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意味の意味とは? −二つの意味 「デノテーション」と「コノテーション」

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「意味について研究しています」

そう自己紹介をすると「意味って、結局何なんですか?」と聞かれることがよくある。

意味

言葉としては特段めずらしくない。多くの人が子供の頃から知っている言葉だろう。この言葉の意味は〜とか、学校などではよく聞く言い方だろう。

ところが意味の「意味」を考えようとすると、これがなかなか謎なのである。日常に、あたりまえのような顔をして存在しているモノが、実は深い深い光で充満した闇への鍵だった。例えて言うならそういう感じだろうか。

前にこちらのnoteで、「意味する」とは「置き換える」ということであると書いた。

意味は「もの」ではない。

意味という「もの」が存在するわけではない

意味の正体は何か特定の形を持ったものとして存在しているわけではない

意味ということは「置き換える」操作である

それは手続き、処理、作用といった動的な過程である。置き換えが生じるところに、意味という作用が生じる

「りんご」という言葉の意味は、あの赤くて丸いモノのことである。

おや、そうなると、意味は「(あの赤くて丸い)モノ」じゃないか?

そう言いたくなるところであるが、違うのである。

何かのモノが、何か別のものの意味の「正体」であるかのように見えるのは、その前段で、置き換えるという処理がすでにおこなわれているからである。「りんご」を発声した時の音声あるいは文字列を、あの「赤くて丸いもの」に置き換えたからこそ、「りんご」という言葉の意味が、あの赤くて丸いモノのこと、になったのである。

なるほど、意味というのは「置き換え」から始まるのか!

と、思っていただけたかもしれないが、実は「置き換え」が意味するということのスタートラインではない

置き換えの前に、もうワンステップ別の手続き、処理、作用の動的な過程が動いている。

それは即ち「区別する」ことである。

例えば、Aの意味がBですよ、という場合、AをBに置き換えることができるためには、大前提として、AとBが別々のものでなければならない

当たり前だろうと思われるかもしれないが、このAとBが別々であるということは、まったくぜんぜん自明なことではない。物事をどのくらいの分解能で(解像度で)区別識別できるかは、個々の生命の、生物の、個体の、神経システムの性能あるいは癖による。

ユクスキュルの『生物から見た世界』にあるように、小さなダニのような生物でも食べられそうなもの食べられなさそうなものを区別識別して、食べられそうなものが接近してきたと思えば、それまでじっとしていたものが飛び跳ねるといった行動を起こす。

個々の生命個体は生まれ持った基本的な自他識別のためのシステムを駆使して、自分自身とその環境世界(環世界)を区別し、その区別を再生産し続けるように、栄養分を取り込み、廃物を外に出すように動き続けることで「生きて」いく。

置き換えるやり方の二大方策 −ふたつの意味

さて、意味の話に戻る。

意味が「置き換えること」であると書いたが、この置き換えるやり方には大きく分けて二つがある。

そして置き換え方の二つのパターンに対応して「意味」にも二つのあり方がある。

◇第一のパターン

第一の置き換えは、ある何かから他の何かへの置き換えを、いつも同じようなパターンで反復しようとする。

いわば同一性へと回帰しようとする反復である。このタイプの反復からは、安定的に再生産されるコード(辞書のようなもの)が形成される。そうして一度コードが形成されてしまうと、そのコード自体が参照項となって、さらに強力に同一パターンでの反復が繰り返され、コードはますますその同一性を強化されるようになる。

そうしてりんごをみかんとは言わないとか、馬を鹿とは言わない、といったレベルの日常の安定した所与のものという外観を呈した意味の体系が形成される。

◇第二のパターン

一方、第二の置き換えは、この第一のパターンが作り出すコードから超出しよう、脱出しよう、とする置き換えである。

それは所与のものという外観を呈した日常の意味を逸脱するような、思いも掛けない「置き換え」を行う。そうして第一のパターンの安定した辞書的な意味の秩序の中には予め書かれていないような、意表を突く言葉と言葉、何かと何かの突く組み合わせを引き起こす

この二つの意味の区別については、これまでコトバということの神秘を徹底的に思考した、さまざまな論者によってさまざまな概念のペアで呼ばれてきた。

例えば、ソシュールによるラングとランガージュ信号(シグナル)と象徴(シンボル)、折口信夫の直接性と間接性、井筒俊彦のデノテーションとコノテーション、吉本隆明の自己表出と指示表出、あるいは中沢新一氏の非対称性の論理と対称性の論理の対比、などである。

デノテーションとコノテーション

井筒俊彦氏の『言語と呪術』(1956)では、この二つの意味のあり方は、デノテーションとコノテーションと呼ばれる

その内容は次のように整理される。

まずデノテーションとは意味の外延的、指示作用的な側面であるという。

デノテーションはある言葉の意味のうちでも「現実の断片」と「直接連結」していると考えられるものであるという。デノテーションとしての意味は「名が正確に妥当するもののみを示す」ものである。ここでいう指示作用とは「言葉とそれが指す物との間にある直接的な関係」が想定される場合の置き換えである。

これに対してコノテーションとしての意味とは、内包的であり、論理的には「何であれ名によって呼ばれるために所有していなければならない複雑な特性あるいは特性の集合」である、という。

井筒氏の文脈からこの部分だけ切り離してしまうと、なんだか分からなくなってしまって恐縮だが、要するになんであれいろいろな互いに区別される事柄が一つにまとめられたり結ばれたりする、といったところである。

井筒氏は、コノテーションを「前論理的な境位」であるとする。

それは「いかなる種類の論理的な精緻化もいまだ受容されていない段階」である。コノテーションはデノテーション的な意味の「表示」や「指示」に先行し、それを可能にする意味生成の相であるという。

名としての言葉(名称語)の使用は,それが正確に何を指示(外延)するか知るまえですら,あるいは(より重要なことであるが)「外延対象」がまったくないときでも,「何か」を示唆したり心に呼び起こす傾向がある。[…]内包=心象がもつこの本来的な不鮮明さこそが,良かれ悪しかれ,言葉の意味の内的構造を作り上げ,われわれの言語を成立させているのである。(井筒俊彦『言語と呪術』,1956)

井筒俊彦氏は内包=コノテーションについて「それ自体では非常に貧弱なもの」であるとする。それは「せいぜいのところ,単なる心象」であり「曖昧で,不確定的で,まったく無力な何か」であるという。

しかし、それは同時に「潜在的な可能性の宝庫」でもあり「条件が揃えば思いがけない分岐線にそってさまざまに展開しうる」ものである。この点でコノテーションは完成した論理的なコード体系をなすデノテーションの意味に先立ち,それを生成する過程ということになる。

後の『意識と本質』でも、井筒氏は言語の伝達機能意味分節的機能を対比し、前者に「不相応な重点が置かれる」ことの難を指摘し、「意味分節的機能にこそ第一の重点」が置かれなければならないと論じている。

この伝達機能というのがデノテーション、つまり同じ様なパターンを反復する置き換えに基づく日常的常識的な出来合いの意味の世界を作り出す。

そして意味分節機能というのがコノテーション、つまり何かと何かを自在に結びつける(結びつけては切り離す)ことで新たな置き換えの可能性を試し続ける意味創造のプロセスを動かす。

新しい意味を発生させる

言語学者の池上嘉彦氏も、その著書『記号論への招待』で、この二つの意味について論じている。

 第一の意味とは、明確なコードの存在を前提する意味作用
 第二の意味とは、新しいコードの提案を含む意味作用、である。

井筒氏の用語で言えば、前者やまさにデノテーション、後者はコノテーションである。

明確なコードの存在を想定した意味の方が日常的な意味であり、そこでは送信者と受信者がコードを共有する。決まったコードに基づいて送信者は意味をメッセージに置き換え、受信者へと送る。受信者はメッセージを送信者と同じコードによって解読し、その意味を再生する。これはクロード・シャノンの情報理論が想定する通信のモデルと同じである。

コードが同じなら、送信者と受信者にとってメッセージの意味は理想的には全く同じになる。

というか、メッセージの意味を送信側と受信側で「同じ」にするために、コードの一貫性を徹底して保持することが必要なのである。

ところが人間同士の間では言葉の意味は同時に複数の異なるコードで解読しうる。言葉を日常のコードとは異なるパターンで組み合わせる時、コミュニケーションは既成のコードを超えた新しいコードの提案を含むことになる

とはいえ日常生活は単一の固定したコードに基づく決まった意味を持つ記号によってその運行が支えられているように見える。

意味はいつも同じ既成のコードによって保証されるべきものとされ、言葉もまた表層的には一義的な信号、デノテーションとしての側面を際立たせる。

言語のコードを管理する社会

『レンマ学』の中沢新一氏が以前から論じている「非対称性の論理」と「対称性の論理」の対比もまた、この二つの意味の相を論じたものである。

(難解とも言われる『レンマ学』については、下記のnoteで詳しくわかりやすく(?)読み込んでいるので、ぜひご参考にどうぞ)

中沢氏はヒトの脳には異なる領域の情報をつなぎ合わせ、異なるものに「同じ」を見つける「対称性」を見出す能力があるとする。この能力は多義的な象徴を生み出す。これが言葉の基層となる。

ところが、一度出来上がった「つなぎ合わせ」方が同じパターンで繰り返され他のつなぎ方が排除されるとき固定的なコードが現れ、対称性の論理は破れ非対称性の論理が始まる

非対称性の論理で動く固定的にコードされた記号は、世界の意味を誰にとってもいつでもどこでも同じもの、一義的なものにする。

非対称性の論理を支える一義的な記号は、都市、国家、あるいは文字の発展とともに数千年で世界を覆い尽くした。20世紀以来のマスメディアでも一義性に基づく非対称性の論理が駆動している。

このあたりの話は『精霊の王』に詳しい。

(ちなみに『精霊の王』についても、下記のnoteで精読しているのでご参考にどうぞ。)

中沢氏は、異なるものを結びつけたり、新たな置き換えの可能性を試したりすることで、新しい意味を生む「対称性の論理」の力を社会の表面に引き出す可能性を探っている

人間に許された自在な「置き換え」の可能性を、固定的なコード=意味の再生産に切り詰めるのではなく、人々の間で意味の変容のプロセスを動かすために用いることを提唱する

このあたりの話は、中沢氏とも関わりの深い安藤礼二氏の『列島祝祭論』にも、その具体的な姿を見ることができる。

あるいは山本ひろ子氏の『変成譜』も、荒ぶる象徴、置き換えの爆発に対して、どうにかこうにかコードの体面を与えようとした思想の一面を捉えている。

さらに言えば、フロイトやユングも、この二つの意味を重ね合わされた階層構造で捉えた所で、その上層階から下層階へ、下層階から上層階への上り下りを、なんとか合理的な言葉による記述にもたらそうとした格闘であるとも言える。

まとめ コードは単一ではなく複数であり、静的ではなく動的である

さて、意味には二つのことがある、という話は、人間が言葉をもって理解することができる世界というものが、出来合いのものではないということを教えてくれる。

いや、出来合いでありながら出来合いではない、といった方がいいか。

根強く出来上がってはいるが、それは置き換えのやり方がいつも同じように反復されてきた結果であり、ミクロな置き換えのやり方を変えれば、変えてしまえば、変えられてしまえば、意味の世界は吹き飛んでしまう。

その「危うさ」イコール「創造性」を、日々他者から受け継いだ言葉を組み合わせて喋ったり書いたりしているひとりひとりの「わたし」たちが、どこまで引き受けられるのか。

どうやらこれは、人類と言語の一番深いところにある問題なのである。

追記

意味の意味については、新たに下記の記事でも詳しく検討していますので、合わせてご参照いただけると幸いです。

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