見出し画像

これまでに見た印象的な2つの平和な多様性世界

私は集団に属することが(病的に)苦手
というかほぼ無理なのかな

それでも
これまでを振り返り、充実して意味を大いに見出した集団や組織(?)や世界もいくつかあった
真っ先に思い出すのは、
インドのヨガアシュラムと信州のリトリート

人間関係の良かった職場もいくつかある(要は個人間の尊重がありユーモアのある人間関係があるとこ)

もう10年以上前のインドでは、
早朝から夜までびっしり時間割があり、
瞑想とチャンティングから始まり~ヨガ~チャイ休憩~カルマヨガ(掃除とか配膳等それぞれ分担している仕事)~食事(最高に美味のベジ)~少しの自由時間~ヨガ~食事~夜の瞑想~それが毎日繰り返される
毎日毎時間、
世界中から様々な国籍、年齢の人が出入りして集まり、
同じメンバーで行うヨガの時間も瞑想も、その時1回きり
まさに尊き一期一会

私は女子の共同部屋で生活していた
(今の私はドミトリー等共同部屋は無理…個室で浴室付きでないと厳しいの…)
予定の滞在期間を延長したのは、そこでの時間が尊く充実し素晴らしい発見の連続という経験をしていたから

多分、日本人だけなら共同部屋は難しかったのかな?
夜中まで話している人もいたけど外国語だと「雑音化スイッチをON」にすれば内容が入らず気にならなくなった(今は神経質増してるからどうだろw)日本語なら聞きたくなくても無意識でもひろう言葉が多くて覚醒しちゃう…

常識の違いも、文化の違いと面白がれたり(偏見と先入観ありw)
何かあってクレームをする時でも、みんながハッキリ意見を言うから和やかに言いやすい
シンプル

普段の私なら、プライベートの時間も空間もほぼない状態で1ヶ月も過ごすなんてありえないけれど、
私はユニークな多様性の中で互いを尊重して面白がって過ごすこと、
そこから感じることが楽しいし、好きなのだろうと思う


信州のリトリートでは
憧れだったその地でボランティアスタッフをやらせてもらえた幸運
(前述のインドの前でもう干支が一周してる)

ところが直前にハードスケジュールで現地入りしたのもあってか
体調を崩し、こちらは予定よりも短い滞在になってしまい…
(あまりにも浄化された地で好転反応かもとも思った)
それでもそこのスタッフの皆は、咎めることもなく私を労り優しく、
最初から最後まで私という存在を尊重してくれた
去る時に心のこもったお手紙や手作りのお菓子などをもたせてくれたりして感涙…涙で車窓からの景色もみえないほどだったわ…

もちろん、私にだけではない
そこでは、どんな人も「その人のまま」でいることができて歓迎される
ありのまま
だからそこでも共同生活ができた
相手の個性を認めているから、距離感が変な気の使い方ではない自然な塩梅
日本人同士で(偏見w)これが可能とは、なんと波動と意識の高い集まり!
と感動し、本当にこんな世界が、この全体主義や集団圧力がデフォルトかのような日本でもあるの?!?!とたいへん驚いた
(洗脳解除、視野と世界観広がる)

そのリトリートでは、
有機的な衣食住、自然な暮らしにまつわる物理的な学びも多かったけど、
日本にもこういう場所がある、今後、ココを思い返すだけでも励ましになるだろうという確信
(yesその通り、今も続く)
それは私にとって大きな希望だった

有機的な循環の世界
人も植物も動物もなにもかも自然の一部
ケミカルなものはほとんどなくて、無駄を省き、リサイクル&リユースがあり、本当に心身気持ちよくのびのびと安心していられた
一般常識ではなく(宿泊施設で漂白剤を使用しない感動、天日や熱湯、重曹等の自然な代替法で掃除をした、勿論問題はないどころか良いことづくし)

生命体が気持ちよく共存すること
創造性の宝庫で、そこらじゅうにナチュラルな工夫があった

一見、自由な時間が少ない、やることが多いそれらの地で、
かえって自由と、自分らしくある感覚を感じられた事の経験と学びは大きい
今もそのことが生かされている、素晴らしい恩恵だ

きっと、インドや信州で私がそう感じられたことには、
そこにいた人たちが全員
「自分の意思と希望」
でそこにいたからだと思う
そこでしか得られない経験、時間を「自分で望んで決めて来た」
納得した上での能動的に行動した人達が集っていた
会わなければ去る、強制はない

物理的なスケジュールや仕事の負荷、時間的な制限が多くても、
自分で望んでやってきた場所で、互いを尊重し、認め、受け入れる、
そこから得られること、感じることの多くが充実と幸福に繋がる
そうではないことも学びとして糧となる

そういうところにいると、
人のことを理解し、同時に自分のことも知ることができるんだなと思った

実際、喧嘩している人や、相性の合わない人たちはいたけれど、
合う合わないがあるのも自然なこと、と受け入れていて、
みんながそれぞれの意見や思いをきいて話す、適度な距離をとる、解決のためにちゃんと向き合う
とても健全だなと思った

ちょっとリバタリアニズムっぽい感じというかアナーキズムというか?

私が海外にばかり行くのは、のびのびとした自由、知らない人同士でも挨拶し会話をし(関西や沖縄だとそういうこともあるが)
バックグラウンドの違う価値観、文化、自然、ローカル衣食住.etc
観察と発見、外を発見して内なる自分の発見にも繋がり、
互いに自分らしくいることが日本よりもずっと容易で楽しい!
と思っていたから
(それ以降も今もそう思うけれど、あの時に日本でも例外を見つけた喜び)

いや、日本でもどこでも言い訳せず挨拶でもスマイルでも投げかければいいいのだけど
それでも日本の都市部ではちょっと相手をビビらせてしまうというタイミングや状況も多く…(やはり言い訳かな)

余談だが、
これまでに知らない人からもらった笑顔で最も印象的だったのは、NZのネルソンというかわいくて大好きな街でのこと
詳細はツイートに→

今、すっかり世界が変わり
少なくともしばらくは、いや、たぶん、以前のような海外旅はできない
たくさんの宿やお店はたたまれているだろうし治安も変わったかもしれない

これまで、私が愛して通った国々
ハワイ、アメリカ、アジア数カ国、オセアニア、等
どこもコロ騒動、お注射推進、ロックダウンや多くの強制で酷い状況のよう…
私の好きだった陽気で明るい豊かな自然と文化の居心地のよいAUSはどこにいったの……

多いときは年の半分を海外で過ごしてきて、上記の国々には中長期の滞在で度々訪れ、
短い滞在ならいくつかのヨーロッパへ、中南米は憧れとして
いつか、ゆっくり中南米とヨーロッパへ行こう!と思っていた
今、私が次に海外渡航するのに選択できそうなのはまさに中南米とヨーロッパあたり…
とっておいた理由が今こんな理由で?!

とにかくこのまま観察していって、その時の自分の感覚と気持ちと合致して来訪できる国へ
その時を楽しみに、希望を育てたい




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?