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大卒が中卒に!?~英語教育の裏側で~

突然ですがあなたは英語はお得意ですか?

 日本でも英語教育は義務付けられています。私達オバハン世代は中学入学と同時に、今時は小学校から?教えてるんでしょうか。ま、中学スタートにせよ、大学まで入れたら7,8年くらい勉強することになるわけです。

最近では、グローバル化で更に英語の必要性が増して、もっと長い時間を学校教育の中に取り入れていく動きが進んでいるとかいないとか。

なのに、海外では、日本は英語が全然喋れない国民として認識されています。(こちら香港でも皆そう言われます。)

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「日本には日本の英語教育の問題が存在しています」、という言い方もできるかもしれませんが、そもそも英語を話さない民族が英語を話せるようになる為に、膨大な時間と労力を割いて、勉強しなくてはいけない事に疑問を抱いたことはありませんか?

今日のこの記事で言いたい事はズバリ!こちらです↓↓

私の文才のなさで、自分の伝えたい事が埋もれたりぼやけたりする前に先に、これ以上明確に私の気持ちを表現している文章が他にないので、私の大好きなクリエイターさんからの記事をお借りして、明確化しておきます。

***尚、この記事で展開するお話はあくまでも私の持論であり、このクリエイター様の意図とは何ら繋がりはございません。

まあ、もうこちらの素晴らしい記事をご覧いただければ、私の今日の言いたいことは終わりと言ってもいいくらいですが、私からは香港の英語教育という角度から少し触れたいと思います。

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 たくさんの方もご存知の通り、ここ香港は1997年まではイギリスの植民地でした。

 その背景にはアヘン戦争があります。

1843年6月、当時イギリスがインドで製造していたアヘンを中国(清)に輸出して金儲けしていた事が原因で勃発した2年がかりのアヘン戦争にイギリスが勝ち、地図の緑部分を占領。

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初代香港総督にサー・ヘンリー・ポッティンジャーが就任、植民地としてのイギリス統治スタートしました。

ちなみに、香港島のセントラルには今も初代総督の名を冠した道があります。ポッティンジャーストリート(砵典乍街)↓↓

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更に1856年に勃発したアロー戦争(第二次アヘン戦争)の結果、1860年に北京条約が締結されて九龍半島(地図のオレンジ部分)もイギリスに割譲、色々と難癖を付けられながら、香港は地図の紫部分まで少しずつかすめ取られて行きます。

つまり、アヘン戦争に端を発しているという事は、最初から中国が要らないと言ってるものを無理矢理流通させた上での国土略奪です。

もう少し詳しい話を知りたい方はこちらをどうぞ↓↓

そうして、イギリスの植民地になると、学校教育は英語がメインとなりました。

香港の人たちは、自分の国の母国語での教育を受けられなくなります

母国語での教育が受けられない、という事の弊害はたくさんあります。今後もまた追々と触れる事もあるかもしれません。

が、一番シンプルな弊害は、

「授業内容が理解できない。」という事ではないでしょうか。

 私の旦那Kは中卒でした。

 ちなみに香港の教育制度は、中学と高校が一緒にされたような中学が6年生まである、という形です。

詳しくはこちらをどうぞ↓↓

だったら、事実上高卒じゃん、と思われるかもしれませんが、中5になると、全香港一括テスト(會試)が行われ、中6(大学予備科と呼ばれる一年です)に進むか進まないかという選択があります。

(今では進まないという選択肢より、どこか専門学校へ行かせたり職業訓練校へ行かせたり、外国へ送り出したり、学歴を継続して累積できる方法を探します。)

だから、中学、高校の間に一旦区切りをつけるとしたら中5と言う学年が一つの目安となります。

但し、Kの時代は、それより更に前の中3の段階で、「そこまでで進学を止めておく」という卒業でも退学でもない、「修卒」と呼ばれる終わり方がありました。

中三課程を修了したら、次の学期に進む為の費用「留位費」(自分の学校での地位を確保しておく費用を支払わなければ、自動的に学位消失となります。Kはそこで進まなかったわけです。なので完全に中卒です。

しかもこれは「中学課程卒業」ではありません。「修卒中三課程(中三までの課程は修了していますよ)」という事です。ニュアンス的には「中退」に近いものがあるでしょう。

何せ、卒業証書というものがありません。「確かに中三課程を修了しました」ということを証明するものは、その中三の最期にもらった成績表だけなのです。

 Kは勉強嫌いでした。

こんなワケのわからないものを勉強する意義も意欲も自分の中に見いだせず、中学を中退して就職しました。

当時の香港は、中学を卒業すると、手に職をつける為の「学徒システム」というのがあり、「仕事を学問とする学生」的な見習い制度がありました。

これは低学歴の人が、社会に出ても生計を立てて行けるように、というコンセプトで作られたシステムで、この修卒中三課程の生徒も、この対象になりました。

それだけ、授業について行けずにこの中三で中退してしまう人が大勢いたという事です

この三年間の見習い制度で、自分のやりたい仕事の専門知識を一年間学び、後の二年は働いて給料をもらう中で学びます。

 この見習い制度は、3年間の見習い、2年間の補習、3年間の技術員、というプロセスを経て、更に専門知識を身に着ける為に理工大学進学、という形になります。

・・・ ん? あれ? 大学進学

そうです。当時の学徒システムは社会大学で学びながら、頑張れば大学で学ぶチャンスを手にする事ができたのです。

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まず、Kは学徒になって最初の一年、一般教養と自分が見習いになる電気についての知識を学んだ時、

「あれ?何だこれ?めっちゃ簡単じゃん!!」

という発見がありました。習う事が全て超簡単で首席が取れました。

学徒制度の工業学院での授業は、全て広東語でした

英語で習った時にはチンプンカンプンだった数学や物理学や化学などなど、広東語で習って見れば、理解をするのに何ら問題がない事に気づくのです。

中学を辞めて以来、初めて母国語での教育を受けたKは、そこからどんどん今までのブランクを取り返していきます。

三年間の見習いを終え、自分が選択した「電気」はあまり好きじゃないと気づき、そこから建築科に転学。その後、「二年間の補習」と書きましたが、これが、所謂普通の人がそのまま進むであろう中4、中5の課程に相当します。

そう、失われた中学の学歴がここで取り返せるのです

Kは2年間で中5レベル(中卒レベル)の学位を取り戻し、その後の三年間で、見習いから一つレベルアップした「技術員」課程を修了。

その後更にハイレベルの専門資格を取る為、理工大学の夜学に入学し、昼働いて、夜学生という生活を3年送った後、今の仕事の資格を取得しました。

Kの時代に、大量にいた「中3修卒」という低学歴の人たち。

その裏には、ただ普通教育に日本ほど力が入っていなかった、とか、経済的にものすごく貧しかった、とかいう背景だけでなく、植民地化されて母国語で教育を受けられなかった人たちの悲劇が隠されているのです。

それは「英語を学ぶ事を義務付けられる」という生易しいことではなく、数学だって、英語で説明を受けるのです。授業自体「何を言ってるかわからない」状況の中で、そこのケアはないがしろにされたままの植民地教育でした。

まるで庶民が知恵と教養を身につける事がどうでもいい事のように。

 最近、義兄が家で一生懸命英語を勉強している自分の娘を見ながら、「こんな英語を勉強する事に時間を割く事は、国力を落とす為の英米の陰謀だ。どうして英語が国際言語である必要がある。」と怒っているのを聞いて、いかにも中国らしい発想だな、と思いました。

しかし、自分の身に置き換えてみると、中学から大学まで8年間英語を習った私も、それだけの時間と労力を投資しながら、英語は全然話せません。

一方で、中国語は大学4年間だけで十分通用します

もちろん、日本の英語教育が非効率的という問題もあるでしょう。言語を学ぶのに、何故最初から「発音の基礎」を学ばないのでしょう。

私は以前の記事で書きましたが、中国語学科では最初の三か月は、歴史でも文化でも文法でも、全ての先生が発音の練習でした。なのに、英語はABC。

おかしいです。本当に英語を学ぶ義務があるなら、本気で日本人に英語を話せるようにさせたいなら、何故発音から学ばせる事をしないのでしょう。

逆に香港や他の国では、英語教育といえばフォニックスという英語学習方法が普通なのに、日本がこれだけ立ち遅れているのは何故でしょう。

日本は植民地化こそされませんでしたが、戦後ずっとアメリカが介入していたのに?

何故、英語を学ぶ上でのポイントは教えてもらえてないのでしょう。何故アメリカはそんな英語教育法じゃダメだよと、ダメ出ししてくれなかったのでしょう。何故、日本は今尚明らかに確実に英語を身につけられるフォニックスに切り替えないのでしょう。

こんな無駄に時間を浪費させられているだけのようなウワベだけの英語教育で。

この差を考えた時、私は陰謀説にも一理ある、と思ってしまうのです。


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