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「プラごみ」から始まる散文

プラごみ

小学校の頃に、資源分別センターに見学に行った。あの汚いプラスチックからくる強烈な匂いは、未だに覚えている。その話を家に帰ってした日からは、我が家ではリサイクルできるプラスチックを綺麗に洗うようになった。コンビニ弁当の汚れがついたプラスチックフィルムなどを、皿を洗うかのように丁寧に洗うのは正直言って面倒で、時間がかかる。だが、キレイな状態でプラスチックをリサイクル出来るのが理想的なのは想像に難くない。リサイクル工場では、手作業で、リサイクル出来るプラスチックとそれ以外の汚れたプラスチックの分別が行われている。ベルトコンベアの上を流れる大量のプラごみの中から、明らかに汚れがついているモノは人の手で、燃えるゴミとして弾かれる。ということは、私達が家庭で洗わないままプラスチックのリサイクルごみに入れると、リサイクル工場で働く人に皺寄せが行ってしまうということだ。プラスチックをリサイクルをするためには、綺麗に汚れを落とさないといけない。汚れたプラスチックをそのままリサイクルに出す行為は「人への迷惑」にも繋がってしまう。こう考えると、汚れたままのプラごみをそのままリサイクルのゴミ箱に投げ入れるということには、良心の呵責を感じる。

意味はあるのか?

ここでふと、水と洗剤を使って少量の汚れを一生懸命に洗い落とす行為が本当にエコなのか疑問に思った。リサイクルとはよく言うけれど、本当に全体として見たときに、意味があるのか?と疑いたくなってしまうこともある。綺麗に洗浄したプラスチックを回収して、再度溶かして新しい形にして、また製品としてそれらは世に送り出される。このプロセスで、焼却処分するだけよりも、多くのエネルギーが使われているのだとすれば、リサイクルの意義はあまりない事になってしまう。少し調べてみたが、結論から言うとよくわからなかった。汚れの度合いによって違う、としか言えない。しつこい油汚れがついていて、複数回洗剤をつけては水で流してを繰り返さないといけない場合だと、逆に水資源と洗剤の利用によって環境にかかる負荷の方が大きくなってしまうこともあるようだ。こんな事を事細かに考えていたら、毎日が楽しくなくなってしまいそうだが、「自分に出来る最善をやっているという自己満足」で良いのだと思う。

成長?

最近は、自分の中で昔よりも義務感や使命感が各方面で強まっている気がする。このリサイクルの話でも、何も知らなければ、正直どうでもいいと言えてしまうのだと思う。だが、最近の自分にそんなことは出来ない。大学に入ってから、高校までは知らなかったショッキングな事実をたくさん見聞きしてきた。知ってしまった以上は、見て見ぬ振りはしたくない。新しいことを知るのは楽しいことだが、「知らぬが仏」のままの方が気楽だったのか?とも思う。最近、自分は生真面目になったなぁと思う。根っからの真面目な性格なんだろうか?多分そうだ。だが、性格なんてものは人生を通じて少しずつ移り変わっていくモノだと思っている。尖っている時期が、皆それぞれにあるはずだ。自分で言えば、中学の頃、先生の発言にいちいち噛み付いていた。それもクラスの仲良しの男子数人で、グルになってそんな事をしていた。変に正義感が強かった。そして、それがカッコいいと思っていた節がある。だが、そんな反抗的な態度が原因になって集団で呼び出された話なんかは、地元のメンバーで集まる度に「最高のネタ」になっている。何度話しても面白い。皆の約10年前の断片的な記憶を継ぎ接ぎするのが楽しい。今振り返ってよく考えてみれば、ただただダサいだけかも知れない。でも、その当時の自分の価値観を基準にすればその行動は間違っていなかったんだと思う。「段々と歳を重ねるにつれて角が取れる」と祖父と母が言う。中学の頃からしたら、角が取れて自分は成長したのだろう。だが、先程触れた「知らんぷり出来ない生きづらさ」も十年後の自分からすると、えらく尖った極端な考え方に見えるのだろう。だが、「尖っている」は自分の中ではどちらかと言うと褒め言葉だ。大学も残るは卒業論文のみ。尖った社会人になりたい。

「尖ってる」

「尖った」の自分なりの解釈は、「他といい意味で違っている」だ。他人からの評価を気にしないで、自分のポリシーを貫くような生き様は、私(2022年8月現在笑)的には凄くカッコいい。自分以外の人の「尖った人」の解釈が気になってGoogle検索してみたところ、「社会人なのに学生気分すぎる! 「とがり男子」の特徴6つ」(https://woman.mynavi.jp/article/170106-65/)という記事を見つけた。ここには、①素直に謝れない②上司に歯向かう③個性を出そうとする④指摘されても納得がいかない⑤オールで遊ぶ⑥謝罪が下手、の六種類が書かれていた。もちろん、モノは言いようで、言葉はリフレーミングによって肯定的にも否定的にも捉えられる。「リフレーミング」は、中学校一年生の道徳の授業で教わった単語だ。捉え方の枠組みを変えてしまえば、どんなに酷い悪口も、褒め言葉になり得るといった授業内容だった気がする。記事の内容に戻るが、②③④なんかは個人的には、何が悪いのかよくわからない。②歯向いにくい上司にも歯向かえるくらいの情熱はカッコいいし、③個性を出すのはみんな同じではクソがつくほどつまらないから良いことだし、④指摘された内容が自分の中で腑に落ちなくても、納得できたと空返事をするよりはずっと良いし…やっぱり捉え方ですね!(謎の着地点)

最後に

一つ前の記事は、かなり久しぶりということで、見栄えのことをかなり気にして、「最後に」の部分でまとまりがない、だのなんだの書いたのを思い出しました。ですが、今日のnoteではそんなことは気にせずに、どこから出てきたのかわからない書き始め(きっかけは話そうと思えば話せますが、「最後に」で書くのも変なので割愛ということで)から、思うがままに書き進めてみました。そこで気づいたのは、これが書くのが楽しい時の感覚だ!ということです。自分の頭から湧き出てくる内容の不確実性・不規則性それ自体が、何回でも引けるガチャガチャをやっているかのようで、好きです。この表現の仕方は、自分の中でのお気に入りです。私達の人生の毎日にも、予測不能がたくさん散りばめられているわけで、そのランダムな性質ってゲームみたいで面白いと思うんです。あ、気づけば2600文字以上書いてしまっていたので、今日はこれくらいにしたいと思います。(いつも3000は超えないようにしているのですが、文章の長さについて、何かご意見あればコメント下さい!そして、いつも通り、感想もお待ちしています。毎回友人から感想のメッセージがLINEやDMで届く度にかなり嬉しくなっているので、送っていただけると、僕が喜びます。笑)

最後まで読んでくださって、本当にありがとうございます。
また次回のnoteでお会いできるのを楽しみにしています!


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僕のnoteを読んでくださって、ありがとうございます!お金という形でのご支援に具体的なリターンを提示することは出来ないのですが、もしサポートを頂いた際は、僕自身の成長をまたnoteを通して報告させていただけるように頑張りたいと思っています。