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お皿の上の《状態》を変えたいとき、、、悟りという絶対的な救いがあってほしいから「悟りがある」と信じたい。けれど、悟りとはなんなのか?ということに気づくと、悟りっていう「別のなにか」があるわけじゃない…となるから、それは言わんでもいいことなんだな…ってこれ、言っている( •ө• )
ツッコむ隙間がない=ひとつ。
二元性には正誤があるけど、ひとつにはそれがない。正しいという完璧、間違いという完璧、不完全という完璧。
だから、ひとつではツッコミようがない。
“自分”だとおもっているもの
そこには「気づき」も含まれていると思うのだけど、その「気づき」で重なり合っている、共にあるものに気づいてみる。
この気づきは“じぶん”よりも先立っていて、自分=自我が生じる前からあって、自分がいても、いなくても、あり続けてる。
気づいている…というより「気づき」
動詞じゃなくて名詞 誰かが気づいているんじゃなくて「 気づき=ある 」
“自分”というのも、思考とおなじように気づきに浮かんでいるアイディア…
でしかないから“夢”と表現されたりする。
悟っている悟った悟っていない…っていう【動詞】は、やっぱりおかしい。動詞じゃない、行為じゃないから…
すべてが悟りであるということを如実に現している現象があるね…ってかんじ【名詞】
この気づきに 境目 ってある??
気づき、意識、真我、ライフ、これ
これとこれじゃないものってある??っていう非二元ぽい表現がしっくりくる今日この頃
なにかになったりならなかったりってことに気づいている気づき…なので、この気づきに「なる」ってことは不可能…なにかになったりならなかったが起きている全体性そのものに、現れたり消えたりしている映像がなれたりしようがない…というのが「自分は悟らない」と言われている所以な気がする。
思考|に気づいている|気づきそのもの|
思考との一体化=じぶんという現象
それに気づいている=一体化していない
気づきそのもの
普遍の気づきだけが「ある」
「誰かを救いたいって自分を救いたいってこと」……以前なら、そういうのエゴだよなって気もしたけど、分け隔てがビミョーなかんじになってくると…祈りとかもそうなのだけど、誰が誰に向かって祈ってるんだか、わからなくなる。