精神病院物語第十六話

精神病院物語-ほしをみるひと 第十六話

 外泊の日は決まった。待ち遠しい気持ちは僕の入院生活を彩ってくれた。あと三日我慢すれば、外に出ることができると。
 しかし……潰しても余りある時間は、相変わらず重くのしかかっていた。今は午前中の十一時だが、昨日から今日にかけて寝続けたせいで寝ることもできなかった。寝過ぎると寝るのが苦痛になってくるのだ。
 だから僕は絵を描いていた。漫画家を目指すのであれば、寝ることより優先して描くべきなのだが、今の僕は仕方がなく描いてしまっている。これが自分の夢みる未来に繋がるなんて、とてもじゃないが思えない。
「どれどれ? うっわ! ヘッタクソ! これは漫画家にはなれませんよお」
 僕のやっていることを馬鹿にする女の声が聞こえた。自分でもそう思うが、言われたくはない。ムッとして顔をあげると、首長の女、花村が立っていた。入院してきた頃はガリガリに痩せていたが、最近食事をしっかりとっているせいか、まともな体つきになってきた。
「うるさいなあ。なれるかなれないかなんて人に言われたかないですよ」
「まあ良いじゃん。この先長いんだし、リハビリしながら絵を描き続ければ? 漫画家にはなれないけど」
 嫌な話だった。花村にいわれて、あまり考えないようにしていた将来のことが憂鬱になってきた。
 三日後に外泊して、また次の機会に外泊して、将来的に退院できたとして、僕にこの先なにがあるのか、未だにみえていなかった。
「あんたは不細工だし才能もないし病気も治らないかもしれないけど、真面目でいいよね。そのうち誰かと結婚して幸せになるといいよ」
 結婚ときたか、と思った。この人は遙か先の、みえないところの話をしている。それだけ僕より長く生きてきたからいえることかもしれない。
 そこで僕は、少し意地の悪い冗談をいってみることにした。
「花村さん……たとえばおたくの三人のお嬢さんで、誰か一人をもらい受けることはできないのでしょうか?」
 それを聞いた花村はカッと目を見開いて「バッカじゃねえの。やるわけねえだろ! もったいない!」と全力で否定してきた。
 だよなあ。と僕は心の中で笑った。馬鹿にされていること前提でも、こうして頭を使って話している時は楽しかった。
 花村が呆れて行ってしまった後、僕は引き続き黙々と絵を描いていた。母が買ってきてくれるヤングジャンプ最新号のマンガを模写していたが、生まれてくるのはどれも低クオリティの落書きばかりである。気を楽にして描いてみれば線がふにゃふにゃになるし、集中して描けば少しまともになるが、やはり平面的でデッサンも大きく狂う。なおかつ疲れる。
 何度も思うが全く楽しくない。こんな作業からはなんの未来も見えやしなかった。自分にとって前向きなことが苦しいことばかりでは、どこにいたって辛いだけである。
 昨日、外の空気を吸ったときに感じた希望、果てしなく広がってみえた未来は、全部まやかしだったというのか。
 悔しかった。昼食を挟んで、僕はなお絵を描いていた。意地で続けていたが、気持ちは絵に入らず、ふにゃふにゃな絵がスケッチブック中に描かれていくばかりだった。
「あんた、まだ描いてんの? 大丈夫かよ? 具合悪くならねえの?」
 声をかけてきたのはまたしても花村だった。この人も余程暇を持て余しているらしい。
「あたし、知ってるよ。あんたが最近調子悪いってこと。そんな無理すると病気によくないと思うけど」
 確かに、僕はかなり無理をしていた。幸い幻聴は小康状態だが、疲れた疲れた疲れた辛い辛い辛いという気持ちを押し殺して、絵を描き続けていたのだ。
「とにかくもう絵を描くのやめて部屋に戻れよ。寝られない? だったらテレビ観てればいいじゃん」
 テレビでは人気ドラマの再放送が流れていた。木村拓哉がパイロット役を演じている。
「いやあ、キムタクかっこいいわ。それに引き替えあんたは……及びもつかないなあ!」
 比べる相手が間違っているだろう。花村の遠慮のないからかいにゲンナリさせられた。
「頼むからキムタクと比較するのはやめてくださいよ」
「あ、そこのキムタクに似てる看護師さん、あたしたちと一緒に話しましょうよ」
 キムタクに似ているらしい看護師は花村に呼び止められると、僕らの席に駆け寄った。
「絵、上手いじゃん。俺も昔描いてたよ」
「描いていたんですか?」
 それならばどんな絵を描くのか、みてみたかった。僕は鉛筆を看護師に渡すと、看護師は繊細なタッチで、いくらか大き目な目が特徴の少女絵を数分で描き上げた。真ん中に分けた巻き毛が個性的で、少し構えた拳から戦う少女だということがわかった。
「上手い、ですね」
 素直にそう思った。やはり描いていたというだけのことはあって、同人誌に載っていてもおかしくないようなイラストに仕上がっていた。
「うわあ! 漫画家目指してる人より、その辺の看護師の方が、絵が上手いなんてびっくりだわー!」
 花村の言葉にはなにも反論できない。僕は、今までずっと積み重ねてこなかったから。
「退院したら色の付け方勉強して、この絵に彩色してみてよ」
 キムタクに似ている看護師は笑ってそういうと、仕事に戻っていった。
 彩色。そう。絵は鉛筆だけで描くものではない。マンガにするならペンで清書しなければいけないし、トーンを貼って模様や効果を付けねばならない。カラーイラストにするならそれなりのキットやツールを手に入れて勉強しなければならない。それこそが僕がみたいと思っている、未来だったのではないか。
 その日の夜は、ずっと眠れなかった。寝過ぎたせいもあるが、沢山話したせいか、いつもより頭の中で考えることが沢山あったのだ。
 ここの生活に慣れたせいか、最近よく夢をみる。東京で声に追われて逃げ続ける夢、病気で学校を休み続けて、久しぶりに学校に行ったら自分の居場所がどこにも残っていなかった夢、同じ列にいたみんながどんどん先に行って、僕一人がコースを外れて迷走している夢。
 中学で僕に暴力を振るって馬鹿にして、悦に浸っていたあいつは大学に行ったのだろうか。
 今思えば、僕はあいつの一時の娯楽にされたということだ。忘れられれば良いが、負の経験の積み重ねが精神疾患に繋がったことを思うと、重苦しい気持ちにさせられる。
 しかも、もっといえば僕が憎いのは一人だけではなかった。沢山の人間に歪められた、という自覚があったので、向けるところのない恨みを抱えているような心持ちだった。
 一方で、僕はわかっている。恨みを抱えるのが苦しいだけだということを。憎しみが、人を幸せになんてしないことを。
 だから僕は自分の進みたいと思う道を堂々と歩きたい。このろくでもない病気をなんとか治して、健康な体に戻りたい。
 巻き起こる感情の嵐に、僕は一向に寝られなかった。寝られないのは仕方なかったが、突然音が鳴り響いた。
 ジイイイイイイイイイイイイイイィと電動髭剃りの音が部屋中に響き渡る。僕はビクッとして体を起こすと、隣の爆発頭の患者、西尾が電動髭剃りを使ってベッドの上で髭を剃り始めたのだ。
 実は今日の昼に、新しい患者が奥のベッドに入ってきた。相当な歳の老人だったが、今まさに眠っていたところを起こされたらしく、目をこすりながら困った顔をしていた。
「ちょっと西尾さん、今、何時かわかってやってるんですか……?」
 何故この病床にはわざわざみんなが起きる時間を待たずに、電動髭剃りで髭を剃る患者が入院してくるのだろう。僕が抗議すると、西尾はギロリと鬼の如き形相で睨みつけてきた。人を殺さんばかりに憎悪のこもった目つきだった。
「ウルゼエンダヨ……デメエ!」
 怖ええええええっ! と思って僕は言葉を失った。危険を感じて西尾の様子を注視していたが、髭剃りを終えると西尾はまたうめき声を上げながらベッドにあがって眠り込んだ。
 それからも僕はしばらく警戒していたが、特に西尾が攻撃してくる様子もなかったので再び布団に入った。
 こんな凶暴な隣人と一緒にいるのは嫌だった。僕には昔も今も、人に悩まされる運命が定められているのだろうか。
 外泊の日が待ち遠しい。心底、ここにいたくなかった。(つづく)

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佐久本庸介
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