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神性をここに見出さない記憶喪失の神さまたち

神性をここに見出さない記憶喪失の神さまたち

こんな言葉が浮かびました。

神性をここに見出さない
記憶喪失の神さまたち。

その状態はまるで、、、

注いでも注いでも
どんどん水を吸っていく
干からびた大地、、、のようだと。

なるほどな…とおもったのが、その「無限に水を吸い上げていく様子」はまるでブラックホールみたいで、、、

でも、それが起きているのも神さまだとしたら

「 そういうことにもなるよなあ… 」

と、ミョーーに納得して

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「わたし」

「わたし」

歳をとって若い頃よりも左脳機能が衰えてきたら
「わたし」ではなくなってしまうのだろうか??

そんなことはないですよね。

あれ、、、??? じゃあ、、、

「わたし」ってなんだろう?

どうも、、、思考が「わたし」じゃないらしい…

目の前にあるその名前を忘れてしまっても、
目の前の「桜」をカラダで感じて、
その美しさや気持ちよさをかんじている「わたし」

まだ「さくら」や「じぶん」という名前も

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お皿の上の《状態》を変えたいとき、、、悟りという絶対的な救いがあってほしいから「悟りがある」と信じたい。けれど、悟りとはなんなのか?ということに気づくと、悟りっていう「別のなにか」があるわけじゃない…となるから、それは言わんでもいいことなんだな…ってこれ、言っている( •ө• )

瞑想していて、世界からの音が聞こえたりする、思考という音も聞こえたりする。

……その二つのなにが違うのだろう?

その二つが「ひとつのかんかく・気づき」というパレットの中で、ぐちゃぐちゃに混ざっているかんじを味わってみると

そのマーブル模様は、どこからどこまでがそれとこれ??

わたしは、ひたすら、どこまでも「うちがわ」だけで生きているのだけど、わたしが寝ている時、意識を失っているとき、または死んでしまったときに「あなたは消えたりせず、ずっといたよ」とあなたがいうなら、それは「わたしが認識できない外側」で、それはあなたにとっての「うちがわ」 #一人一宇宙

ツッコむ隙間がない=ひとつ。

二元性には正誤があるけど、ひとつにはそれがない。正しいという完璧、間違いという完璧、不完全という完璧。

だから、ひとつではツッコミようがない。

“自分”だとおもっているもの

そこには「気づき」も含まれていると思うのだけど、その「気づき」で重なり合っている、共にあるものに気づいてみる。

この気づきは“じぶん”よりも先立っていて、自分=自我が生じる前からあって、自分がいても、いなくても、あり続けてる。

気づいている…というより「気づき」

動詞じゃなくて名詞 誰かが気づいているんじゃなくて「 気づき=ある 」

“自分”というのも、思考とおなじように気づきに浮かんでいるアイディア…

でしかないから“夢”と表現されたりする。

悟っている悟った悟っていない…っていう【動詞】は、やっぱりおかしい。動詞じゃない、行為じゃないから…

すべてが悟りであるということを如実に現している現象があるね…ってかんじ【名詞】

この気づきに 境目 ってある??

気づき、意識、真我、ライフ、これ

これとこれじゃないものってある??っていう非二元ぽい表現がしっくりくる今日この頃

なにかになったりならなかったりってことに気づいている気づき…なので、この気づきに「なる」ってことは不可能…なにかになったりならなかったが起きている全体性そのものに、現れたり消えたりしている映像がなれたりしようがない…というのが「自分は悟らない」と言われている所以な気がする。

思考|に気づいている|気づきそのもの|

思考との一体化=じぶんという現象
それに気づいている=一体化していない
気づきそのもの

普遍の気づきだけが「ある」

なにかを「決めてそれを達成する」ってドーパミンが出て楽しい(快楽)なのだけども、そういうの、もういいやってかんじがしてる。

「誰かを救いたいって自分を救いたいってこと」……以前なら、そういうのエゴだよなって気もしたけど、分け隔てがビミョーなかんじになってくると…祈りとかもそうなのだけど、誰が誰に向かって祈ってるんだか、わからなくなる。