しい境遇があったなんて想像もしていなかった。どちらかといえば、僕はあの人を悪人扱いしてはいなかったか。
「寂しい寂しい言っててね。あたしはあの人と一時よく話したから、そういうこと知ってるんだよ。しかし本当見てるだけで痛ましいね」
 僕はなにも言えなくなってしまった。そんな話は聞きたくなかった。なんだか考えるだけで辛くなってきて、あの人を悪し様に言っていた自分の気が咎めるようだった。
「あとさ、これ言いにくいんだけど。あんたには教えとかなきゃいけないだろうね」
 花村が思わせぶりな言い方をした。この人からは今まで僕の知らない耳寄りなことを何度も聞かせてもらっている。なんだか嫌な予感がした。
「なにかあったんですか?」
「それがね……」
 花村が言い淀んでいる。そんなに迷うほど重大なことなのだろうか。
「あんたにはショックだろうけど、もう来宮さん、この病棟にいないんだよ」
「えっ……?」
 胴体に細かいヒビが割れていき、一気にバラバラに砕け散った。
 これは錯覚だが、それくらいの衝撃を受けた僕はなにも返事ができなかった。自分がこれほどの衝撃を覚えることが惨めに思えるくらいだった。
「本当わかりやすいわあんた。こっちまでいたたまれなくなるよ」
 僕は必死で、呼吸を整えた。どれだけ受け入れ難くても、これは嘘ではない、事実なのだろうから。
「……そうですか。でも、めでたいことじゃないですか。元気になったんですね」
 しかし花村は渋い顔をして顔を横に振る。
「めでたくなんてないよ。あの娘は転院したの」
「転院ですって? 退院じゃないんですか?」
 花村が目を伏せる。僕は次の言葉を待ってみたが、これ以上の事実は、なにもないようだった。
「転院って、それじゃ、あの人は」
「ここじゃ治しきれなかったのか、なにか事情があったのか、わからないけどさあ。あの娘も大変な人生歩んでるよね」
 それで話は終わった。花村は行ってしまったし、ホールに親しい人もいない。しかし次になにをする気力も湧かず、僕はしばらくこの場所を動く気にならなかった。
 僕は、あの人のことを、同じ道の先を歩いている先輩のような気がしていたのだ。夜のホールで思いの丈をぶつけてくれたことは、今でも胸に熱く覚えている。おかげで僕は、自分の中の地獄と戦う気持ちになれたのだ。
 これが退院だったら、寂しいながらも新しい門出を喜ぶことができたのに。もしかしたら、この先病院で再会することもできたかもしれないのに。きっと僕は、そんな未来を夢見ていた。
 僕はなんとなく、来宮さんとはもう二度と会えない気がした。短いながらも十九年間生きてきた僕には、こういう別れもあるのだということを知ってしまっていた。
 その週、ずっと僕は調子があがらなかった。そのことに嫌悪感を覚えながらも、感情のコントロールが効かない自分がいた。本を読む元気もなかったので、幻聴が聞こえている間はずっとベッドに伏して目を瞑っていた。
 リハビリは休まなかった。どれだけ寂しい思いをしても、僕はもう歩みを止めるわけにはいかない。僕は、退院して外の世界に立っていかねばならないのだ。そう決めたのだ。
 ビーズのネックレスは作りかけのまま、それきり手をつけることはなかった。(つづく)

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