心に余裕がないと良い文章は書けない、のだろうか?
こう見えて、毎月末にnoteの振り返りをしているのだけど、11月の数値や記事に対するリアクションが面白かった。
振り返りをする時はいつも、
・先月の数値との比較(ビュー、コメント、スキ、フォロワー)
・良かったこと
・改善点
これらについてざっくり考えている。
11月は後半から一気に忙しくなったのだが、忙しさに比例するように、公開した記事へのリアクションが悪くなっていた。
それもそのはず。
明らかに文章と向き合う時間(=自分と向き合う時間)が減ったし、そもそも一日の中でnoteについて漠然と考える時間がほとんど無かった。
そんな11月だったが、全体的に8月とほとんど同じ数値で着地したのもまた面白い。
実は、8月も書くことに対してややネガティブになっていて、noteを続けようか続けまいか悩んでいた1ヶ月間だった。
けれど、面白いもので「今惰性でnote書いているな」と思い始めてから、自分の記事に対する反応が明確に変わって、スキの数、コメントの数、明らかにリアクションが薄くなった。
4ヶ月前にも、今と同じような感覚を味わっている。
自分自身が書くことや文章と向き合った時間、その向き合い方は、ほとんどそのままリアクションに反映される。
何も、noteに限った話ではない。世の中にあるサービス、コンテンツのいずれも突き詰めるとそうだ。
質が良ければ当然反応は良いし、質が悪ければ当然反応は悪い。
当たり前の原理原則を再度実感しただけなのだけど、ここで改めて考えたい。
心に余裕がないと、良い文章は書けないのか?
そんな気もするし、そうでない気もする。
確かに、心に余裕があるとじっくり自分と向き合えて、ていねいに言葉を選ぶことができて、結果的に良い文章を書ける気がする。
しかし、同時にこんなことを思ったりする。
心に余裕を持つために、文章を書いているんじゃなかったっけ。
文章を書くから心に余裕を持てる、心に余裕が生まれる、そういう考え方もできるなと。
自分が文章を書き続けられている理由を考えてみると、「文章を書くことで余白を生み出せるから」と答えられそうだ。
文章を書いている時間は、否が応でも自分と向き合うことになる。そのひとときを「余白」と呼んでいて、そこに心地よさのようなものを感じている。
だから、もがき苦しみながらもこうして書き続けられている。
文章を書くことで心に余裕が生まれ、その結果良い文章を書ける時もあれば、そうでない時もある。
ただ、良い文章を書けたかどうかは、自分にとってあまり重要ではない。
それは、僕自身が心に余裕を持つために文章を書いているからだ。
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